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第一章
14. 青いペンダント
しおりを挟む秋の冷たい風が馬上の二人に吹きつける。
耳元では、さあさあと風を切って走る音がして、私はその音に僅かながらも気持ちを高ぶらせていた。
「寒くないかい、イリエス」
風の音に紛れて届いた問いかけに、私は無言で頷いた。
私は今、ディオンに背後から包み込まれるようにして馬に乗っている。
先日の茶会で「今度は花を見に行こう」と私を誘ったディオンは、宣言通りに父たちに話をつけてきて、夏の時期には「いつにしようか」と手紙を綴ってきた。そこまでされたら断るのは憚られて、私はなるようになれとばかりにその誘いに乗った。
そんな経緯の末、本格的に冬が来る前に、私たちはこうして屋敷から三十分ほど走らせた先にある小川のほとりへと向かっている。
ディオンの愛馬フラムは、黒鹿毛が美しく優しい目をした牝馬だ。
私とディオンの二人を乗せてもびくともしない彼女に乗って、デシャルムの屋敷がある領都の中心から郊外へ。
はじめはゆったりとした常足《なみあし》で景色を見ていたはずだった。けれど、「少しレイナルドを撒こう」と悪戯めいたディオンの声が聞こえたと思ったら、しっかりと腰を引き寄せられて、次の瞬間にはフラムとともに私たちは風の友となっていた。
「あ、おいっ!」と焦る兄の声を遠くに聞いて、フッと楽しげに笑う頭上の声に鼓動を速くする。そのうちに着いたのは、リンドウが風に揺れる川辺だった。
「さて到着だよ。——ああ、少し顔が赤いね。熱は?」
ディオンの手を借りてフラムの背から降りた私の顔を覗きこんで、彼は心配そうにする。熱を測るつもりなのか、額に伸ばされた手のひらに思わず目を瞑る。
「ごめん、驚かせたかな」
「い、いえっ。だ、大丈夫です……熱も、ありません」
「そう? どれ…………うん、たしかに少し火照っているようだけど、発熱しているわけではないようだね。頭が痛かったり、気持ち悪かったりもない?」
その問いにも私は首を横へと振った。
突然のディオンの行動には驚いたけれど、秋の風を感じながらフラムに乗って走るのは楽しかった。しかも、レイナルドを振り切って、ディオンと二人で。
監視の目がないことと、はじめて見る景色と、経験したことのないスピードとで、ずっと重かった体が軽くなった気さえした。
「馬に乗って、興奮したのかもしれないね」
飛ばしすぎたかな、とディオンは笑う。
ディオンを好きになるまいという決意を、私はこのときすっかり忘れていた。柄にもなく、はしゃいでいたのだ。
「さてと。レイナルドが追いつく前に、もう一つやっておかないと」
フラムの手綱を近くの手頃な木に括りつけながら、ディオンは先ほどと同じような悪戯めいた声色で外套のポケットを探る。なんだろう、とその姿をぼんやり見つめていると、不意に何かを握ったままの手を差し出された。
受け取れと言わんばかりの仕草に、私は不思議に思いながらも両手を伸ばす。すると、その手のひらに、ひやりとしたものが触れた。
「これは?」
ディオンが私の手のひらに乗せてみせたのは、銀色の細いチェーンの先に青い宝石が一粒ついたペンダントだった。
「綺麗なペンダント、ですね……?」
「だろう。きみの瞳と同じ、ブルートパーズ。イリエスに似合うと思って。よかったら受け取ってほしい」
「そんな! こんな高価なもの、受け取れませんっ!」
慌てふためく私に、彼は鷹揚に微笑んだ。
ブルートパーズはそこまで高い石ではないはずだけれど、それだって私には分不相応だ。しかし、私には似つかわしくないそれを、ディオンは私に贈りたいのだという。
もちろん、受け取るわけにはいかない。
私はペンダントをディオンへ返そうと手を伸ばしたのだが、彼の大きな手によってその手をペンダントごと、ぎゅっと握り締められてしまった。
「どうか受け取って、イリエス。俺との友情の証に」
「で、でも……兄に、叱られてしまいます……」
「それじゃあレイナルドには内緒だ。レイナルドだけじゃなくて、きみの家族にも秘密にしてしまおう。二人だけの秘密の贈り物だよ。それならイリエスも受け取れるだろう?」
ね、と小首を傾げられる。
彼の屈託のない笑顔に、どうにも言い返せなくない。
「貸して。つけてあげるよ」
私がもだもだしているうちに、ペンダントを手に取ったディオンは、私の背後に回ってペンダントを首へとつけてしまう。こうなってしまうと、本当に突き返すこともできない。
ディオンは私の胸元で揺れる青い宝石を見て、満足そうに口角を上げる。そして、それをブラウスの襟元から中へとそっと滑らせ、隠してしまった。
「あの……、ディオン様……」
礼を述べるべきか、それともやはり何とかして返すべきかと逡巡していると、遠くから馬が駆ける音が近づいてきた。
振り返ると、自身の愛馬に乗った兄レイナルドが目を吊り上げながら追いついたところだった。
「おい、ディオン! まったく、置いていきやがって」
文句を言いながら馬から飛び降りたレイナルドは手綱をフラムと同じ木へと括りつけると、一目散にディオンへと駆け寄る。ぶつぶつと文句を言うレイナルドを、ディオンは真剣に取り合うこともなく「すまないな」と笑って躱す。
二人のやりとりはこれまだも何度も見かけているのだけれど、少しだけ疑問に思うところがある。というのも、〈一度目〉の人生よりもレイナルドとディオンの距離は格段に近いように見えるのだ。
〈一度目〉のときも学友として交流していたし、その流れで私との交流も始まりはしたけれど、それでも今ほどまでに親しげではなかった気がする。
今世は〈一度目〉の人生とよく似てはいる。けれど、こういう些細な違いがあるので私でも読めないことが起きるのだ。たとえば、先ほどの青いペンダントのようなことが。
「イリエス、お前がディオンに我が儘言ったんじゃないだろうな」
疎ましげな目を向けられて、私はびくりと肩を竦めた。
どんなにこの目を見てきていようとも、オメガを忌々しく思う瞳に慣れないときがある。長い間かけて心身に覚えさせられた恐怖はそう簡単には消えない。むやみに怖れたところで意味がないことくらいわかっているのに、逆らうことが許されないと思い続けているから。
「レイナルド、イリエスにそう言ってやらないでくれ。きみを撒いたのは俺が楽しくてやっただけのことだから。イリエスは何もしてないし、言ってもないよ」
「そうか……? いやでも、何か迷惑なことはしてないか? イリエスは世間知らずだから、変なことを言っていなければいいのだが」
「まさか。二人で花を見ていただけだよ。ねえイリエス?」
はいとも、いいえとも言えずに、私は兄とディオンのやりとりを見つめていた。
目の前にはリンドウの花が揺れている。その花を見ていたのは嘘ではなくて、濃い青紫が広がる景色に息を呑んだのも事実ではある。
本当は花を見ていただけではない。しかし、リンドウの花以上に美しいペンダントについて、ディオンは「秘密だ」と言ったとおり、レイナルドに話をするつもりは少しもないようだった。
彼の言ったとおり、贈られたことを言わないでおくべきか、それとも正直に言うべきか——悩みつつも、私は口を噤んでいた。
返事もしない私を訝しむでもなく、ディオンはレイナルドに「ああ、なるほど」と思いついたかのように言葉をかける。
「それとも、レイナルドはイリエスが俺に取って食われるとでも思ったのか?」
「なんだそれは」
「はははっ、冗談だよ。可愛い弟のことが心配なのはわかるけれど、もう少し信じてやったらどうだ?」
「まあ……なぁ……」
ディオンに窘められたとして、兄が私を信じることは絶対にない。
兄も取り繕いつつ返事をしているが、そうするつもりはないことは透けて見えた。ディオンはそれをわかっているのか、いないのか、「仲良くしろよ」なんて微笑んで、持ってきたバスケットを広げて始めた。
山葡萄の蔓で編まれたバスケットには、湯を沸かす道具や敷物が入っている。それに茶葉と焼菓子も。いずれも、ここでピクニックをするつもりで、ディオンが用意させたものだ。
公爵家の次男という身分なのにもかかわらず、彼は野外で火を使って湯を沸かし、茶を淹れることもできるらしい。
……きっと兄はできないだろうな、とぼんやり思う。
そういうのは使用人の仕事で、デシャルム家の者がこういうことを楽しむ場合は必ず使用人がついてくる。私がオメガだと判明する前に、一度だけ連れていってもらったときがそうだった。あまりにも遥かに遠い記憶だから、そんなに多くは憶えてはいないのだけれど。
(……優しくしないでほしい……)
手際よく湯を沸かして、茶を淹れるディオンはこれまで見たことがない姿だ。
そんな彼を、私は言葉少なに見ていた。
しばし花とともに他愛のない話を楽しむディオンと兄に相槌を打っていると、ひゅう……と風が吹く。その肌寒さに無意識のうちに二の腕を摩っていると「風がさらに冷たくなる前に帰ろうか」とディオンが呟く。太陽は西へと傾き始めているが、まだ時刻は昼下がりになったばかりという頃だ。
けれど、彼はきっと私のことを心配して、そんな優しい提案をしてくれる。
「さあ、行こう。しっかり捕まって」
手綱をとって、再び私はディオンとともにフラムの背に乗った。
レイナルドも自身の愛馬に跨り、「今度は撒くなよ」と咎めるような声でディオンに言う。ディオンは取り合わないような雰囲気で返事をしていたけれど、結局レイナルドを撒くことはなく、帰り道はゆったりとした足取りで屋敷へと向かった。
「……イリエス。ペンダントのこと、秘密にするんだよ」
「え、っと…………」
「二人だけの秘密だ。いいよね?」
「…………はい」
レイナルドには聞こえない、小さな声が耳元で響く。
服の中で揺れるペンダントは、言われたとおりに家族には見つからないようにしようと胸に誓って、私は背中越しの体温を嬉しいような、苦しいような気持ちで感じていた。
◇◇◇
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