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無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ 第一番

第6話 雪の夜

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「懐かしいねえ。あの家には何度も遊びに行ったものだ。あいつの下手くそなヴァイオリンを聴かされるのが苦痛でね。あはは~。懐かしいねえ」 

 あおの体調のことなど、どこかに行ってしまっているのだろう。栄一郎は無邪気な笑顔を見せる。彼の思考は一気に青春時代に遡っているようだった。蒼は苦笑いするしかない。 

 まさかのことだ。父親同士が友人だったなんて。これはこれで運命的とでもいうのだろうか。

 しかし、あの世界的指揮者の圭一郎がヴァイオリンが下手っていうのはどういうことなのだろうかと蒼は疑問になった。

「圭一郎はね。ヴァイオリニストになりたかったんだ。ヴァイオリン以外はもう神の領域クラスの腕前なのにね。ヴァイオリンだけはダメだったみたい。弦楽器が苦手だと言っていた。だが、彼はやりたくて、やりたくて仕方がなかったんだろうね。息子が生まれると、すぐに『この子は世界一のヴァイオリニストにする』と息巻いてね。もうそれはそれはお祭り騒ぎだったっけ」 

 ——関口がヴァイオリンをやっているのはそういう経緯いきさつがあったんだ……。 

「だけど、押し付けられた子供はたまったもんじゃないよね。最後に電話をもらった時、『おれは間違っていた』ってがっかりしていたっけ。あれ以来、あの子はどうしたものかと心配していたんだけど——。ヴァイオリンを続けているのかな」 

 栄一郎の言葉に蒼は大きくうなずいた。 

「関口の演奏はすごいんです。おれは好き——好きです。あの演奏が。コンクールで文句つけられたって聞いたけど、おれは好き」 

 蒼の言葉に栄一郎は笑った。——と、その時。廊下で人の気配がした。 

「おやおや」 

 栄一郎と海は顔を見合わせた。それから、そっと入り口に視線を向けると、そこには楕円形の眼鏡をかけた男が一人立っていた。 

「関口くんだね? 圭一郎にそっくりだ」 

「関口?」 

 関口は戸惑ったように視線を一度伏せたが、気を取り直したようで、頭を下げた。 

「すみません。お取込み中ですよね」 

「そんなことはないよ。ただの家族の団らんだ」 

 栄一郎はそう言うとうみを促してから席を立った。 

「用事を思い出してね。どうぞごゆっくり」 

「蒼、また来るわね」 

 二人はにこやかな笑みを浮かべると、関口に会釈をしてから出て行った。取り残されると気まずい気持ちしかない。蒼は関口が見られなかった。黙って出てきたようなものだ。後ろめたい気持ちしかない。 

 彼がここにたどり着いたということは、具合が悪かったのを隠していたことがばれたということだからだ。 

 案の定、関口はむっつりとした不機嫌そうな瞳で蒼を見据えている。蒼は視線を逸らすことしかできなかった。 

「この——バカ蒼」 

 押し殺したような小さい声は、病院であるということで抑えられているに違いない。別の場所だったらきっと、大きな怒鳴り声になったに違いなかった。 

「ごめん——」 

「心配ばっかりかけて。本当に! 僕の足を引っ張るつもり?」 

「そ、そういうつもりじゃ……。だって。こんな時期に肺炎だなんて。関口に迷惑かかるし……。黙っていたほうがいいのかなって思って……」 

「だ、か、ら! そういうのがいい迷惑なんだよ。本当に。いい加減にしてくれないか? もう。蒼に振り回されるのは散々だ」 

 ——嫌われた! 

 動悸が止まらない。うつむいていると関口の大きな手が伸びてくる。 

 ——叩かれる! 

 そう思った瞬間。その衝撃はこなかった。ぽんと大きな手が蒼の後頭部に置かれただけだった。 

 ぐっと力を入れられると、うつむいたまま顔を上げることができない。確か、以前にもこんなことをされた。

 あれは定期演奏会の後だったろうか?

 布団を握りしめている自分の両手を凝視して黙っていると、関口の押し殺したような小さい声が頭上から聞こえた。 

「心配かけないで。ちゃんと具合悪いなら悪いって言わないと。余計に心配するだろう。蒼」 

「ご——ごめん、なさい……」 

「蒼が背中を押してくれたんだ。コンクール。聴きに来て欲しいんだ」 

 関口の顔は見えないが、心底心配してくれていたということが伝わってきた。なんだか申し訳なくて、涙が出そうになる。 

 ——友達、失格だ……。 

「おれ、関口の演奏を聴きに行く資格なんて……」 

「蒼ってさ。本当にいじけ虫だよね」 

「いじけ虫?」 

「そうだよ。友達ならね。相手が嫌がってもお節介するもんだ」 

「お節介?」 

「そうだよ。お節介じゃん。蒼って。そもそも。人のことにまで首突っ込んできて。僕のことコンクールまで引っ張りだすんだ。そんな人間、申し訳ないけど、今まで会ったことない」 

「ごめん……」 

 迷惑だったのだろうか。自分はただ、彼の音楽が好きなのだ。だから——。 

「責任取れよな。最後まで」 

 そこでぱっと手が離れる。蒼はそっと顔を上げた。関口はベッドのすぐそばに立っていた。彼の肩には彼の相棒であるヴァイオリンが収まっているケースがかかっていた。 
 彼は彼だ。出会ったときもこんな出で立ちだった。そう。関口けいはヴァイオリニストなのだ。 

「取るよ。ちゃんと最後まで見届けるし」 

「だな。あのさ」 

「なに?」 

「本戦終わったらプラネタリウム行こう」 

 台風の夜。蒼があの家で初めて過ごした時。高校時代の部活動の話をした。あの時、蒼は自分は天文部に所属していたと話した。あれは帰宅部になりたくて、仕方なしに所属した部活で……と説明をしたのだ。 

 その時に関口に「プラネタリウムに行こう」と誘われた。友達と遊ぶことを今までしたことのない蒼は、同年代の彼からの誘いがくすぐったかったことを思い出す。 

 しかし、あれから関口は市民オーケストラの定期演奏会や、このコンクールの準備と忙しい時間を過ごしてきたのだ。 

「い、いいよ。ただし、優勝したらね」 

「なにそのご褒美的なもの。蒼とプラネタリウム行くのって、そんなにレアでもなんでもないと思うんだけど」 

「いいじゃない! 別に。そういうのって願掛けじゃないの? なにかを得るためにはなにかを我慢するもんだよ」

「蒼とプラネタリウム行くのが我慢な訳? 笑わせないで」 

「失礼だね! それはおれにとっても願掛けっていうか」 

「あ、そう。蒼はおれとプラネタリウムに行きたいんだ」 

 なんだかよそよそしかった雰囲気だったのに、結局はいつもと一緒だ。関口がからかいの言葉を吐く。それに蒼が反論する。これがいつもの二人の日常会話だ。 

 蒼は頬を膨らませた。 

「ぶー。いいですよ。いいの。いいの。そういうほうが面白いし」 

「変な顔」 

「うるさいね~。本当に。もう!」 

 大騒ぎになりそうな雰囲気になったとき、入り口の扉が豪快に開いて、マトリョーシカだいの藤田が顔を出した。 

「蒼くん! お静かに!! 他の患者さんにご迷惑でしょう!」 

 藤田の声が一番のご迷惑なのではないかと思いつつも、蒼と関口は口をつぐんだ。 

 ——あれ? 呼吸が楽になった。 

 関口といつもの言い合いをしたら、少し酸素交換が調子がよくなるらしい。今まで喘息の発作がそう悪くなかったのはそういう効果があったというのだろうか。不思議だと思いつつ、隣に立っている関口の横顔を見る。 

 ——もう少しだ。大丈夫だ。関口なら……。 

 窓の外ではいつまでも雪が降り続けていた。関口のコンクールはもう目の前に迫っていた。 

 

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