上 下
57 / 94
独奏ヴァイオリンのための組曲 Op.123 Ⅳ chaconne

第5話 魂の本質に触れてくる音

しおりを挟む




 風呂から上がり、準備されていたトレーナーとジャージを履いてみると、なるほど。あおには随分大きいようだ。 

「どうせ、手も足も短いですよ」 

 そんな独り言で悪態を吐いてから脱衣所の扉を開ける。——と。ふと耳に心地よいヴァイオリンの音が聴こえた。 

 ふと忘れがちだが、彼はヴァイオリニストだ。重苦しいような折り重なっている音の響き。玄関のガラス窓のガタガタと鳴っている音が相まって、重厚な音は更に闇の淵に落ち込んでいきそうだった。 

 ——なに、これ……。 

 ぞわぞわと全身の毛が逆立つような感覚。思わず抱えていた服を落としそうになったのを慌てて抱え直した。 

 ギシギシと音を立てないように足音を忍ばせて居間を覗くと、彼は居間の窓際に立ち、ヴァイオリンを弾いていた。 

 まるでそこに、もう一人の奏者がいるかのごとく、メロディがあちこちから聞こえてくるのに、目を擦って見返すとやはり関口一人しかいない。 

 ——弓が一本と、弦を押さえる腕が一本なのに、どうやったらこんなに弾けるの? 

 素人の蒼には理解できない。音楽の論評もできない。だけど、関口の音はともかく重くて心のずっしりとのしかかってきて、一緒に飲み込まれそうだった。 

 泣きたくもないのに、なぜか涙が自然に落ちてくる。頭ではなにも感じていないのに。 

 ——悲しいんじゃない。なのに……なぜ? 

 涙を堪えたくても堪えきれない。この音は、蒼の頭ではなく、本能、いや魂を揺さぶって来るような音だった。 

 先日、ラプソディで桜の演奏を聞いた。あの時もそう。感情を揺さぶられたのだ。だがしかし。関口のそれは全く違っていた。もっと、蒼の本質まで入り込んでくる音だった。 

 波のように押し寄せては引いていく旋律。小さく沈み込んだかと思うと、大きくなって返って来る。そんな渦に巻き込まれたはずなのに、心は少しずつ落ち着きを取り戻し、そして興奮は音とともに消えていった。 

 じっとそこに立ちつくしていると、楽器を下ろした関口が振り向いた。 

「やだな。上がったなら上がったって——」 

 彼はそう言いかけて言葉を止めた。 

「蒼、お前」 

「ご、ごめん!」 

 蒼は腕で目元をごしごしと拭く。 

 ——演奏を聴いて泣くなんて、失礼だ。 

「ち、違うんだよ。あの——。ごめん。あの、なんて言ったらいいのか」 

 ——違うんだ。そうじゃない。違う。 

 なにが違うのか言葉に出来ない。ただ、蒼は関口の演奏を聴いて湧いてきたこの気持ちを言語にできないことがもどかしい。 

 どうしたいいのだろうか。この気持ちを伝えたいのに。言葉にならない。一人で慌ててもどうしようもできないことだと理解してしまうと、諦めるしかなかった。もう観念して黙り込むしかない。 

 ——きっと変な奴だって思われた! 

 両手で顔を覆って、後悔してしまう。顔が熱くなるのは入浴したせいだと自分に理由をつけていると、関口の声が聞こえた。 







しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました

東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。 攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる! そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。

後宮の記録女官は真実を記す

悠井すみれ
キャラ文芸
【第7回キャラ文大賞参加作品です。お楽しみいただけましたら投票お願いいたします。】 中華後宮を舞台にしたライトな謎解きものです。全16話。 「──嫌、でございます」  男装の女官・碧燿《へきよう》は、皇帝・藍熾《らんし》の命令を即座に断った。  彼女は後宮の記録を司る彤史《とうし》。何ものにも屈さず真実を記すのが務めだというのに、藍熾はこともあろうに彼女に妃の夜伽の記録を偽れと命じたのだ。職務に忠実に真実を求め、かつ権力者を嫌う碧燿。どこまでも傲慢に強引に我が意を通そうとする藍熾。相性最悪のふたりは反発し合うが──

王太子さま、側室さまがご懐妊です

家紋武範
恋愛
王太子の第二夫人が子どもを宿した。 愛する彼女を妃としたい王太子。 本妻である第一夫人は政略結婚の醜女。 そして国を奪い女王として君臨するとの噂もある。 あやしき第一夫人をどうにかして廃したいのであった。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

処理中です...