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第三章

29. 不意の胸騒ぎ

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「お待たせ、イル。この返事をトレヴァー団長に渡しておくれ」

 その後も、サーラさんとルーの三人でお茶を楽しんでいると、ノートルさんが封筒を片手に戻ってきた。私はその手紙を受け取って、彼の前でしっかりと革の鞄の中へとしまいこむ。
 残っていたお茶を飲み干して窓の外を見れば、外は陽が落ちた直後の濃い青紫から藍色へと染まろうとしていた。

「では、ノートルさん、サーラさん。お邪魔しました」
「ああ、そうだ。イル」

 薄い外套を羽織り、フードを目深に被ろうとしたところで、ノートルさんに呼び止められる。

「しばらくの間、出歩くのを少し控えたほうがいいかもしれないよ」
「何か事件でもありましたか?」
「いいや。なんでも、この街によその国からのお客人が来るらしい。どんな人かはわからないが、どうやらそれなりの地位にいる方だという噂だ。となると、護衛や警護を担う者もやってくるだろうし、街の自警団も目を光らせるだろう。イルのそのフード姿は、少し目立つだろうからね」

 ノートルさんは、眉尻を下げながら私のフードをそっと摘んだ。それから、深々と頭に被せてくれてからポンと頭を一つ、優しく撫でるように触れてくれる。
 余計な詮索をされたくないだろう、と私を心配してくれているのだ。

 彼は私の事情を詳しく知っているわけでもない。ただ、劇団のパトロンである彼は、劇団員に訳ありの者が多くいることを知っていて、私もそんな訳あり者の一人であることを承知してのことだった。
 実際に、あまり目立つことは避けたい私としては、小さく笑んでから「気をつけます」と返事を返した。

「よし、フードもしっかり被れたね。ルーがいるから心配ないだろうけど、気をつけてお帰り」
「はい。おやすみなさい」

 薄手とはいえ、夏場でもフードのついた外套を被ってしか外出しないのは、不特定多数の人に顔を見られたくないからだ。劇団に助けられたときも、容姿の良さからか「役者を目指さないか?」と団長たちに提案されたが、それを断ったのは顔が広く知られるのはまずいからに他ならない。
 もう一年も経っているから、ジード伯も実家も、私のことをきっと気にしていないだろうけれど。でも、万が一でも私のことを探していたりでもしたら……。

 それに家族でなくとも、伯爵家の使用人や異母弟の友人など、私の顔を知る者はゼロではない。それを思うと、とてもではないが顔を無防備に晒して街を闊歩する気にはなれなかった。

(よその国からの客人か。まさか、父上たちがこの街にいらっしゃることはないだろうけれど……用心するに越したことはないよな)

 パラウィットは島国ではないので、隣接する国がある。南西は海に面しているが、それ以外は他国との境がある。私の故国であるアルノルクもその一つだ。ゆえに、よその国と一言でいっても候補はいくつもある。アルノルクからの客人ということが決まったわけではない。
 それに、仮にアルノルクからの客人だとして、マオリルとデシャルム領とでは、かなり距離がある。さらに言えば特段、父や兄の興味を惹く農産物や技術があるわけでもない。マオリルは親切な人が多く、平凡で、平和な街なのだ。

 ——ただ、どうにも胸騒ぎがしていた。


 + + +


 ノートル商会から帰ってきた頃には、陽はすっかりと暮れていた。
 途中で石鹸や縫い糸などを買ってから天幕へと戻り、私は山のように盛られた洗濯物と格闘した。

 ノートルさんの言うように、帰り道に見る街は、いつもよりも人が多いような気がした。揃いの制服を着て見回りをしているこの地区の騎士たちも、どことなくピリピリしている様子で、警護の下見や準備をしているようにも見えた。
 もしかしたら、ノートルさんが話していたお客人というのは、かなり身分の高い方なのかもしれない。お客人の来訪とやらを聞きつけた人たちが街へやって来ているようだった。

 もしお客人が王侯貴族ならば、見初められるのではと夢を抱く平民は少なくない。それに、商売のチャンスでもある。あるいは、そういった事情がなくとも「一度は姿を目にしてみたい」なんて野次馬根性で街は賑わう。
 それゆえ、騎士たちも気を張っているようだった。

 私はフードがずれないように深く被って、俯き加減で足早に帰路に着いた。
 あちらこちらから、視線を感じたような気がしたので、少しだけ神経が尖っていた。たしかに、暑い季節にフードを被った男は怪しい。何も悪いことはしていないのだから堂々としていれば良いのだけれど、どうにも気が気ではなかった。

 ノートルさんの言うように、用心するに越したことはないなと、決意を胸にして、私は洗濯の手を必死に動かしていた。


 ◇◇◇


 イリエスが洗濯物と格闘していた、ちょうどそのとき。
 大きな天幕を遠目でじっと見つめる男がいた。

 ルビーよりも煌めく強い光を放つ赤い双眸。
 陽が暮れても美しさを損なわない眩い金の髪。
 鋼のように鍛えた雄偉な体躯を包むのは、かっちりとした謹厳な騎士服ではなく、平民と同じような飾り気のない服だ。

 隣国アルノルクの近衛騎士として、外遊をしている第三王子の警護任務に就いていたディオン・クラヴリーはこの夜、数日後から滞在を予定しているマオリルという街で日中の下見を終えて、街の酒場に繰り出すところだった。
 この街は治安が良いらしく、今夜はそれなりの喧騒に包まれているが、不審な人物や危険な匂いのする人物は見かけない。

 アルノルクからやってきた近衛騎士たちが騎士服ではなく街の者たちと変わらない平易な服を着て街を見て回っていたのは、異国の見慣れぬ騎士服を纏った男たちが街を闊歩して、要らぬ警戒をされないようにだ。そして、情報収集をしやすくするためでもある。異国の騎士へは告げられぬことも、気のいい旅人になら打ち明けてくれることもある。
 そうやって、ディオンは下見を任された同僚たちとともに、マオリルの街を回っていた。

 夜は夜で、人々が集まる場所で情報収集に励もうと酒場へ足を向けていたところで、見覚えがあるような横顔を見た気がし、ディオンは足を止めた。そして、その顔の主を密かに追いかけた。
 見間違いだろうかとも思ったし、フードから時折こぼれ出る黒髪を見ても「いや、でも……」と頭には否定の言葉は浮かんだ。けれど、自分にとって都合の良い期待を頭の中からどうしても捨てきれず、その儚げな背中を無意識のうちに追ってしまったのだ。

(リュシオン殿下に報告すべきか……いやでも、まだ確証を得たわけではない。もう少し、この天幕を見張ってみるか……?)

 ——先ほど、この天幕が連なる場へと入っていった、フードを目深に被った黒髪の青年。彼はきっと、イリエスだ。

 イリエス・デシャルム。
 ディオンが十六歳のときに出逢い、それからずっと気にかけていた、デシャルム侯爵家の次男。二つ年下の友人だ。イリエスがディオンをどう思っているかを尋ねたことはなかったが、少なくともディオンはイリエスを親しい友だと思っていた。それと同時に『護るべき相手』だとも。

 そのイリエスと最後に会ったのは何年も前のこと。初冬に行われた茶会を最後に、彼とは会えなくなった。異国の地へと嫁いだからだ。
 せめて、見知らぬ土地へ一人で嫁ぐのは寂しくないのかとか、嫁いだ先では幸せになってほしいだとか、よければ手紙のやりとりを続けないかとか……そういう多くのことを話したかったのに、それを告げる間もなかった。彼が隣国パラウィットの、とある伯爵家に嫁いだとディオンの耳に届いたのは、すでにイリエスの婚姻が成立し、彼が侯爵家を去ったあとだったからだ。

 思えば、イリエスが嫁ぐまでの最後の数ヶ月、彼の様子は幾分おかしかった。あれは、ヒートの事故からくるものだと思っていたが、実際にはそれだけではなくディオンと会えなくなることが判っていての態度だったと、あとから気づいた。

 イリエスはディオンに他国へ嫁ぐことを教えてくれなかった。
 きっと教えたくなかったのだ。だから黙っていた。

 それに気づいたとき、ディオンは途轍もない無力感に苛まれた。それほどまでに嫌われてしまったのかと、悔やんでも悔やみ切れないほどに、それまでの己の行為を後悔した。

(イリエスだとしたら、どうしてここに……。いや、あの青年が本当にイリエスだとしたら、喜ばしいことじゃないか。ならば、どうかイリエスであってほしい)

 ディオンがそう願うのも仕方のないことだった。
 なぜなら、イリエスは「異国の嫁ぎ先で病によって儚くなった」という報せがデシャルム家から出されたからだ。十九歳になったばかりのイリエスが隣国パラウィットのジード伯爵という男のもとへ嫁いでから、三年ほどが経った頃だった。

 だが、その訃報には驚くと同時に大いに疑問が湧いた。

 ——イリエスは、生きている。

 ディオンにはそう言える『確信』があったのだ。
 ただし、確信はあるが確証はなかった。そしてその確信も、非常に心許ないものではあった。

「……イリエス。どうかもう一度、その姿を見せてくれ」

 ディオンは首から下げていたペンダントを服の下から取り出す。赤い一粒石のついたペンダントを祈るようにして握り締め、小さな願いを呟いた。
 それはイリエスに贈ったものと『対』となっているペンダントだ。ペンダントの先についている宝石の色と、そこにかけた魔法の種類だけが異なるだけで、あとは同じ意匠のもの。それをディオンが身につけていることを、ディオンはイリエスに内緒にしていた。

 ——『対』というのは、意匠だけの話ではないからだ。

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