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第三章
26. 男性オメガの価値 *
しおりを挟む私が婚姻を結んだ夫、アントナン・ジードと初日以外でまともに顔を合わせたのは、私がパラウィットへやってきてからひと月ほどが経った頃だった。
「イリエス、だいぶ良い顔色になったな」
開口一番に言われた言葉は、それだけで言えば私の体調を気遣うものだ。そのことに私は言葉が続かず、ジード伯の顔をまじまじと見つめてしまった。
「まあいい。座りなさい」
「あ……はい」
ああ、しまったな……。
仮にも婚姻を結んだ相手にまともな返事もせずに、失礼な態度をとってしまった。ジード伯は気にされていない様子だけれど、失礼をしたかったわけではない。
(ジード伯とお会いするのは久しぶりだけれど、意外と私のことを覚えていらっしゃるものなのだな。大して興味がないのかと思っていた)
顔色が良くなったのは、私自身感じていたことだ。
この屋敷に来てから、食事の量が増えたし、暴力も振るわれない。与えられているのは監禁部屋に違いないし、さすがに嫁入りひと月で部屋から無断で抜け出すなんてこともしてないので部屋に籠りきりではあるのだけれど、いつ殴られ蹴られるのかと怯える日々から解放されたというのは、私の心身を随分とラクにしてくれている。
母の形見である手鏡で見る自分の顔も、相変わらず諦念の色は浮かんでいるが、多少は血色が良くなったと思っていた。
それを与えてくれているのは、紛れもなく目の前の男だ。
たとえ色狂いで些か腹が出始めた中年であっても、その男のおかげで以前よりは穏やかな暮らしができているのだから、感謝の一つも述べるべきだったのにろくな返事もできないとは……。こういうところが、かつて父や兄が「愚鈍だ」と詰ってきた所以なのかもしれない。
私が内心で反省していると、私の無礼を特に気にも留めなかったジード伯は、扉の前で立ち尽くす私を足を組み直しながら自分のそばへと呼びつけた。
いま、私とジード伯がいるのは、屋敷の中にあるティールームだ。そこに設けられた長椅子にジード伯はゆったりと座っていて、示されたとおりに私は彼の横に座った。開け放たれた窓からは時折、夏の風が入ってくる。
パラウィットは夏を迎え、ティールーム前のポーチから降りられる庭園では、青々とした木々が葉を空へと伸ばしていた。
「こちらに着いたときは骨と皮ばかりの、くすんで痩せ細った男が来たものだと思ったが……磨いてみれば、それなりになったな」
「あ、っと……はい、旦那様に良くしていただいたおかげです。ありがとうございます」
腰に回された腕に僅かに怯えつつも、今度こそきちんと礼を述べる。
肥えすぎているとは言わないまでも、決してスリムで鍛えられた体躯というわけではないジード伯の手が熱いのは……きっと気温のせいだけじゃない。
父と同年代の男に嫁いだことは、諦めがついていると思っていた。経緯がなんであれデシャルムの屋敷から出してくれた相手だから、何をされても苛立つまいとも思っていた。実際に婚姻自体は割り切れているし、苛立ちはしていない。想像以上に悪い扱いを受けないので拍子抜けをしたくらいだ。
けれど、中年男の熱い手には、ぞわりと悪寒が走った。
(私の夫なのだから、こんな態度ではダメだ……)
過去九度の人生の中で、異母弟グェンダルをはじめとして、性的にも弄ばれた経験はある。男に挿入されたことだって一度や二度ではないし、今世でもこの体はすでに純潔を散らしている。——今世では、あの不幸な事故もあったのだ。
私について父がジード伯にどこまで話をしているかはわからないし、私にとっては都合が悪そうだから聞かれない限りはわざわざ言うつもりもないけれど、決して褒められるような清い体ではない。
そんな体なのに、夫の接触を拒むなど……。
「でも……ふむ。なるほどな。もう少し肉づきが良くなったほうが、何かと具合が良さそうだ。ならば、あとひと月待とうか」
「…………はい」
「リナからも話を聞いておくとよい」
「……承知いたしました」
腰から尻にかけてのラインをねっとりとした手つきでなぞられる。
ジード伯が意図することは理解できた。私の抱き心地を確認して、もう少し肉をつけろと言っているのだ。そして、若い頃に幾度と欲をぶつけられてきたリナ様にジード伯好みの閨の作法を学んでおけ、とも。
そこに、決して恋情や愛情というものは感じなかった。
ジード伯が私を見る目つきや触れてくる手つきには、愛なんて慈しみの感情はのっていない。そこにあるのは玩具に対する所有欲と同じだ。新しい玩具を手に入れたので早く味わいたい。けれど、どうせならなるべく美味しい状態で口にしたい。そういう色情に塗れた支配欲。
でも、私に拒否権はない。夫からの訪いを拒むことなどできない。
もし拒んだら、どうなるのかわからない恐怖だけがそこにはあった。
+ + +
それから、またひと月が経過して——。
華奢な体なのは変わらないにしても、ひと月前よりは骨の浮き具合はマシになり、髪や肌にもハリや艶が戻ってきた。それが伯爵の耳に入ったらしく、私は夏が終わる頃に再びティールームに呼び出された。
「まずまずだな。発情期は終わったのだったな?」
「はい、旦那様。先週、終わったところです」
「それは重畳。——ジャゾン、薬と香油を用意しておけ」
「かしこまりました」
ジャゾンと呼ばれたのは、この家の執事だ。ジード伯の指示に恭しく頭を下げた彼は、ちょうど空になった私と伯爵のカップに紅茶を注ぐ。このティータイムが終われば、彼は今宵の準備をしに使用人室へと向かうのだろう。
薬と香油——それは、避妊用の薬と性交のための潤滑剤だ。
先週、ちょうど発情期を終えた私は、オメガであっても濡れたりなどしない。ジード伯はかつて愛妾にベータの男を囲ったこともあるそうだから、男を抱く経験はあるはずだ。だから用意させるのが、その二つ。そういう意味では、勝手のわからぬ相手に抱かれるよりは遥かに良いだろうけど……ついにこのときが来てしまったのかと、憂鬱になった。
子は不要としているのは有り難いが、やはり性交は避けられないらしい。
「リナに話は聞いたか?」
「……はい。ご指導いただきました」
「なら良い。いずれは『オメガ』としてのイリエスを存分に楽しみたいが、来て早々に孕まれるのは惜しいからな。薬が合うかも試しておきたい」
揚々と話すジード伯に、私は力なく微笑み返す。
別に、私の反応は気にしていないのだろう。質問をするのは閨の都合を確かめるためであって、それ以外の興味はないのだ。側妻とは言いようで、実際のところは彼にとっての私は愛玩具のようなもの。隣国の侯爵家の次男ということから側妻には置いているが、子をなすつもりもないので色欲対象以外の価値はない。
やはりジード伯もアルファ至上主義者には違いないのだな、と実感する。まあでも、同じモノ扱いだとしても暴力よりはマシだろうか。
歓談をする仲でもないので、紅茶と軽い菓子を摘んで満足したジード伯はその後、小一時間もしないうちにティールームを去っていった。
そして、その夜。
私は何人かの使用人に連れられて、大きな寝台のある部屋へ向かった。そこはジード伯の寝室でもなければ、貴族の家には必ずと言っていいほど設けられる夫婦の寝室でもない。もちろん、私の監禁部屋でもない。使用人によれば、そこは旦那様が側妻と交合をするためだけの部屋だった。
おそらく、夫婦の寝室は正妻のザビーネ様との営みにお使いで——つまりはもう現在はその部屋は使われていないのだろう——、彼女が他の人をその部屋に入れるのはさすがに厭ったのだと想像できた。まあたしかに、アルファ至上主義の家に嫁いだ女性アルファなのだから、まさかオメガの側妻が使った寝台に上がりたくはあるまい。それがすでに無用の長物となっていようともだ。
愛妾のもとに通うときは各自へ与えられた部屋でされるのだろうけれど、私やリナ様のような側妻のオメガが暮らすのは質素な寝台がある部屋だ。あの寝台にジード伯が横たわるのは、なかなかにして無理がある。ジード伯の体格を差し置いても、屋敷の主人が劣等のオメガに与えられた粗末な部屋に足を立ち入れることなど考えられない。それゆえの、その行為だけの別部屋なのだろう。
なんにせよ、やってきてしまった時間を私はどうやり過ごすか——どうやって心を殺すか、考えながら寝台で夫を待った。
(早く、慣れないとな……)
その晩のジード伯との行為がどうであったかは、あまり思い出したくはない。
執拗に体を撫で回し、こちらの欲は吐き出させることをなかなか許さない一方で、自分の欲には忠実。痛みはないが、こちらの熱をわざと、いつまでも体の内へ留まらせて最後は泣き請わせるようなやり方だった。それが、ひどく苦しく長い時間だったことは言うまでもない。
しかし、私の体をお気に召したのか、それからしばらくの間、私はジード伯と週に一度、同衾することを求められた。ジード伯の言葉を借りるならば「やはりオメガは具合がいい。特に男のオメガは面白い」とのことだった。
私にとってはまったく嬉しくない評価だが、それでも『抱き心地』のために食事は抜かれることがなかったし、清潔にもされて、暴力も振るわれなかった。性交はねちっこく、その執拗さから涙を流すごとに伯爵は悦んだが、殴る蹴るの趣味はないようだった。
それを有り難く思うべきなのか、そうでないのか……私がパラウィットに来てから一年が経つ頃には、うまく判断がつかなくなっていた。
暴力はなくなり、飢えから解放されても、惨めさは変わらなかった。私の心は、また少しずつ鈍くなり始めていたのである。
◇◇◇
(2024.7.19 後書き)
いつもお読みいただきありがとうございます。
たくさんのお気に入りや♡、ありがとうございます。感想もいただけて光栄です。
今週土日は1日3話ずつ更新します。
15時頃、18時頃、21時頃にそれぞれ更新予定です。
イリエスの不幸が続いていますが、ハピエン予定ですので最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
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