上 下
81 / 110
第四章

80. もう一度を、胸に

しおりを挟む


「今後のことだが……」
「……?」

 シモンがレオンスに声をかけたのは、おそらく発情期のことだろう。
 オーレリーの恋人であるアドルフは特攻隊の任を逃れたが、レオンスにとってシモンは心を通わせたパートナーというわけではない。一時的に熱を解消するための協力者だ。さらに、シモンは部隊長という立場……レオンスと敵地への進攻を天秤にかけるまでもない。発情期が来たらどうするか、レオンスはまだ決めていなかった。

 しかし、シモンが口を開いて出した言葉はレオンスの予想とは別のものだった。

「もし不穏な動きや、対処できない事案が発生したら、君たちは逃げていい」
「逃げて……? それはどういう……」

 シモンの言わんとすることがわからずに、レオンスはオウム返しのように訊ねた。
 と、シモンは声を落として言葉を続けた。

「帝都から来る指揮官が考えていることは、もはや我々にも予想がつかない。可能性の一つとしてだが、君たちオメガを蔑ろにするような行為を働くことがある気がしてならない……。そういう命が下ったら、迷わず逃げろ。身を隠せるのであれば身を隠せ。きっと、必ず、私が君たちを助けに行く」

 そこには、剣呑な光を帯びたシモンの瞳があった。冗談や妄想で話しているわけではないのだと、その目が語る。

「約束してくれ、レオンス。自分たちの身を第一に考えると」
「……わかりました。帝都や新たな指揮官となられる方の真意は俺にはよくわかりませんが、シモン隊長の言葉はきちんと心に留めておきます」

 そう頷けば、シモンはほっとしたような表情を浮かべた。
 シモンの言うように、おそらく帝都から来る指揮官は、今までこのファレーズヴェルト要塞をまとめていた部隊長たちとは全く異なるタイプの人間だ。それをシモンも察している——いや、あるいは知っているからこそ、このような忠告めいた言葉をレオンスに残してくれているのかもしれない。
 この約一年の間、シモンをはじめとして多くの兵士がレオンスたちオメガのことを気にかけてくれた。徴兵には向かない特性を持つ自分たちを仲間だと言ってくれた人たち。その中心には、いつもシモンがいた。

 彼の恩情を仇で返すわけにはいかない。だからレオンスはしっかりと彼の言葉を心に留めた。
 きっとアメデやオーレリーには伝えていないだろう。シモンは、レオンスを信用して託してくれているのだ。その想いにはしっかりと答えたいと思った。

「それから——」

 不意に、シモンはレオンスの手を取る。
 周りに気づかれない程度の、指先をそっと掬った仕草だった。

「私のレオンスへの想いは変わらない。それをどうか忘れないでほしい」
「シモン隊長……」

 レオンスへの想いを口にするシモン。
 周囲に人はおらず、たしかな想いを感じるものの小さな声で囁かれるようにして伝えられたそれを、レオンス以外の者が耳にすることはないだろう。けれど、こんな場所で告白されるとは思いもよらず、レオンスは僅かにたじろいだ。
 しかし、シモンの深い緑色の瞳に見つめられて、文句の一つも言えなくなる。
 まるでレオンスに縋るような……そんな切ない光を瞳に含ませていたから。

 もしかしたらシモンは、自分が不在の間に想いを寄せるレオンスがシモンではない誰かに抱かれることを気にしているのかもしれない。しかしオメガの特性とレオンスの今の症状を鑑みると「誰にも抱かれてほしくない」という我欲を口に出すことができないのだろう。独占欲を満たしたいアルファの特性を考えると、シモンの苦悩はある程度見て取れた。
 愛おしく思う相手が、離れていく寂しさや恐れを抱いているような気がした。

 でも、レオンスはその苦悩に答えることができないでいた。
 シモンは、レオンスにとっては協力者であって恋人ではないのだ。これから待ち受ける日々で、レオンスとて不特定多数の人間と情を交わしたくはない。だが、次の発情期を一人で乗り越えられるか確証はない。そうであればいいとは願うが、自分の体すらままならない状況は今なお、続いているのだ。

 彼の指先だけが触れている。晩冬の朔風に晒されていた二つの手は、冷たくて、あたたかかった。
 レオンスが何も言えずにいると、シモンはふっと笑みを浮かべた。

「すまない、レオンス。改めてにはなるが、この件に関して返事は不要だ。ただ、出立前に私の想いを告げておきたかった。君の負担になるとわかってはいるのに私は弱いな」

 出立前に、という言葉が重く圧し掛かる。
 特攻隊が請け負う任務は危険性が高いのだ。敵の監視塔を制圧するのはもちろんのこと、まだ完全に雪解けしていない山々を越えていくというのも、多くの危険を孕んでいる。その危険性を誰よりも理解しているからこそ、シモンはここで改めて、レオンスに想いを告げたようだった。

 これが最後になるかもしれないという兵としての覚悟をもって、アルファもオメガも関係なく、ただ愛という火を灯す一人の男として、想いを伝えたのだ。

「いえ……。負担なんて、そんなことないです。隊長が弱いなんてことも」

 今ここで「あなたのことが気になっている」と言えたら、いいのかもしれない。確かな形になっていないから、この感情がどういうものなのかわからないけれど。でも少なくとも、他の誰かと体を重ねるくらいならシモンに抱かれたいと思っている。そう言ってしまえれば、目の前の男は喜んでくれるのだろうか。それとも、体だけの関係かと眉を顰めるのだろうか。
 形にならずに持て余している感情をぶつけることは、レオンスにとって大きな覚悟が必要だ。そして、その覚悟はまだない。——弱いのは自分のほうだ。

「シモン隊長」
「ん、なんだ?」
「お互い生きて、この戦いを終わらせましょう。お互い生きて、また再会して……その頃には、俺ももう少し、自分に素直になれているかもしれないです」

 次に会うときには、この感情に名前がついていてほしい。
 どうすれば名前がついて、形づくのかは、今は見えないけれど。でも、再びシモンと言葉を交わして、もっとシモン・ブラッスールという男を知っていけば、レオンスが抱き始めている想いに何かしらの答えを出すことができるような気がしていた。

「わかった」

 シモンの了承の言葉は、どこにかかっていたのだろう。

 お互い生き抜くことに対してか。
 この戦争を終わらせることに対してか。
 あるいは、レオンスがシモンへ抱き始めている感情を伝えられる可能性に対してか。

 そのすべてに、返事をしてくれたのだと——そう思いたい。
 そう思えば、シモンが不在となった第九部隊でも、この燃えゆく地を進んでいける。そんな気がした。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

侯爵令息セドリックの憂鬱な日

めちゅう
BL
 第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける——— ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

誰よりも愛してるあなたのために

R(アール)
BL
公爵家の3男であるフィルは体にある痣のせいで生まれたときから家族に疎まれていた…。  ある日突然そんなフィルに騎士副団長ギルとの結婚話が舞い込む。 前に一度だけ会ったことがあり、彼だけが自分に優しくしてくれた。そのためフィルは嬉しく思っていた。 だが、彼との結婚生活初日に言われてしまったのだ。 「君と結婚したのは断れなかったからだ。好きにしていろ。俺には構うな」   それでも彼から愛される日を夢見ていたが、最後には殺害されてしまう。しかし、起きたら時間が巻き戻っていた!  すれ違いBLです。 ハッピーエンド保証! 初めて話を書くので、至らない点もあるとは思いますがよろしくお願いします。 (誤字脱字や話にズレがあってもまあ初心者だからなと温かい目で見ていただけると助かります) 11月9日~毎日21時更新。ストックが溜まったら毎日2話更新していきたいと思います。 ※…このマークは少しでもエッチなシーンがあるときにつけます。 自衛お願いします。

オメガの復讐

riiko
BL
幸せな結婚式、二人のこれからを祝福するかのように参列者からは祝いの声。 しかしこの結婚式にはとてつもない野望が隠されていた。 とっても短いお話ですが、物語お楽しみいただけたら幸いです☆

【完結】選ばれない僕の生きる道

谷絵 ちぐり
BL
三度、婚約解消された僕。 選ばれない僕が幸せを選ぶ話。 ※地名などは架空(と作者が思ってる)のものです ※設定は独自のものです

恋のキューピットは歪な愛に招かれる

春於
BL
〈あらすじ〉 ベータの美坂秀斗は、アルファである両親と親友が運命の番に出会った瞬間を目の当たりにしたことで心に深い傷を負った。 それも親友の相手は自分を慕ってくれていた後輩だったこともあり、それからは二人から逃げ、自分の心の傷から目を逸らすように生きてきた。 そして三十路になった今、このまま誰とも恋をせずに死ぬのだろうと思っていたところにかつての親友と遭遇してしまう。 〈キャラクター設定〉 美坂(松雪) 秀斗 ・ベータ ・30歳 ・会社員(総合商社勤務) ・物静かで穏やか ・仲良くなるまで時間がかかるが、心を許すと依存気味になる ・自分に自信がなく、消極的 ・アルファ×アルファの政略結婚をした両親の元に生まれた一人っ子 ・両親が目の前で運命の番を見つけ、自分を捨てたことがトラウマになっている 養父と正式に養子縁組を結ぶまでは松雪姓だった ・行方をくらますために一時期留学していたのもあり、語学が堪能 二見 蒼 ・アルファ ・30歳 ・御曹司(二見不動産) ・明るくて面倒見が良い ・一途 ・独占欲が強い ・中学3年生のときに不登校気味で1人でいる秀斗を気遣って接しているうちに好きになっていく ・元々家業を継ぐために学んでいたために優秀だったが、秀斗を迎え入れるために誰からも文句を言われぬように会社を繁栄させようと邁進してる ・日向のことは家族としての好意を持っており、光希のこともちゃんと愛している ・運命の番(日向)に出会ったときは本能によって心が惹かれるのを感じたが、秀斗の姿がないのに気づくと同時に日向に向けていた熱はすぐさま消え去った 二見(筒井) 日向 ・オメガ ・28歳 ・フリーランスのSE(今は育児休業中) ・人懐っこくて甘え上手 ・猪突猛進なところがある ・感情豊かで少し気分の浮き沈みが激しい ・高校一年生のときに困っている自分に声をかけてくれた秀斗に一目惚れし、絶対に秀斗と結婚すると決めていた ・秀斗を迎え入れるために早めに子どもをつくろうと蒼と相談していたため、会社には勤めずにフリーランスとして仕事をしている ・蒼のことは家族としての好意を持っており、光希のこともちゃんと愛している ・運命の番(蒼)に出会ったときは本能によって心が惹かれるのを感じたが、秀斗の姿がないのに気づいた瞬間に絶望をして一時期病んでた ※他サイトにも掲載しています  ビーボーイ創作BL大賞3に応募していた作品です

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

傾国の美青年

春山ひろ
BL
僕は、ガブリエル・ローミオ二世・グランフォルド、グランフォルド公爵の嫡男7歳です。オメガの母(元王子)とアルファで公爵の父との政略結婚で生まれました。周りは「運命の番」ではないからと、美貌の父上に姦しくオメガの令嬢令息がうるさいです。僕は両親が大好きなので守って見せます!なんちゃって中世風の異世界です。設定はゆるふわ、本文中にオメガバースの説明はありません。明るい母と美貌だけど感情表現が劣化した父を持つ息子の健気な奮闘記?です。他のサイトにも掲載しています。

初心者オメガは執着アルファの腕のなか

深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。 オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。 オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。 穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。

処理中です...