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第12章 家政夫と嫉妬
08 猫の過誤
しおりを挟む庁舎を出て、車を止めている駐車場に向かおうとすると声をかけられた。
「——相談に乗ってやろうか」
出入口の外。街灯のない暗い場所に人影を認める。
「結構です」
相手の姿を確認しなくても、声だけで認識できた。
「いろいろ一人で考えたいんです」
「一人で考えて答えが出るものか」
澤井は愉快そうにしている。それが腹立たしいし、ここのところなにかと絡んでくるのが嫌だった。彼が絡むと心が穏やかではいられない。一度の関係性がこんなに尾を引いているとは。
「何度もあなたとは、話をしてきましたよ」
「じっくりはしていまい」
「そうですね。しかし、いつも別な方向に行きます。今回もそんな気がするので遠慮させてください」
「そうか? おれはそのつもりだが」
保住はむっとして、乱暴に言葉を吐く。
「何度も言っているではないですか。あなたとは、そういうつもりはないんです」
「そうか。では、おれも何度でも言おう。お前は田口とそういう関係になりたいのか」
「それは……」
——わからない。それは、わからない。
複雑で理解できないもの。それは田口に対する思いだ。
澤井に「お前は田口が好きだろう」と言われた。好きは好きなのだ。なんとも思わない相手ではないことは確かだ。
「友達です」と田口に言われた。
——そう、おれたちは友達なのだ……。友達なはずだ。
友達というものが、いなかったおかげで「友情」と言う気持ちがよくわからない。それが、田口への思いを不明瞭にさせている要因の一つでもある。友情の気持ちがどんなものなのか、わかれば今の気持ちがそれとは同じなのか、違うのかが明らかになるからだ。
——しかし、もし友情ではないと言う結論に至ったら?
人間的には好ましくない澤井だが、保住よりは人の思いを持っている男である。その彼が指摘するのだ。
『恋心』
——恋?
『男と女の間に存在する情愛』
——それが本当なら、大変なことになる。
澤井との関係を知っても、なにも変わることなく接してくれている田口だが。さすがに保住がそんな想いを持っていると知ったら……。
——軽蔑される。気味悪がられるだろう。
「おれの気持ちが、果たしてそこまでなのかどうかは自分でも理解しかねます。けれど、もし、それが本当のことだとしたら……」
「軽蔑されるか?」
澤井は笑う。おかしな話だ。人にどう思われようが関係ない。そんなスタンスで生きてきたのに。生まれて初めて怖いと思った。
——それが、友達?
一度、親しい関係が出来てしまうと失われるのは恐怖なのだと知る。
「面倒なものですね。誰かと親密になることは。嫌われるというのが怖いのですね」
——煩わしことばかり。そうだろうか? 楽しく思えることもある。
田口と過ごした時間は悪くはない。温かくて安心できて、それでいて充実していて。
「面倒だと思うなら、止めてしまえ」
「——え?」
澤井は壁にもたれかかっていた体を起こし、保住の目の前にやって来る。
「面倒なのだろう? 煩わしいだろう?」
「それは……正直。そうです」
「では止めればいいのだ。もうこれ以上、田口を好きになるのを止めてしまうことが一番だ」
「好きになるのを止める——?」
澤井とは話をしたくないと思っていたが、こうして、悩んでいるところを掘り返されると、つい言葉に乗ってしまう。
——聞かないほうがいい。澤井の話は聞かないほうがいい。
頭のどこかで警告する声が響いているのに。身体は素直。苦しさや辛さから逃れたいのだ。
「そんなこと。できるものでしょうか。嫌いになれということですか? 嫌われろということでしょうか?」
「違うな」
「では……」
「田口以外の人間に心を移せばいいのだ」
「——っ」
そこで理解する。澤井の言いたい事。保住は顔を背けた。
「だからといって、あなたとは……」
「そうだろうか」
澤井は保住の顔を覗き込む。
「お前のことを本質から理解しているのはおれだけだ。田口への気持ちも手に取るように分かるぞ。悩んでいる理由も理解できる。こんなにお前を理解してやれるのはおれだけだと思うが」
「……」
——そうなのだろう。そう。きっとそう。
それを認知してしまっているからこそ、黙り込む。この人は多分、保住自身よりも自分のことを理解しているのかもしれない。
「違うか? 面倒ではないはずだ。お前も楽だろう? おれは、お前をよく知っている。お前が好き勝手に振舞っても理解してやれる。しかし、田口は違うだろう。お前の振る舞いに、いちいち傷付いたり、塞ぎ込んだり。田口の考えを知りたいのだろう? わからなくて、苦しむのだ。違うか」
「澤井さん……」
「止めておけ。田口は、《普通の人間だ」
「普通って……ああ、おれがおかしいのか」
疲労が色濃くなると、思考も堂々巡りだ。ぼんやりしていて、霧がかかっているみたいに。
「これ以上、田口を好きになったら後戻り出来ないぞ」
「……」
「来い。保住」
眩暈がした。
良い理由もないが、悪い理由もない。
——面倒だ。どうでもいい。
まただ。
——逃げたい。
面倒な事からは逃げたい。
また振り出しに戻るだけだ。田口と知り合う前の自分に戻るだけ。一人で、誰の支えも得ずに、実力だけでやってきたのだ。それに戻るだけ。
——怖くない。不安はないはず。
澤井の差し出す手を、そっと握り返す。
「いい子だ」
「澤井さん」
「おれは面倒見がいい。安心しろ」
——これでいいのか? きっといい。
田口には、迷惑はかけられない。終わりにしておこう。ただの部下と上司に戻るのだ。それが一番いい。田口を傷付けることもないし、自分も然りだ。そう自分に言い利かせた。
いや、そうするしかないのだ。もう後戻りはできない。
——田口にはこれ以上、迷惑をかけることはできない。
保住は澤井に手を引かれて、歩き出した。自分が選択したことであるというのに、心が落ち込むのはなぜだろうか。自力では這い上がれない沼に落ち込むかのような感覚に、わけのわからない涙が湧いてくる気がした。夜空に瞬く星が、妙に明るく輝いているように見えたのは気のせいではなかった。
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