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第五章

56. もう一人の記憶

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 イリエスが五十日間の長い眠りから目覚め、順調に回復してきたある冬の日。
 ディオンは、クラヴリー領内にある教会へと来ていた。

 近衛騎士を拝命している身ゆえに本来であれば王都に居を構え、王宮や王族の行く先々での任を務めるのがディオンの役目ではあるのだが、ここ半年ばかりは生家のある故郷を拠点として王都と行ったり来たりを繰り返している。

 その理由は二つ。
 一つは、リュシオン殿下の命により、捕らえたデシャルム家の者たちの監視と、彼らの調査のため。

 イリエスを救出した半年ほど前に数多の恐喝と暴行の罪により捕らえられたデシャルム侯爵一家は現在、クラヴリー領内にある領主管轄の貴族牢に勾留されている。
 侯爵家の者がほぼ一家全員捕縛されたというのは、さすがに外聞が悪い。アルファ至上主義を苛烈に謳う彼らを何とも言えない気持ちで見ていた者たちも、それなりに騒動にはなった。

 そういう事情を含め、此度の件は他の貴族はもちろん平民に対しても影響が大きかった。そのため、王家と貴族院はデシャルムたちを王都ではなく信のおける臣下であり、貴族院の中でも発言力があって、かつ穏和派のクラヴリー公爵家に任せたのだ。
 勾留されている彼らが不穏な動きをしないよう見張ること。そして、イリエスに対する長年の加虐を調査し、実態を明らかにすることが、リュシオン殿下の護衛も任される近衛騎士で、かつ三大公爵家の次男でもあるディオンに課された任務であった。

 厳罰を望まないというイリエスの願いに沿うために、彼らは今なお、その命を繋ぎ止めている。
 ディオンとしては、命を刈り取らずとも腕の一本や二本、斬り落としてしまえばいいのにと思っているのだが。とはいえ、もし彼らに厳しい処分を下したことが巡り巡ってイリエスの耳に伝わったとき、苦しむのはイリエスだろうから、ディオンは沸々と湧き上がる怒りをどうにか鎮めて、王家からの沙汰を待っているところだった。

(忌々しいが、イリエスを苦しめたいわけじゃない。優先すべきは、彼だ。それを忘れるな、ディオン)

 気を抜くと、イリエスの家族に対しての憎悪でどうにかなりそうなのを、ディオンは随分と健康に近づいてきた青年の顔を思い出して、やり過ごす。そして己のもう一つの使命を思い起こす。

 もう一つの理由は「イリエスについていてやれ」というリュシオンの好意を受けてのものだ。
 まあ好意というか、リュシオンはディオンに「これは命令だ」と告げたので、こちらの理由もまた任務には違いないのだが、ディオンはリュシオンが情に深い人物であることをよく知っている。

 なにせ、ディオンにとってリュシオンは、例の日記をうけて内情を調べるために近づいたデシャルム侯爵家嫡男レイナルドと友人になるよりずっと前からの、正真正銘の友と言える相手だからだ。

 そういう理由で、ディオンはイリエスのことを一番に考えながらクラヴリー領で慌ただしい日々を送っているのだが、今日は半日ほど時間ができたので久方ぶりに教会へ足を運んだのだった。

「これはこれは。ようこそお越しくださいました、ディオン様」

 にこにこと笑みを浮かべて歓迎してくれたのは、この教会の司教だ。

「連絡もなしにすまない。時間ができたから祈りを捧げようと思ってね」
「いえいえ、いつであっても歓迎しますよ。さあどうぞ」

 教会は小さなものを含めれば各地にあり、王侯貴族はもちろんのこと、平民であっても一生に何度かは訪れる場所である。この世に生を受けたとき。七の歳を迎えたとき。成人したとき。そして……命をまっとうしたとき。そのほか、信仰篤い者であれば熱心に訪れて祈りを捧げていく。
 ディオンは特別に信仰が篤いほうではないのだけれど、それでもあの日記を読んでからは時間ができたら教会へと足を運んだ。見たことのない神に祈るような殊勝な柄ではないが、それでも何かに祈らずにはいられなかったのだ。

 その祈りが届いたかは定かではないが、命を落としてもまた逆戻りしていたイリエスの惨憺たる日々は、今年の春にようやく終わりを告げた。

 実際にイリエスを救い出したのは、ディオンだ。
 だから、神が彼を助けたわけではないことはディオン自身が一番よく知っている。それでも、自分の知らない、見えない力がイリエスの命を繋ぎ止めてくれたのかもしれないとは思うのだ。——それほどギリギリのところでイリエスは命を繋ぎ、そして奇跡的に目を覚ましてくれたから。

(イリエスがこのまま元気になってくれるように。そして、何の憂いもなく、幸せな暮らしができるように——)

 講壇前に並ぶ椅子に腰かけ、手を組み、祈る。
 太ももの上には、イリエスへと導いてくれた、あの青い日記帳がある。

 大して神を信じていない自分が、その神とやらに何かを願うのは厚かましいかもしれない。しかし、自分のためではなくイリエスのための祈りなら、神だってそう目くじらは立てないだろう。
 彼は、十分につらい目にあってきた。今度こそ幸せになってもいいはずだ。

 そして、できることなら、その幸せの中に自分がそばにいたい——……。

『イリエスを助けてあげられなかった自分が情けない……』

 ディオンが心をこめて祈っていると、不意に近くで声がした。
 誰だろう? と瞑っていた目を開けて、きょろきょろと周囲を見る。

 昼を過ぎ、夕方よりはまだ早いこの時間には、他の来訪者もちらほらといて、それぞれ椅子に座って熱心に祈りを捧げたり、天井へと伸びるステンドグラスを見上げて何か思いに耽っていたりしている。
 しかし、一人としてディオンのほうを見ている人物はいない。来訪者は皆、自分の祈りに夢中で、ディオンがいることに気を留めてすらいない。

(おかしいな。たしかに今、何か聞こえたような気がしたんだが……)

 気のせいだったろうかと再び目蓋を閉じると、また声が聞こえた。

『悔いても悔いても、悔やみきれない……』

 今度は声ばかりでなく、頭の中に既視感のある光景が浮かんだ。
 淡い若葉色をした壁紙に、手入れの行き届いた調度品。視線の主は書物机に座って、手元には何かを広げている。

 それは、どこかで見たことのある青い日記帳。
 そうだ——これは自分の部屋だ。ディオンがそう気づくうちに、自分のそれと重なる視線の主は日記帳の表紙を開き、ペンを手に取る。

 視線の主は、日記帳にペン先を落とし、悩みながらも文字を綴っていく。それは紛れもなく、あの『かつてのディオン』が書いた日記だった。つまり、この視線の主は、いつぞやの……いつのときだったか、イリエスが話してくれた予想した通りなのであれば〈一度目〉のディオンの記憶だ。

 ディオンは、閉じた目の奥に浮かぶ『経験のない自身の視点』を不思議な気持ちになりながらも、どこからか流れこんでくる記憶を興味深く眺めていた。
 自然と頭の中に流れ込んでくるその景色は、ディオンの意思とは関係なく場面が展開されていく。

 重なる視界に映るのは、思い悩みながらも書き綴られていく日記の言葉。
 そして、言葉が綴られていくのとともに、ディオンには在りし日のの思いも流れ込んでくる。

 ——イリエスには、幸せになってもらいたかった。

 あんなに美しい青年をなぜ、最悪の結末を迎える前に助け出せなかったのか。
 イリエスの家族——デシャルム侯爵一家が次男への虐待を巧妙に隠し、イリエス自身もまたその環境に慣れきってしまって何も言わずにいたからか、助けを求める声はディオンには届かなかった。彼が心の中で叫んでいたはずの助けを求める声が、なぜ聞こえなかったのか。悔やんでも悔やみきれない。

 もしイリエスが「助けて」と口にできたのなら、状況は違っただろうか。
 いや、それは言い訳だ。声を聞かずとも方法はいくらでもあったはずだ。

 もっとまなこを開けて、隅から隅までよくよく彼を見ておけば、気づくことはできたのだ。そもそも、実際にその兆候は察していて、彼が虐げられていることは気づいていたのに……。性的暴力を受けていることにも想像がついていたのだ。だからこそ、弟の不始末のように笑い話として披露する友人レイナルドの神経が何一つ理解できなかった。
 けれど、自分一人の力では、証拠もない状態で他家にいきなり乗り込むわけにはいかなかった。……いや、違う。乗り込んでしまえばよかった。高位貴族としての体裁や礼儀など無視して、殴り込んでしまえばよかったのだ。イリエスの命に代わるものなど、なかったのだから。

(俺は……別の人生の俺も、イリエスを助けたかったんだな……)

 だけど、それは叶わなかった。
 叶わなかったから、〈一度目〉の自分は日記に思いを綴ったのだ。

 体裁を気にして何もできなかった、情けない自分を忘れないように。
 一人の命を救えなかった愚かな自分を自覚できるように。
 イリエスという救えなかった青年を思い続けられるように。
 自分の無力さと不甲斐なさを戒めるように。

 ディオンは、本来ならば交差することのなかった『もう一人の自分』を思う。

 頭に流れ込む光景のなか、日記に綴られていくのは、すでに命を落としてしまった青年への遣る瀬ないまでの思慕だ。
 失ってから気づいた恋心に動揺しながら、後悔の海に深く沈みながら、自分の無力さを嘆きながら、ひたすらに想いを綴っている。

 今のディオン——〈今世〉の自分が見つけた日記を読んだときに感じた、日記の主の想いは、確かなものであったのだ。自分が彼を想うのと同じように、この日記のディオンもまた、イリエスのことを心から大切に思っていた。

 やがて、もう一人の自分が見せた景色は薄れていき、完全に消えていく。
 目蓋を上げれば、夕陽を浴びたステンドグラスが寂しげに煌めいていた。

「この日記は、俺が俺に宛てた贈り物だったのかもしれないな」

 膝元に置いた青い日記帳を見る。
 少し色褪せてはいるけれど、一見何の変哲もないただの日記。しかし先日、高名な魔法師に見てもらったところ、見たことのない魔法がかかっているかもしれないという話ではあった。

 どうやってこの日記が自分のもとへやってきたのかは、わからない。
 それはイリエスが幾度と死んでは人生をやり直していた原因がわからないのと同じ。普通に考えれば、あり得ない現象が起きているのだろう。

 日記の主——もしかしたら、同じ未来を辿ったかもしれない『いつかの自分』のことをディオンら考えてみる。そして、遠く越えてきた日記が、今のディオンに何を求めているのかも。

 次の瞬間にはもう、ディオンは椅子から立ち上がり、教会の出口へと足を向けていた。

(イリエスに、会いたい)

 今、無性に、イリエスに会いたい。

 会って、話して、その存在をしっかりと確かめたい。
 何度となく失ってきた命を、今度こそ繋ぎ止めたのだと強く実感したい。
 そして、その命を繋ぎ続けていきたい。彼のすぐそばで。誰よりも近い場所で。

 この気持ちを、想いを、彼に早く伝えなければ——。

 ディオンは逸る気持ちを抑えながら、足早に帰路へと着くのだった。


 ◇◇◇



(2024.8.5 後書き)
いつもお読みいただきありがとうございます。
今週末には完結する予定です。
よろしければ最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

お気に入り登録、♡、感想などなど本当にありがとうございます!
めちゃくちゃ嬉しくて、暑い日々でも応援を糧に過ごしてます。
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