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第五章

61. 役目を終えて、今

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 紙切れに綴られた言葉から視線を上げると、何か言いたげなディオンを目が合った。

「その言葉、覚えてる?」
「はい。母の日記の一文、でしたよね」

 この言葉は、小さな魔法を……という、はっとさせられる文とともに綴られていた最後の言葉だ。あの日記はどのページも、どの言葉も、私への愛情に満ちていたけれど、特にこの言葉には強い愛と祈りのようなものを感じていた。
 母と過ごした時間はあまりにも僅かだったけれど。ともに過ごしたときに確かに感じていた愛情を、あの日記は長い時間を経て、あらためて実感させてくれた。そこに残されていた、やさしい言葉。

「これは俺の推測……いや、妄想に過ぎないのだけれど」

 そう前置きしたディオンは、紙片を握っていた私の手を優しく掬って、話を続ける。その手は優美でいて男性的で、頼り甲斐を感じた。愛情深い、男の手だ。

「『イリエスを幸せにしたい』という魔法が、母君の日記にかけられていたんじゃないかな。そして、それからしばしの時を経て……かつての俺も、同じような願いを抱いて。でも、きみを幸せにできなかった後悔を、あのもう一つの日記に綴った。そうやって、きみのことを想って記された二冊の日記が、きみを幸せにするために起こした奇跡——それが、イリエスが死に戻りを繰り返していた理由なのかもしれない」
「……私を、幸せにするために?」
「そう。虐げられるための人生じゃなくて、好きな人と幸せに——穏やかで、楽しく暮らせる人生になるように」

 そう話すディオンの声はひどく柔らかかった。
 一方の私はといえば、突拍子もない話にしばし、目を瞬かせる。

 ディオンの想像だというそれは、たしかにかなり妄想じみた話だ。
 母が書き記した「息子に幸せになってほしい」という言葉と、かつてのディオンが書き記した……友人の域を僅かに超えた私への後悔。その二つが大きな願いや祈りのようなものになって、私を絶対的な死から遠ざけてたというならば——なんという想いの強さがそこにあったのだろう。

 そういえば、ディオンの日記にはこう記されていたのではないだろうか。

 ——彼との日々をもう一度やり直させてほしい、と。

 母のささやかな願いが小さな魔法を生み出して。その魔法が何らかの方法でディオンの日記に力を与えて。そして、その力が「イリエスが幸せになるまで何度でも生を与えた」と言われたのなら、そんな気がしてきさえする。だって少なくとも、母が生きていた頃は私は彼女からの愛情を感じていた。それに——真相はわからないけれど——かつてのディオンが私に優しくしてくれていたことも、私はもう十分に理解している。

 すでに会うことはできない二人が綴った言葉と、いま目の前にいる優しい恋人が紡いだ言葉の一つ一つを、私は頭の中で大切に、ひとひらも逃がさないようにと繰り返して、繰り返して……そして、ふと何か腑に落ちた。

「ああ……だからか」

 静かに言葉を待つディオンに、私はそっと息をつきながら続けた。

「あの日記が消えたとき、役目を終えた——みたいな……そんな切なくて、でも清々しい空気を感じたんですよね」
「役目を終えた?」
「はい。日記の役目と言いますか、母が自分に課していた役目と言いますか……。馬鹿げた想像なのですが、もしディオン様のおっしゃるとおりなのであれば、今の私を見た彼女がきっと『今世は大丈夫だ』と思ってくださったのかもしれないなと思いまして。——あなたがそばにいて、私は今、とても幸せですから」

 言葉にすると、とてもシンプルだと思った。

 今までずっと死にたくて、終わりにしたくて、真っ暗な道をひとりで歩いても歩いても、なお見えないゴールに向かって足を動かせた言われ続けているような、どうしようもない息苦しさや閉塞感があった。あるいは、底のない冷たい沼にずぶずぶと沈みながら、苦しさに喘いでも浮上することすら許されないかのような辛苦と抜け出せない焦りが私の心を埋め尽くしていた。
 でも今は、そういった私を苦しめるものはもう何一つなくなって、これまでに一度も経験したことのない心穏やかな暮らしをしている。私には縁遠かった、平穏な日常がある。

 ——私はいま、幸せだ。

 これまでに、つらいことはたくさんあって、酷いこともたくさんされて、ずっとどこもかしこも痛かったけれど。今はあたたかくて、ひたむきな愛情を向けられていることを実感できている。

「ディオン様、私はとても幸せです。母とあなたのおかげですね」
「そうか。……そうなら、良かった」

 もう一度、素直な思いを伝えると、赤い瞳が僅かに潤んだような気がした。
 けれど、それを誤魔化すようにしてディオンはいつものような明るい笑顔を浮かべてみせる。そして、私が何か言葉をかける前に、彼は続けざまに言葉を継いだ。

「日記は消えてしまったけれど、イリエスが望むのなら、この紙片やきみが大切にしている母君の形見の手鏡、あとはあの屋敷の部屋を魔法師やまじない師に見てもらうこともできるけれど、どうする? もしかしたら、さっき俺たちが見た魔法が何だったのか、わかるかもしれないよ。きみの苦しかった幾度もの人生の原因も究明できるかもしれない」

 優しく問う彼に、私は微笑んで、躊躇うことなく首を横に振った。

「いいえ、ディオン様。真実はもう、いいのです。今までの『死んでは戻る人生』の原因が母の魔法によるものだったとしても、そうでなくても……もはや過ぎたことには違いありません。それに——母は、私を苦しめたくて人生をやり直させたわけではないでしょうから」

 二十三歳で死んでは十四歳に戻って、人生を繰り返す。
 オメガとして虐げられながらも、私自身ができることなど何もなく、ただただ「今度こそ永遠に死ねますように」と願いながら、無為な時間に神経を擦り減らす。
 それは、昏く苦しい日々だった。まるで呪いのような毎日だった。

 でも、母は『幸せになってほしい』と願っただけ。
 死んでは戻り、つらい人生を繰り返させたかったわけではない。

 何の因果か、誰の思惑か。
それこそ、私はまったく信じていない神という存在による悪戯なのかわからない。
 けれど、母が起因しているとしたら、その根っこにあるのは呪いでも恨みでも憎しみでもなく、私に対する純粋なまでの愛情だ。

 ——わたくしがいけないの。わたくしが、あんなことを願わなければ。

 母がそう言っていたのは、ディオンに助け出されてから昏々と眠り続けていたときに見た夢の中だったろうか。
 あのとき、あの夢に見た母がいっそ痛々しいほどに私に謝罪の言葉を繰り返していたのは、想定していなかった生死の狭間に私を捕えてしまったことへの謝罪。……そういうことだったのかもしれない。
 けれど——だとしても、母を責めようだなんて思わない。

 それは、日記に後悔の念を綴ってくれたディオンに対しても同様だ。

「私の『命日』はもう過ぎました。それに、もし母のささやかな願いが届いたものだとして、意図せぬ力の暴走であったという真相を掴みたくはありません。すでに亡くなっている彼女と、あなたであってあなたではないディオン様の苦しい胸のうちを、不必要に暴き立てたいわけではありませんから」

 二人の想いが届いたのだから、それでいい。

「なにより——今の私のそばには、あなたがいます。これから私に何が起きようとも、もう一人で抱える必要はないでしょう? それにもし仮に、今世で終わることができなくても、次はあなたに助けを求めることができます」

 もちろん、〈十一回目〉などやってこないことを願っているけれど。
 もし今後、私が命を落としたとして、目が覚めたときに十四歳の自分に戻っていて、あの陰鬱な寝台の上にいたとしても。次は心を殺さずに、信じられて頼れる相手に「助けて」と言えるだろう。そうすれば、つらい日々もいつか変わる。それを私は知っている。

 私が思いのほか力強く返答したからか、ディオンは呆気にとられた顔をしていた。けれど、すぐに我を取り戻して、長椅子の隣に座る私の体をぎゅっと強く抱き寄せた。
 私よりも高い体温が、離さないとばかりに私の体を包み込む。それは、とても心地の良い温度だった。

「イリエス……。ああ、そうだね。ずっとそばにいるよ。今まで、きみのそばにいられなかった俺とみんなの分まで、ずっと」
「はい。ありがとうございます、ディオン様。母とかつてのディオン様と、そして目の前のあなたからの愛情をたくさん受け取ることができました。そんな私は、とても幸せ者ですね」

 彼の胸の中で、しみじみとそう思う。
 これまで不幸のどん底にいたには違いないけれど。
 今は、とても、十分に幸せだ、と——。

「ああ、まいったな……」

 私があたたかな幸せに包まれていると、ディオンは耳元で困ったように呟いた。

「ええと……困らせることを言ってしまったでしょうか?」

 先ほど彼は「そうだな」と同意してくれたように見えたけれど、やはり何かディオンの気に触ることを言ってしまっただろうか?
 よくよく考えてみれば、消えたのは母の日記だけでなくディオンの所有物であった、あの不可思議な青い日記もだ。私は魔法使いや呪い師に調べてもらう必要はないと思ったけれど、ディオンは調べたかったのかもしれない。

 なのに、彼の意見も聞かずに私の一存で決めてしまおうとしてしまった。それについて、何か手違いを起こしてしまったのかもしれない。

「あ、あの、ディオン様……」

 慌てて謝ろうとしたところで、ディオンは「そうじゃないんだ」と私を抱き締めながら小さく首を振る。さらさらとした金の髪が額や耳元に触れて、少しだけ擽ったかった。

「今日言うつもりはまったく無かったのだけれど、言わない選択肢が浮かばなくて。だから——イリエス、いいかな」

 それは疑問のようでいて、決意のような言い方だった。
 強く抱き締めていた腕を緩めたディオンは、私の両肩を両手で掴んで、私と真っ直ぐ目が合うように向き合う。

 きらきらと煌めく赤の双眸と、少し戸惑いの色を浮かべた青い双眸が二人の間で交差した。

「イリエス、俺と結婚してほしい」

 澱みなく告げられた言葉に、私は零れ落ちそうなほどに目を見開いた。

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