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エピローグ

63. またきっと貴方を好きになる

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 ——三年後の春。

 二十七歳になった私、イリエス・クラヴリーはこの日、朝のうちから温室に咲く花の手入れをしていた。
 この温室では、私が好きな花が隅々まで咲き誇り、草木が青々と葉を伸ばしている。私が今暮らしているこの屋敷の中でいくつもある、大好きな居場所の一つだ。

「イリエス様、旦那様から言伝ことづてが届きましたよ」
「ディオン様から?」

 ディオンとは、二十五歳になった年に婚姻を結んだ。
 一時期は故人となり、さらには他者に嫁いだことがあるだけでなく身内に罪をなした者がいる瑕疵だらけの私を、クラヴリー公爵家の方々はあたたかく迎え入れてくれた。ディオンのお父上であるクラヴリー公爵閣下が言うには、私が後ろめたく思っていることのすべては私のせいではないのだから、何一つとして気にすることはないらしい。とはいえ、私の胸のうちを言うのなら、どうしたって引け目や負い目のようなものはあった。

 けれど、ディオンが何度も何度も私に「好き」や「愛している」といった想いを甘い言葉とともに伝えてくれたから、正式に婚姻を結ぶときには、ふとしたときに沈みそうになる気持ちもすっかりと薄れていた。
 今は、夫となったディオンと王都にある家で暮らしている。デシャルムの屋敷とも、クラヴリーの屋敷とも違う、二人の城は私の気に入りの場所やものに満ちている。あたたかくて、大好きな家だ。

「今夜、旦那様はご予定よりも早くお勤めが終わるそうです。なので、『今夜は街を一緒に歩いたあとに、夕飯も外で』……だそうですよ」

 ディオンを旦那様と呼ぶのは、ケニーだ。
 私とディオンがこの屋敷へ移るとき、彼を家令に指名したのはディオンだった。

 最初こそ「私がですか?」と戸惑っていたケニーだけれど、私もケニーが家のことを私とともに切り盛りしてくれると助かると言えば、その申し出を受け入れてくれた。

「お誘いは、もちろんお受けしてよいですよね?」
「うん、それはもちろん。でも、ここ最近はお忙しいようだったから、家でゆっくりしていただこうかとも思ったのだけれど……」
「せっかくの旦那様からのお誘い、ですものね」
「……うん」

 五十路をとうに過ぎたケニーがにこにこと言うものだから、私は少し照れ臭くなりながらも素直に頷いた。そんな私の様子に満足げに微笑んで、ケニーは「支度を用意させます」と言って、温室を出ていく。
 あの無表情の男が随分と変わったものだな、としみじみ思いながら、私は彼の背中を見送った。

 あれから数年。この国も、随分と変わった。
 もちろん、良いほうに。

 リュシオン殿下がおっしゃっていたアルファ至上主義の徹底排除はその後、着実に進んでいき、今では古臭い考えを耳にすることはほとんどないという。「アルファは素晴らしい」という考えは多少残ってはいるようだけど、「オメガは劣等だ」という考えは概ね無くなりつつある。

 ほとんどないのは事実だけれど、それでもまだ一部では、アルファ至上主義の考えを持った頭の硬い貴族がいる。嘆かわしいことだ。しかし、高位貴族であり、アルファ至上主義思考の中心人物であったデシャルム侯爵が一家で捕縛されたことで、彼らは鳴りを潜めざるを得ない状態だとも耳にした。
 そういう古臭い考えを持つ者たちが劣勢の状況で、王族方やクラヴリー公爵を含めた三代公爵家が『第二の性による差別意識の排除』を謳い続けたこともあり、人々の意識は自然とそちらに流れていったのだそうだ。

 アルファもベータもオメガも関係なく、その人らしく生きやすい国。
 それが、リュシオン殿下を含めて王族方が目指しているアルノルクの姿なのだと、今では近衛騎士団の副団長を任されるようになったディオンが話してくれた。そのときの晴れ晴れとした顔は忘れられない。私も、そんな国で生きていけるのなら、どんなに幸せかと願っている。

「街か。私も、街へ行くのは久しぶりだから、楽しみだな」

 早く帰ってくるというから、お昼を少し過ぎた頃だろうか。そうなれば、もしかしたら夕食までは時間があるかもしれない。
 もし時間があるようなら、私と彼が好きな本屋に行こう。それから、川にかかる橋を渡った先にある公園までのんびり散歩をするのもいい。きっと夕飯のお店はディオンがすでに予約してくれているか、行きたいところを見繕ってくれているから、私はそれを楽しみにしておこう。——彼と過ごす時間は、何であっても楽しいものだから。

「さて、と。その前に花の世話を終わらせておこうかな」

 楽しげに独り言ちて、私はせっせと花の手入れを再開した。


 + + +


 それからしばらくして。
 騎士服に身を包んだディオンが帰ってきた。

「おかえりなさいませ、ディオン様」
「ただいま、イリエス。言伝は聞いた?」
「ええ、聞きました。ですが、お疲れではありませんか?」

 彼がこうして陽の高いうちに帰って来れたのは、実はひと月ぶりくらいだ。ここ最近は騎士の仕事が忙しかったので、朝早くから夜遅くまで勤めていることもあった。
 やはりディオンの顔には少し疲れが出ているように感じた。心配しながら問えば、彼は微笑みながら答えてくれる。

「きみと、しばらくぶりに出掛けたくて。ダメかな?」

 そう言われてしまうと、否なんて言えない。
 休憩もそこそこに、二人で用意されていた服に袖を通して、私とディオンは馬車も馬も使わずに街へと繰り出したのだった。

 夕食の時間まではまだあって、ディオンが「どこに行きたい?」と聞いてくれたから、本屋に寄ってお互い気になる本を買った。ディオンは同僚にお薦めされたという推理小説を、私は草花の図鑑と詩歌を。それぞれ面白かったら貸し合おうと言いながら、本屋を出た。
 そのあとは、香辛料を取り扱う店を覗いたり、焼き菓子店に寄って使用人たちにお土産を買ったりして、楽しい午後を過ごした。

「久しぶりにのんびりできてるなぁ。イリエスは? 歩き疲れてない?」
「ふふっ、私も街は久しぶりなので楽しいです。まだまだ歩けますよ」

 ぐーっと両腕を伸ばしながら訊ねたディオンの均整のとれた体躯に惚れ惚れしつつ、私も素直な気持ちを伝える。
 夕暮れの街をこうして愛しい人と並んで歩くのは、私にとって贅沢な時間の過ごし方の一つだ。

 茜色に染まる街は、様々な人が行き交っている。
 お勤めが終わって帰路を急ぐ者に、これから酒場に繰り出そうとする若者。幼子おさなごを抱きながら、小さく鼻唄を歌っている可愛い母親の姿はなんとも微笑ましい。
 彼らの目に、私たちはどう映っているのだろう。

(ディオン様は、私にはもったいないほどの方だから……一緒にいるのは不思議に思われるかな? それとも、きちんと夫と妻か、あるいは恋人同士のように見えるかな……)

 そんなことをぼんやり考えていると、私の横を愛らしい笑い声を上げながら小さな子どもが二人、走り抜けていった。
 近所の子どもだろうか? ふわふわの茶色の髪と丸い頬を茜色に照らされながら、元気いっぱい駆けていく。その先には、仲睦まじく並ぶ男性と女性の姿。その前に光景が眩しくて……思わず口元を緩めると、ディオンが私の手をぎゅっと握った。その優しさに心があたたかくなる。

 たまに……本当に、ごくごくたまに、彼との子どもをまだなせていない自分に劣等感を覚えるときがあるのを、ディオンは知っている。
 二人でいろんな話をするなかで、日々の暮らしのことや、将来のことを話すこともある。そこで時折、子どもをまだなせていないことを申し訳ないと私が話すから、彼は気にかけてくれているのだ。

『たとえ、子どもが一人もできなかったとしても、イリエスの価値が失われるわけじゃないよ』というのは、彼の言葉だ。ディオンは、私と一緒に生きていくことを願い、それが叶っているのだから十分に幸福だという。
 もちろん私も同じ気持ちで、彼と人生をともに歩む幸せは代え難いものがあると思っている。けれど……やはりオメガに生まれついたからには、彼の子をなしたいとも思ってしまう。

 そうやって、たまにどうしようもなく焦って、不安で遣る瀬ない気持ちを静かに吐露すると、彼は決まってこう言うのだ。

 ——子どもはできたら嬉しいけれど、焦らなくていいし、イリエスばかりが気負う必要もない。俺にもきっと一因はあるのだから、きみばかりが責任を感じたり、落ち込むことはないんだ。せっかく二人でいるのだから、二人で気持ちを分けあいながら生きることを楽しもうよ、と。

 その言葉を聞くたびに、どうしようもなく彼が愛しくなる。
 今のように彼の思いに触れるたびに、ディオンのことがもっともっと好きになって、離れがたくなる。

 心の底から、どうしようもなく彼が好きだ。
 好きな気持ちは昔から変わらない。いや、以前よりも強く、深く、際限のないほどに、私の小さな心は彼への想いに溢れている。

「今日も、夕焼けがきれいですね」
「ん? そうだね。雲も少ないから、随分高くまで空が見える気がするよ」

 空を見上げる横顔に、とくりと鼓動が鳴る。
 私もディオンも歳を重ね、彼もあと少しすれば三十路だ。けれど、彼の美しさも逞しさも損なわれることはなく、むしろこれからが男盛りだと言わんばかりに……それこそ出会ったときよりも、遥かにきらきらと輝いてみえた。

「夕焼けとか朝焼けとかって、いいなって思わない?」
「ええ。どちらも素敵な景色ですよね」
「だよね。きみの青に、俺の赤が溶け合っていくみたいで、この景色を見るといつも以上にイリエスに会いたくなるよ」

 繋いだ手のぬくもりに、心が呼応する。

「私にとっても、夕焼けは特に思い入れが深いです。あなたと歩いたマオリルの街の夕焼けがとても素敵だったから」
「ああ、あの日の夕焼けは俺も特別な思い出だなぁ。……そうだ。次に長い休みが取れたらマオリルへ遊びに行こうか。夕暮れに染まる街だけじゃなくて、演劇も楽しみたいし、トレヴァー氏やみんなにも会いに行こう」
「ふふふ、それは楽しみです。新しい演目が始まったそうなので、観てみたいと思っていました。でもお仕事のほうは、無理なさらないでくださいね」

 昨年、ついに常設型の劇場を完成させた劇団リベルテへ思いを馳せつつも、無理はしないでほしいと伝えれば、「もちろん」と彼は微笑む。
 ディオンとマオリルの街を訪れるのは楽しみだけれど、彼と一緒に人生を歩んでいけることが何よりの喜びだから。危険な任にも就く職だからこそ、無理はしないでほしいといつも願ってしまう。

 彼とは、長い人生を寄り添っていきたい。

「ディオン様」
「ん?」

 ぽうっと胸に宿り続けている確かな気持ちを信じて、名前を呼ぶ。

「いつも、たくさんの幸せをありがとうございます。これからも、ずっと——あなたといたいです。どうぞ、よろしくお願いしますね」

 大好きです、とはにかんで、そっと背伸びをして頬に唇を寄せた。
 少しだけ驚いた様子の彼がなんだかおかしくて、愛おしかった。

 きっと何度も人生を繰り返しても、この気持ちは変わらない。
 何度だって、何が起きたって、私はディオンを好きになる。だから……。

 十回目の人生で、またあなたを好きになれてよかった——。


 END.





(2024.8.10 後書き)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!

イリエスが不憫すぎて、つらい読み物になってしまったかなと反省しつつも、不憫受けがめちゃくちゃ好きなので、作者の好みを詰め込みました。
少しでも面白かった、楽しかった、イリエスとディオンが幸せになって良かった、と思っていただければ幸いです。

よろしければ、♡や感想などいただけますと励みになりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

それでは、また別の作品でお会いしましょう。
もしかしたら番外編を書くかもですが。

またどこかでお会いできることを願って。
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