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第四章
80. もう一度を、胸に
しおりを挟む「今後のことだが……」
「……?」
シモンがレオンスに声をかけたのは、おそらく発情期のことだろう。
オーレリーの恋人であるアドルフは特攻隊の任を逃れたが、レオンスにとってシモンは心を通わせたパートナーというわけではない。一時的に熱を解消するための協力者だ。さらに、シモンは部隊長という立場……レオンスと敵地への進攻を天秤にかけるまでもない。発情期が来たらどうするか、レオンスはまだ決めていなかった。
しかし、シモンが口を開いて出した言葉はレオンスの予想とは別のものだった。
「もし不穏な動きや、対処できない事案が発生したら、君たちは逃げていい」
「逃げて……? それはどういう……」
シモンの言わんとすることがわからずに、レオンスはオウム返しのように訊ねた。
と、シモンは声を落として言葉を続けた。
「帝都から来る指揮官が考えていることは、もはや我々にも予想がつかない。可能性の一つとしてだが、君たちオメガを蔑ろにするような行為を働くことがある気がしてならない……。そういう命が下ったら、迷わず逃げろ。身を隠せるのであれば身を隠せ。きっと、必ず、私が君たちを助けに行く」
そこには、剣呑な光を帯びたシモンの瞳があった。冗談や妄想で話しているわけではないのだと、その目が語る。
「約束してくれ、レオンス。自分たちの身を第一に考えると」
「……わかりました。帝都や新たな指揮官となられる方の真意は俺にはよくわかりませんが、シモン隊長の言葉はきちんと心に留めておきます」
そう頷けば、シモンはほっとしたような表情を浮かべた。
シモンの言うように、おそらく帝都から来る指揮官は、今までこのファレーズヴェルト要塞をまとめていた部隊長たちとは全く異なるタイプの人間だ。それをシモンも察している——いや、あるいは知っているからこそ、このような忠告めいた言葉をレオンスに残してくれているのかもしれない。
この約一年の間、シモンをはじめとして多くの兵士がレオンスたちオメガのことを気にかけてくれた。徴兵には向かない特性を持つ自分たちを仲間だと言ってくれた人たち。その中心には、いつもシモンがいた。
彼の恩情を仇で返すわけにはいかない。だからレオンスはしっかりと彼の言葉を心に留めた。
きっとアメデやオーレリーには伝えていないだろう。シモンは、レオンスを信用して託してくれているのだ。その想いにはしっかりと答えたいと思った。
「それから——」
不意に、シモンはレオンスの手を取る。
周りに気づかれない程度の、指先をそっと掬った仕草だった。
「私のレオンスへの想いは変わらない。それをどうか忘れないでほしい」
「シモン隊長……」
レオンスへの想いを口にするシモン。
周囲に人はおらず、たしかな想いを感じるものの小さな声で囁かれるようにして伝えられたそれを、レオンス以外の者が耳にすることはないだろう。けれど、こんな場所で告白されるとは思いもよらず、レオンスは僅かにたじろいだ。
しかし、シモンの深い緑色の瞳に見つめられて、文句の一つも言えなくなる。
まるでレオンスに縋るような……そんな切ない光を瞳に含ませていたから。
もしかしたらシモンは、自分が不在の間に想いを寄せるレオンスがシモンではない誰かに抱かれることを気にしているのかもしれない。しかしオメガの特性とレオンスの今の症状を鑑みると「誰にも抱かれてほしくない」という我欲を口に出すことができないのだろう。独占欲を満たしたいアルファの特性を考えると、シモンの苦悩はある程度見て取れた。
愛おしく思う相手が、離れていく寂しさや恐れを抱いているような気がした。
でも、レオンスはその苦悩に答えることができないでいた。
シモンは、レオンスにとっては協力者であって恋人ではないのだ。これから待ち受ける日々で、レオンスとて不特定多数の人間と情を交わしたくはない。だが、次の発情期を一人で乗り越えられるか確証はない。そうであればいいとは願うが、自分の体すらままならない状況は今なお、続いているのだ。
彼の指先だけが触れている。晩冬の朔風に晒されていた二つの手は、冷たくて、あたたかかった。
レオンスが何も言えずにいると、シモンはふっと笑みを浮かべた。
「すまない、レオンス。改めてにはなるが、この件に関して返事は不要だ。ただ、出立前に私の想いを告げておきたかった。君の負担になるとわかってはいるのに私は弱いな」
出立前に、という言葉が重く圧し掛かる。
特攻隊が請け負う任務は危険性が高いのだ。敵の監視塔を制圧するのはもちろんのこと、まだ完全に雪解けしていない山々を越えていくというのも、多くの危険を孕んでいる。その危険性を誰よりも理解しているからこそ、シモンはここで改めて、レオンスに想いを告げたようだった。
これが最後になるかもしれないという兵としての覚悟をもって、アルファもオメガも関係なく、ただ愛という火を灯す一人の男として、想いを伝えたのだ。
「いえ……。負担なんて、そんなことないです。隊長が弱いなんてことも」
今ここで「あなたのことが気になっている」と言えたら、いいのかもしれない。確かな形になっていないから、この感情がどういうものなのかわからないけれど。でも少なくとも、他の誰かと体を重ねるくらいならシモンに抱かれたいと思っている。そう言ってしまえれば、目の前の男は喜んでくれるのだろうか。それとも、体だけの関係かと眉を顰めるのだろうか。
形にならずに持て余している感情をぶつけることは、レオンスにとって大きな覚悟が必要だ。そして、その覚悟はまだない。——弱いのは自分のほうだ。
「シモン隊長」
「ん、なんだ?」
「お互い生きて、この戦いを終わらせましょう。お互い生きて、また再会して……その頃には、俺ももう少し、自分に素直になれているかもしれないです」
次に会うときには、この感情に名前がついていてほしい。
どうすれば名前がついて、形づくのかは、今は見えないけれど。でも、再びシモンと言葉を交わして、もっとシモン・ブラッスールという男を知っていけば、レオンスが抱き始めている想いに何かしらの答えを出すことができるような気がしていた。
「わかった」
シモンの了承の言葉は、どこにかかっていたのだろう。
お互い生き抜くことに対してか。
この戦争を終わらせることに対してか。
あるいは、レオンスがシモンへ抱き始めている感情を伝えられる可能性に対してか。
そのすべてに、返事をしてくれたのだと——そう思いたい。
そう思えば、シモンが不在となった第九部隊でも、この燃えゆく地を進んでいける。そんな気がした。
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