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第五章

62. 幸せの奇跡

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 結婚? 私が? 誰と? ——ディオンと?

 そんな冗談、あり得るのだろうかと、ついまじまじとディオンを見つめる。
 しかし、その言葉以上に彼からはなく、ただじぃっと私を見つめるだけ。その真摯な眼差しに、いよいよこれは冗談ではないのかもしれない、と考えが及びはじめたところで、心臓がばくばくと拍動を速めた。

「………………えっ、と?」

 そんな間抜けな声しか出てこなくて。
 私の混乱をとっくに見抜いたディオンは、私の頬に手を添えて、切々ともう一度言葉を紡いだ。

「結婚してほしいんだ、イリエス」
「ど、どなたが……どなたと……」
「もちろん、きみが俺と。ダメかな? イリエスはしたくない? 俺の提案はきみにとって、嫌なものだろうか?」

 私が、ディオンとディオンと結婚——。

 その響きに目眩がしそうで。
 けれど、ようやく回った頭で今度こそ、私は彼の問いに答えた。

「いいえ……っ。嫌では、ありません。とても……とても、嬉しいです」

 嫌なわけがない。
 だって——もう、ずっとずっと、恋い慕ってきた相手だ。

 そして、今では私の恋人でもある。

 だから、ただそれだけで奇跡だと思っていた。
 想いを通わせ、心を重ねることができただけで、十分に幸せだと思っていたのに……それ以上の幸せがあっていいのだろうか。

「じゃあイリエス。俺と結婚してくれる?」

 もう一度紡がれた言葉に、素直に首を縦に振れたらいいのに。
 なまじっか不幸せな人生が普通だった私は、素直に頷くことができない。

「ですが、ディオン様。私は……私は、すでに瑕疵のついた身です。まして血のつながる身内は、今や罪人。あなたのような貴い方に嫁ぐような者ではありません……。あなたには、いつかもっと……もっと素敵な方が嫁ぐべきではないですか」

 彼の申し出は嬉しい。とても嬉しいのだけれど、だからと言って鵜呑みにしてはいけないとも思う。
 ディオンを信じていないわけではない。愛していないわけでもない。ただ……これ以上は過ぎたる願いだと思ったのだ。

 しかしディオンは、きっぱりと告げた。

「俺はきみがいい。きみがいいんだよ、イリエス」
「ディオン、さま……」
「俺の言葉、信じられないかな?」

 そう言われて、今度こそ私は首を横に振ることをやめた。

「いいえ……っ! いいえ、ディオン様。嬉しいです」

 また同じ反応をしてしまう、自分の表現力の無さに呆れる。
 けれど、もう何も言えなかった。

 いつしか頬を涙が伝い、目の前の愛しい相手の姿が潤む。

「いいのですか……? 本当に……私で……?」
「きみがいい。きみじゃなければ嫌だよ」
「でも私が与えられるものは、何もないのに……。あなたに貰ってばかりで……」

 どうしたらいいか、わからない。
 わからないけれど——彼がくれた幸せを手放したくなかった。

「何もいらないよ、きみだけが生きていてくれれば。……これまで、何度も助けてあげられなくてごめんね。でも、今度こそ、俺は後悔したくない。——きみを幸せにするし、きみと一緒なら俺も幸せになれる。俺の願いを叶えてくれるだけで、もう十分にきみから素敵なものをたくさんもらっているよ。ありがとう、イリエス。たくさん、たくさん幸せになろう」

 ぎゅっと抱き締められて、それから唇に口づけを一つ。
 ただ触れ合うだけのそれが、とても甘くて、蕩けそうで、全身がふわふわと羽根のように軽くなる。

 どのくらいそうしていたのか。
 焼きたてのスコーンも、淹れたての紅茶も、もうとっくに冷めてしまったけれど。二人の間に流れる空気はいつまでもあたたかく、ずっとずっと彼の腕の中で幸せを噛み締めていた。

「——ディオン様」

 抱き締めてくれる恋人の名を愛おしさをこめて呼ぶ。

 十回もの繰り返される人生で、私はディオンのことをずっと忘れたかった。
 嫌いになって、存在も忘れて、彼と言葉を交わしたことも触れ合ったことも。何もかもを忘れたかった。

 けれど、何度試しても上手くいかずに、いつも心のどこかには彼への想いが燻っていた。まるで彼のことを忘れてはいけないと戒めるように、大切なことを失わないように、目に触れずにいても彼の存在が私の中で消えることはなかった。
 ずっとずっと、大切な人だった。

 今さらながら、それほどまでに彼のことを想い慕っていたのかと、自分でも驚くほどだ。ディオンのことを恋い慕っている自覚はあったけれど、今日この日、このときまで、私の中で彼の存在はこんなにも大きなもので……添い遂げたいと思うほどに、彼を愛していたなんて。
 呆れるほどの想いの強さを、ずっと知らなかった。

(もしかしたら、私が死んでもなお、死ねずに生を繰り返していたのは、この貪欲さゆえだったのかもしれないな……)

 不可解な『繰り返し』の条件も原因も、決定的な証拠はない。
 ディオンと話したときは、母の願いに魔力が宿り、いつかのディオンの願いとともに思いもよらない魔法となって私の身に降りかかったのではないか、という予想を立てた。

〈今世〉で命日を迎えたあと、死にかけの私が見た夢の中で会った母も「ごめんなさい」と謝っていたから、その予想はおそらくほとんど当たっているとは思う。
 けれど、もしかしたら……その予想は少し違っているのかもしれない。

 実際のところは、私のこの想いの強さ——好きな人と結ばれて幸せな人生を送ってみたい、という欲深い願いが大きな力を持って、私自ら、生き死にのことわりを歪めてしまったのかもしれない。そうも思ったのだ。

(それほどまでに……私は、彼を求めていたのかな……)

 今はまだ、この考えをディオンに伝えられるほど私は強くない。
 狡く、浅ましいとは思うけれど、こんなに重い感情を向けられたことでディオンが私に愛想を尽かしてしまったのなら……。そう考えるだけでも平常心ではいられない気がしたから。だって……せっかく彼が最大限の愛を囁いてくれて、叶わないと思っていたことが現実になろうとしているのだ。この幸せをもっともっと、噛み締めていたい。

 弱くても、狡くてもいいから……贅沢な未来を見て、生きてみたい。

「この先——今世で私が死んだとして、おそらく〈十一回目〉を迎えることはないと思っています。思ってはいますが、それが本当かは……私が命を落としたときにしかわかりません。『命日』は過ぎましたし、私はとても幸せだから、きっと繰り返さないとは思うけれど……少しだけ。ほんの少しだけ、不安がないわけではないのです」

 胸のうちに隠した重すぎる欲の代わりに、私は心に巣喰うもう一つの暗い気持ちを吐露する。自覚のない執念の末に得たかもしれない幸せを噛み締めていたいという自分善がりな思いのほかに、不安があるのは事実だ。

〈今世〉は、これまでのどの人生とも大きく異なる未来を歩み始めている。
 だから、私の命がどうなるのかも、繰り返しが再び起きるのかも、未知数。

 ディオンと心を重ねていける期待とは裏腹に、どう転ぶかわからない『これから』が恐ろしくもある。もしかしたら、やはり幸せは長続きせず、乗り越えることすら困難な過酷な出来事が待ち受けているかもしれない。幸せというものがこんなにも近くに感じられてしまったから……さらなる幸せを得られると言われてしまったから、『これから』に過度な期待をして——裏切られたら、どうなってしまうのだろう。

「あなたがこんなにも真摯に向き合って、私に多くを与えてくださって、もうたくさん幸せにしてくださっているのに、私はいまだに臆病ですね。ごめんなさい」

 そんな不安があることを告げれば、ディオンは困ったような、寂しげな目を見せた。

「気持ちを教えてくれて、ありがとう。そうだな……俺はまだ、きみの不安はすべてをわかってあげられていなかったね。不甲斐なくてごめんね、イリエス」
「ああ、いえ……! そうではないのです。ディオン様は、いつも私に寄り添ってくださっています……! そうではなく、私がお伝えしたいのは、ええと……」

 抱き締められ続けていた体をぱっと離して、私は慌てて首を振った。

 自分の想いを伝えることは、とても難しい。
 まして長年、まともに人付き合いをしてこなかったから、話の順序をつけるのが苦手なのだ。自分の心のうちを話すこともしてこなかったから「たくさん伝えたい」という気持ちばかりが先行してしまって、うまくまとまらない。

 焦る私に気づいてくれたディオンは、「ゆっくりでいいよ」と優しい笑みを向ける。——この笑顔が、とても好きだ。昔は苦手にすら感じた、柔らかなルビーが煌めく、きれいな笑顔が言葉に言い表せないほどに好き。
 きっと、この笑顔が苦手だったのは、こんな私を許してくれているかのような慈愛に満ちていたから。でも、素直に好意を受け取れなかったあの頃とは違い、今は素直に甘えていいのだと思える。

 ふう、と心を落ち着かせて、私はディオンに向き合った。
 抱き締められていなくても、彼をずっと近くに感じている。

「私があなたに伝えておきたいのは、私の心の在り方……。先ほどお伝えしたとおり、私は臆病で、不安で、まだ他の人のように『普通の幸せ』を考えるのに慣れてもいません。こうやって、あなたと会話をして、肌に触れて、日々を暮らしていることもまだ夢のように思うばかりです。でも、だからでしょうか——今は、とても『死』が怖い」

 あんなに慣れきった『死』が、今はとても恐ろしい。
 でも、だからこそ——。

「ディオン様と心を通わせた『この人生』を、振り出しに戻したくありません。この幸せを失いたくない。だから…………だから私は、『生』をまっとうしようと思っています。他の誰でもなく——あなたとともに」

 斜め上から私を見つめる、赤の双眸。
 その双眸に、綺麗だと何度も褒めてくれた青い瞳で見つめ返す。

「好きです、ディオン様。あなたのことが、とても。だからどうか——私と最後のひとときまで、一緒に生きてください」

 どんなに欲深くても、この幸せを手放したくない。
 あなたと一緒に生きて——命尽きるときに「幸せでした」と笑顔でいられたら、それはどんなに幸福だろうと……そう願ってしまうから。

「——もちろんだよ、イリエス。きみにたくさんの幸せを贈るから、俺と一緒に生きていこう」

 すっと伸びた手が頬に添えられ、自然と寄せられる見惚れるほどの美しい顔。何度だって心を奪われる、愛おしい男。
 重なる唇は熱く、甘く、幸せの味がした。


 ◇◇◇

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