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第四章

47. さよならの雨 #

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「だと、しても……」

 絞り出すように喉を震わせるものの、先が続かない。

 ——そうだとしても、私にできることなどない。

 そう言えたら、兄はどんな反応を示すだろうか。
 頭の中ではいかようにでも言えるのに、長きにわたった折檻で染みついた恐れは私に勇気を与えてくれない。
 無言のままでいると、兄は俄かに片眉を吊り上げた。その苛立ちとも喜色ともとれる態度に自然と体が強張り、胸の痛みとともに鼓動が速まる。——怖い。恐ろしい。真っ暗な闇が迫ってくる。

「いいのか? お前が帰ってこないのなら、我々には考えがある。そうだな……お前が世話になっている芸術家気取りの平民集団。名前は何と言ったか……」
「ふふふ。『リベルテ』ですよ、レイナルド兄上」
「ああ——『劇団リベルテ』だったな」

 なぜ彼らからリベルテの話題が出るのかわからず、戸惑いのままに視線を兄と弟の間で揺れ動かした。
 私の視線よりもやや低いところに頭があっても、横柄な兄から放たれる威圧感が私を容易に屈してくる。それに加えて、すぐ真横でいまだ腰を引き寄せて撫で回す異母弟のねっとりとした視線が頭上から絡みついてきて、頭のてっぺんからつま先まで見えない壁へと磔にされている心地だった。

「調べによれば、ついこの間までは各地を移動して公演する旅一座だったそうだな。そして、定住の地を考えているというのも耳にした。まあこちらのお国事情も、そこに暮らす下々の都合も私たちには関係ないが……お前が我儘を言うのなら、こちらも打てる手を打つとしよう」

 風が出てきたのか、古びてヒビの入った窓硝子がかたかたと鳴り始める。ここを訪れる際、外はきれいに晴れていたが、もしかしたら今夜遅くから雨が降るのかもしれない。

 不穏な気持ちを助長する音に心もざわめくなか、それでも兄が続ける言葉を逃すまいと黙って言葉を待った。顔色悪く眉を寄せる私が愉快なのか、彼は悠然と足を組み直して私の反応を楽しんでいるようだった。

「ノートル商会は、世界各地を巡っているやり手の商会らしいな。そして、お前が家族ごっこをしているリベルテとやらのパトロンでもある。——そこの商会が痛手を負ったら、さて……」
「そんな……っ!」

 兄が示唆することに、一瞬で血の気が引いた。
 ふらりと足元がぐらつく。

「期限は三日だ。三日後にまたここに来なさい。来なければどうなるか……愚鈍なお前でもさすがにわかるな? 色よい返事を期待しているよ、イリエス」

 用は終わりだと言わんばかりに、兄は手の甲を私へ向けて前後に振った。まるで犬にでも向けてする仕草だ。理解したのなら早急に立ち去れと、あとは私と目を合わせもしない。もしかしたら路傍の石や森を駆ける野犬相手のほうがマシな扱いをされるかもなと思うと、無性に悲しくなった。
 家族に対しての情など一欠片もないけれど、この人と同じ血が流れていると思うと、何とも言えない気持ちになる。

 傾きかけた体をグェンダルが不躾な手つきで支えていた。その手に相変わらず吐き気を覚えるが、もはや拒否する気力もない。
 もう私と話すつもりのない兄に背を向けて、この場を立ち去るべく、もたもたと足を動かした。

 グェンダルは私を玄関先まで見送るつもりなのか、腰と尻を撫で上げながら耳元に口を寄せる。

「イリエス兄上、僕と久しぶりに遊びたければ、三日後と言わずに会いに来てくださいね。兄上に会えることが嬉しくて、いろいろ用意してきましたから」

 ではまた、と送り出された頃には、西の空に赤が混じり始めていた。そんなに話しこんだつもりではなかったのに、思っていた以上に時間が経っていたらしい。

 仲間が暮らす天幕へ帰るために、古びた一軒家を背にする。
 一歩、また一歩と足を動かしたのだろうけど、そのあと私はどうやってリベルテのみんなが暮らす場所へと帰ってきたのか、よく覚えていなかった。


 + + +


 三日前の深夜から降り出した雨はその後、しとしとと降り続いている。
 ずっと気持ちの良い冬晴れが続いていたのに、あの日の夜からはどんよりした空模様だ。雨で冷えた風が吹きつけるときもあって、ある意味では冬らしい天気ではあるけれど、公演を観に来る客にとっては足元が悪く、寒いので、歓迎しにくい天候になっていた。

 昼間。私は天幕の裏手で、最後の仕事をしていた。
 いつもなら、公演の最中は舞台裏で裏方の仕事を間近で見て勉強しながら、公演後の仕事に向けた準備をする。けれど、今日は天幕の裏手から静かに抜け出した。

 ——今日、私は誰にも言わず、置き手紙だけを添えて劇団リベルテを去る。

 無論、本音を言うと去りたくなどない。こんなに居心地の良い場所はこれまでの人生で一度もなかった。役者も裏方も見習いも、明るくて優しい人たちばかりで、どこの誰とも知らない私を温かく迎え入れて、受け入れてくれた。特にトレヴァー団長は人一倍、私に愛情を注いでくれたと思う。彼は父のような存在だった。
 毎日生きることが楽しくて、明日が来ることが嬉しくて、不可解な人生も定められた命日も忘れていられた場所がここにはあった。

 だから、壊したくない。

 兄のレイナルドの話ぶりからして、もし私が彼らのもとへ戻らなければ、劇団リベルテの夢が潰えることになる。具体的な手段は判らないが、はったりでないことは兄の様子から窺い知ることができた。腐ってもデシャルム家は侯爵の地位を賜る高位貴族で、隣国とはいえ使える人もモノも多い。いくら大衆から広く支持を受け、マオリルの街で地盤を固め始めていようとも、もともとは旅一座だった劇団リベルテなど吹けば飛ぶようなものだ。
 リベルテのみんなの笑顔が消える未来を想像すると、兄からの命令を拒むことはできなかった。

(団長、みんな……本当にありがとう。どうか夢を叶えてください)

 私が使っていた小さな寝台に、書き置きの手紙を置く。いただいていた給金も手紙の横にまとめて置いた。私にはもう不要のものだ。服や日用品も丁寧にたたんで、整理整頓をしてあるので、次に新しく見習いや裏方が入ってきても、すぐに使えるだろう。

 寝台から離れて、くるりと部屋の中を見渡す。
 複数人で使っていた天幕は小さくて狭くて、ぎゅうぎゅうになりながら生活していたけれど居心地が良かった。ここで寝起きをするのは自分のような雑務をこなす裏方か見習いで、大なり小なり事情がある者ばかりだったから、気負わずに接することができたのも今となっては代え難い思い出だ。その時間をもう持てないのが残念でならない。

 小さな寝台も、数人で共同で使っていたテーブルも、小さくとも私には十分すぎた衣装棚も、これが最後だと思うと視界が滲む。愛しい思い出を振り切るようにして、私は天幕を出た。
 何も持たずに出て行くつもりだったけれど、団長から貰った革製の鞄だけは、どうしても置いていくことができなくて。悩んだ末に、私の肩にかかっていた。

 すぐ近くに建てられた公演用の大天幕は、雨の中で煌々と灯りを灯している。雨雲を背景にしても、いかにも楽しげな雰囲気に包まれていて、まさに娯楽の象徴のような光景だ。時折、わあっという歓声や楽しそうな笑い声、拍手も聞こえた。今日の演目は、巡業していたときに多くの土地で好評だった恋の物語だ。
 その歓声が徐々に遠くなるのを聞きながら、暗い空を見上げた。

 頬を濡らすのは雨か、涙か。私にもわからない。

「……今世も、うまくいかないものだな」

 フードを被る必要もなくなった私は、けぶるように降りしきる雨の中を、頭も体もずぶ濡れになりながら歩いていく。冬の雨は冷たく、体が芯まで冷えるようだ。濡れた外套はずっしりと重く、ただでさえ重い足取りをいっそう路地へ縫い止めようとする。
 もはや足を引き摺るようにしながら、街の景色を目に焼き付けていく。

 ルーやみんなと歩いた並木道。
 お使いでノートルさんのもとへ向かうときに渡った橋。
 文具屋や雑貨屋、食品を買い求めた商店。何回か足を運んだ本屋。
 夕暮れに赤く染まる家々と、そこに生きる人々。

 夏の時期にやって来て半年ほど暮らした街は、すべてを見て回ることはできなかったけれど、どこもかしこも優しい思い出で溢れている。
 でも、これで最後。もうこの風景は見られない。——少なくとも今世では。

 あの『命日』が過ぎるまで、この街で暮らしたかった。
 この街でなくとも、劇団リベルテの一員として生きたかった。

「遅いぞイリエス。……なんだお前、そんなずぶ濡れで見苦しい。格好くらいどうにかできなかったのか、まったく」

 三日前に訪れた古びた一軒家には、宣言通りに兄と異母弟が待っていた。この前と同じように、兄は椅子に座り、弟はニタニタと私を見ている。
 足元に水溜まりを作るほどびしょ濡れのままに家を訪れた私を、レイナルドは怪訝な顔で迎え入れた。ますます父の口調と性格に似てきたなと思いながら、兄の言葉にまったく反応せず、私は無視を決めこんだ。

 ここまで傘もささず、フードも被らずに雨に濡れて来たのは、姿を隠すことの意義を失ったからだけではない。言わば兄への当てつけだ。
 薄汚い私を見て、きっと兄は嫌な顔をする。そう思っていたとおり、汚物を見る目で私を見てきた。そんな目で見るのなら、私など構わなければいいのに……。もはや私には、こいつらのことは一生理解できない。その一生があとどれほど続くのかと思うと、どうにかなりそうだけれども。

 いっそ放り出してくれたらいいのに。
 けれど、兄はそうはせず、椅子から立ち上がると私の前までやってきた。

「返事くらいしろ」
「ぃ、っ……!」

 パシンッ、と乾いた音が鳴ったあとに、自分が平手打ちされたのだと気づく。

「まあいい。帰るぞ。お前は服をどうにかしてからだな。その格好で隣に座られたんじゃ堪らない。さっさと着替えて馬車に乗れ」

 呆然とする私を引き摺るようにして、隣の部屋で控えていた使用人に私を託すとグェンダルとともに部屋を出て行った。

「はぁ……」

 早速の暴力に辟易する。しかし、反抗する気も起きない。
 この時期に家へと連れ戻されるのだから、おそらく今世も何かしらの形で家族によって命を絶たれるのだろう。諦念を越えて、僅かな思考さえも覚束ない。

 ——あいつらの顔を見ずに、この生に終止符を打てると思ったのに……。

 私の命日まで、もう数ヶ月ほどしかないこの日。
 珍しく上質なタオルで濡れた髪と体を拭かれ、小綺麗な服へと着替えさせられた。そして、四人乗りの馬車に兄と異母弟とともに乗り込み、私は思い出の詰まるマオリルの街をあとにするのだった。


 ◇◇◇
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