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第7章 自覚する恋心

05 落ち込み犬と強がり猫

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 こういう気持ちを紛らわすには仕事が一番だ。みんなが帰っても、一人で残って仕事をしたい。仕事に没頭すれば、嫌な時間がどんどん過ぎていくからだ。

「あの。係長。なにかお手伝いしますか」

 みんなが帰宅している中、田口は残っていた。
 彼は、他の職員よりも優秀だ。面倒な説明をしなくても、自分の意図することを理解して、適当に仕事をこなす。いちいち聞きに来ることもないが、でき上がった仕事に間違いはない。だから、——つい、なのだ。そばにあった書類を持ち上げてから、はっとする。

「いや。——いい。今日は帰れ」

「しかし。まだ山のように残っているようですが」

「いや。これは係長としての仕事だ。お前に肩代わりさせられない。いいんだ。先に帰れ」

 ——田口は納得しないだろうな。

 案の定、田口は不満そうな顔をしていた。「自分だってできる、やらせろ」という顔だが、首を横に振って、自分の気持ちを押し殺した。

「すまない。一人で集中したい。今日は大丈夫だ」

「そうですか。邪魔になるようなら無意味です。おれは帰ります」

 田口はそう言うと、ぺこっと頭を下げた。

 ——そういうつもりではない。そういうつもりでは……。

 しかし一度出してしまった言葉を引き戻すことは不可能だ。少し寂しそうに帰っていく田口を見送って大きくため息を吐く。

「バカか。おれは。なにをしている……」


***

 
 暗い廊下を歩いて、田口は大きくため息を吐いた。

「なにかしたのだろうか……」

 ——嫌われるようなことをなにかしたのだろうか?

 自問自答しても答えは見つからない。祖父の件を聞き出したことがまずかったのだろうか。余計なお世話だったのかも知れない。立ち止まって、廊下の壁におでこをぶつけてみる。

「最悪……」

 出過ぎた真似をしたのではないかと後悔していたが、その通りになった。
 田口はもう一度、ぶつける。
 そばを通る職員たちは、彼を奇異な目で見ていくが、声をかけるものはいない。

「ああ……」

 ——せっかく、いい感じで仕事ができていたというのに……つまずいた。

 気持ちが持ち上がらない。ぐらぐらとする足元を踏みしめながら、必死に帰宅する。なにがなんだかわからなかった。


***



 翌日の金曜日。谷口は渡辺に耳打ちした。

「田口、変じゃないですか?」

 それを受けた渡辺は、田口に視線をやってから頷いた。

「心、ここにあらず。上の空で元気がないな」

 そこで、矢部も小さいな声で囁いた。

「こちらもおかしくないですか?」

 彼の視線の先は保住だ。彼もまた、心ここにあらず。ボールペンをくるくるっと回してみては、ため息を吐いている。一緒に仕事をしていて、こんな保住を見たことがないと渡辺は思った。

「なんだか、恋人同士の喧嘩っぽくないっすか」
 矢部のコメントに、少し吹き出しそうになるが、そう笑ってもいられない状況である。渡辺は両腕を組んで「うーん」と唸った。

「確かに。喧嘩だろうか? 矢部の言っていることは一理あるよなあ」

「でも喧嘩しているところ、見かけていませんよ」
 
「谷口の言い分もわかるが。二人で残業していることも多いしな。その時になにかあったのかもしれないぞ」

 三人がひそひそと話をしていても、当事者たちは、まったく気が付く様子はない。田口は同じ文章を打っては消し、打っては消しの繰り返し。誤作動を起こしたロボットみたいだ。

 ——困ったものだ。

「なんだか、まどろっこしいですね」

 煮え切らない態度の田口を横目に、谷口が渡辺に提案した。

「これは飲み会じゃないですか」

「よし」

 彼の提案に、渡辺と矢部は顔を見合わせて大きく頷いた。それから、三人は飲み会の算段を始めた。一通り話がまとまれば、あとは切り出すタイミングを間違えないということだけだった。

 渡辺は、昼下がり。静かになった事務所の雰囲気を見て、その話を切り出すことにしたのだった。

「田口、財務に書類置いて来て」

「あ、はい」

 眠くなる時間は、事務所自体がまどろんでいるような気配だ。そんな中、渡辺の言葉に弾かれたように顔を上げた田口は、のそのそと立ち上がった。そして、そのまま出ていこうとするので、矢部は慌てて追いかけた。

「おい! この書類だってよ」

「あ、すみません……」

 彼はぺこっと頭を下げてから、書類を抱えて事務所を出ていった。

「やっぱ、おかしいわ」

 彼が出ていくのを確認した渡辺は、隣の保住に声をかける。

「係長」

「……」

「係長!」

 大きな声を出した瞬間、保住は弾かれたように目を見開いて渡辺を見た。

「やっぱ、こっちもおかしいわ」

 矢部は呟く。

「すみません」

「いえ。大きな声を出しました」

「えっと。なんですか」

「あの。田口がおかしいんです」

「——係長もね」

 矢部は小さく付け加えるが、保住の耳に届くことはない。

「田口が?」

「ええ。上の空で。精神的なショックがあったんじゃないですかね」

「そうですか? 仕事でトラブル起こしたわけでもあるまいし」

「ですが、おかしいですよ」

「プライベートですか?」

 谷口が口を挟むが、保住は目を瞬かせて首を傾げた。

「さて。おれはあいつのプライベートまで細かくは知らないですし」

「ですよね」

「本当かな?」

 矢部はまた付け加えるが、これもまた保住には気が付かれないようだ。

「期待の新人が動かないのでは困りますよ。今日の夜、飲み会をしますから係長も来てください」

「いや。あの。おれは……」

「部下の一大事なんですよ?」

 渡辺の必死の言葉にも関わらず、保住は顔色を悪くしてから首を横に振った。

「すみません。——実は家族が入院しているのです」

「そうなんですか?」

 そこで渡辺は、はっとした。先日、「保住」と名乗る男性から外線が入っていたことを思い出したからだ。

 ——そうか。あれはその家族の件だったということだな。

 保住の親族から、職場に電話が入るのは珍しいことだったので、よく覚えているのだ。保住がぼんやりとしている理由がそれであると確信した渡辺は、少々安堵の気持ちを覚えた。

「それは、ご心配ですね」

「高齢なもので。いつどうなるのかもわからないし。申し訳ないですが、おれはパスです」

「そうですか……」

 田口の落ち込みの理由は、保住とは関係がなかったということだ。とすれば、今晩の飲み会は、田口だけを誘い出し、なんとか口を割らせて持ち上げてやればいい。喧嘩の仲裁は、少々難儀すると思っていたので、問題は簡単であると認識できて、渡辺はほっとしたのだった。




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