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第一章
07. 予定外の遭遇
しおりを挟む時は、〈一度目〉の人生に遡る——。
窓から見える庭園に、秋の花が咲き始めた季節のこと。私が初めて発情期を迎えてから半年ほどが経った頃だ。
「ぅわっ……!」
ドン、と何かにぶつかって、私は尻もちをついた。と同時に、両手に抱えていた本が腕から滑り落ちて、ドサドサと廊下に散らばる。
「すまない。前をよく見ておらず、ぶつかってしまった。怪我はないかい?」
「あ……っ、と……」
差し出された手を取ることもできず、私はぶつかった壁を見上げた。そこには金髪赤目の青年が気遣わしげに、私を見下ろしていた。
前を見ていなかったと青年は言うが、そうではない。前を見ていなかったのは私のほうだ。だから、謝罪をするのならば彼ではなく私のほうなのだけれど、予想していなかったアクシデントに私の頭はすっかり思考を止めていた。
そうでなくとも私が一人きりのときに、家族とケニー以外に言葉をかけられたことなど七年振りの出来事で……。混乱に混乱が重なる状況に、どう反応すればいいのか、まったくわからなかった。
「……ええと、大丈夫?」
優しげな瞳を向ける青年。
そこにいたのは、ここ半年ほど、自室からひっそりと見ては幼い想いを募らせていたディオン・クラヴリーその人で……。まさに私は混乱の境地にいた。
「え……と、あの……すみませんっ! わ、私は大丈夫ですっ」
たっぷりと時間が過ぎたように感じたが、おそらく十数秒程度の間をもって、私は慌てて立ち上がった。私のような人間が、想い人であるディオンの手を取ることは許されないと思って、自分の手と足で立ち上がってみせた。勢いよく転んだからか打ちつけた尻が少しばかり痛んだけど、頭からその事実を追い出す。
そんなことよりも、いま目の前で突如起きているこの状況だ。
すらっと伸びた腕は息をのむほどに美しく、それでいて男性的な力強さがある。ついつい手を取ってしまいたくなるほどに仕草は優美だ。
けれど、反射的に取ってしまいそうになったのを私はどうにか堪えることができた。まだ頭の中はごちゃごちゃと動揺しているけれど、その手を取らなかった自分のことは褒めてやってもいいかもしれない。
なぜって? それはもちろん、どんなにその手を取りたくても、もし公爵家の方に私などが触れたと父や兄の耳に入れば、どんな厭味と仕打ちが待っているかわかったものではないからだ。たとえ足が折れていようが、私は差し伸べられた高貴な手を取っていい人間ではないのだから……。
とまあ、そんな感じで、私は大いに混乱して慌てふためいていた。他者から見たらかなり挙動不審になっていたかもしれない。こんな姿を見られたら、やはり父も兄も眉を顰め、手を上げるのだろうなと思い、今この場にいなかったことに感謝しようと考えを巡らせたところで、あらためて状況を思い出した。
そう、目の前の青年はディオンだ。彼に差し出された手を借りることなく立ち上がったはいいものの、うんともすんとも言わない私を彼は小首を傾げながら、さっと全身を検分する。本当に怪我がないか確認するように。
それからディオンは「うん」と一つ頷いて、怪訝な目を向けるわけでもなく、取られなかった手を気にする素振りもなく、差し出したときと同じように優美な動きで手を引いた。そして、柔らかな光を纏っているかのような笑みとともに、ほっと安堵を浮かべた。
「怪我がないようであればよかった。俺はディオン・クラヴリーという。所用で応接室から席を外していたのだけれど、迷ってしまってね」
方向音痴なんだ、なんて笑って話すディオンに、どう言葉を返したらいいものか、私はなおも困惑していた。
相手方、かつ身分の高い公爵家の次男が名乗ったのだから、格下の家格のものである私も、相手に倣って挨拶をして礼を取るのが礼儀なのだろう。けれど……はたして『私』が自己紹介をしていいものか、と逡巡する。
別に挨拶の仕方がわからないわけではない。むしろ、万が一誰かに鉢合わせてしまったときに、貴族らしくどう挨拶をすべきかは学ばされていたし、父や兄からもさんざん怒鳴り散らされて叩き込まれてきた。なので、形式は理解している。作法も挨拶の仕方も頭の中では完璧だ。
なのに、あまりにも咄嗟の出来事に学んだことはすっかり抜け落ちて、頭は真っ白だった。
(だって、この人いま、クラヴリーって名乗ったよね……? クラヴリーといえば三大公爵家の一つじゃないか!)
もし、我が家よりもさらに高貴な家柄であるクラヴリー公爵家の方に『不出来な私』が出会ってしまったと家族に知られでもしたら、どんな罵声を浴びせられ、暴力を受けることか。そんなことすら、私の頭をよぎっていた。
であれば失礼は承知で、挨拶もせずに立ち去ってしまったほうがいいのではないか。立ち去ったとしても、私が『イリエスだ』と名乗らなければ、デシャルムの屋敷でたまたま見かけた痩躯の少年でしかないはずだ。ディオンも、まさか私がデシャルムの次男だとは思うまい。使用人や何かだと思ってくれる気もする。
(父上たちに、殴られなくないし……。どっちがマシなのかな……)
挨拶をしたうえで「お前ごときが!」と罵倒される可能性を覚悟すべきか。
それとも、名乗りはせずに立ち去って、バレないようにと運に身を委ねるか。
——どっちにしても、あまり良い結果になりそうにもない。
罵られることも、殴られ蹴られることも、この七年で随分と慣れた。だから心は痛まない。だとしても、体に受けるダメージは避けられるのならば避けたいと思うのは当然だろう。……痛いのは、やはり嫌だ。
このとき、〈一度目〉の人生を送る私は、弱冠十四歳。
オメガという判定を受けたその日から受け続けていた度重なる折檻はそれでもまだ、幼い私を本当の絶望に陥れるのに幾許かの時間があった。
(バレなければ、殴られずにすむかもだよな)
私は数日前に打たれた鞭の痛みを思い出し、やはり早々に立ち去ってしまおうと踵を返しかけたところで、不意に廊下の向こうから声が聞こえた。
「——……オン……、ディオン! ああ、ここにいたか」
廊下の曲がり角から姿を現したのは、私の兄レイナルドだった。
ああ、運は私を味方しないのだなと心の中でため息をつく。
「レイナルド。すまない、探させたか」
「戻りが遅いから心配したぞ。きみの屋敷ほどではなくとも、我が家も十分に広いから迷ったのかと思ってな。この方向音痴め」
「ははは、すまない。何度も来ているのに、どうにも慣れなくてね」
格上の公爵家の次男であるディオンとレイナルドが学友関係にあるのは、兄の自慢話を聞いていたために知っている。しかし、想像していたものよりも随分と親しげな様子と、見たことのない兄の態度に私は驚いていた。
学園での兄を、私は知らない。
この国の王侯貴族は、齢十三になると王立ナスタシア学園に入学することが決められている。聡明だった数代前の国王の正妃ナスタシア様が創設したという由緒ある学園だ。
その学園で、王族や貴族の子息子女は、十三歳から十八歳までの六年間で一般教養のほか、家格に相応しい立ち居振る舞いを学び、剣や弓、馬術を習い、魔力のあるものは魔法を取得し、国を背負うものとして然るべき教育を受ける。そして自分と家のために将来の『つながり』を作っていく。世渡りをするのに必要な知識や術をも、そこで学んでいくのである。
十四歳である私も、本来であれば学園に通う歳なのだが……残念ながら、一日として通学したことがない。というのも、『恥さらしのオメガ』である私を世間に出したくない家族は、病弱を理由に次男を学園へ通わせていないからだ。ゆえに、学園でのレイナルドを私は知らなかった。
親しげに言葉を交わす二人をぼんやりと見ていると、レイナルドはようやく学友たるディオンが誰かと向き合っていたことに気づき、視線をこちらへと寄越した。瞬間、苦虫を噛み潰したかのように顔を顰める。
「お前、っ……イリエス、なぜこんなところに……! あー、いや……それよりどうしたんだ? ああ、もしかして今日は体調がいいから屋敷を歩いていたのか? でも、お前は体が弱いのだから、安易に部屋を出てはいけないよ。また具合が悪くなったら困るだろう。さあ、部屋へお戻り」
私の姿を見とめるや否や、怒りに瞳を鋭く光らせたレイナルドだが、そこは曲がりなりにも侯爵家の嫡男としての矜持ゆえか、ディオンの前だと悟ってすぐさま表情を取り繕った。そして、今すぐこの場で私を詰りたい気持ちをどうにか堪え、普段とはまったく異なる猫撫で声でやんわりと私を諭す。その立ち居振る舞いはまさしく病弱の弟を気遣う優しい兄、そのものだ。
もっとも、父と同じ濃い緑色をしたその瞳はちっとも笑っておらず、「あとで覚えておけよ」という苛烈な色を巧妙に隠している。ぎろりと睨めつけてくるそれに、背筋に冷たいものが走った。
兄からの命令は絶対だ。兄だけでなく、家族に私が逆らうことなど許されない。拒否することなどありえず、歯向かおうなんて気も起きない。
このときも「はい、兄上」とだけ返事をして、私はその場を辞そうとした。しかし、そんな私を留めたのは、鷹揚な笑みを浮かべたディオンだった。
「レイナルド、そちらは弟君かい? ぜひ、俺に紹介してもらえないか」
「え?」
声を上げて驚いたのは兄だ。私ももちろん驚いたのだけれど、ぎりぎり驚きを声にすることはなかった。
にこにこと笑みを浮かべるディオンに、レイナルドははっとして。それから、もっともらしい答えを返した。
「あーいやいや、そう気にかけないでくれ。体の弱さゆえに外に出ることも難しい愚弟なんだ。ディオンにわざわざ紹介するほどでもないよ」
「そうかい? でもほら、ここで出会ったのも何かの縁だろう? 可愛らしい弟君じゃないか。……ああ、なるほど。だからこそ、レイナルドは、可愛い弟を俺には紹介したくないのかもしれないな」
ははは、と笑うディオンにレイナルドは顔を強張らせる。
ディオンには知られずに、兄がちらりと寄越した瞳は、氷のように冷たい。
だが、ここで頑なに紹介を断れば、なぜそこまでイリエスを隠すのかと不審の目が向けられることを察したのだろう。レイナルドは柔和な笑みを浮かべ直して、ディオンに「では少しだけ」と頷き返した。
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