上 下
59 / 110
第三章

58. 匂いに浮かされる *

しおりを挟む


 レオンスは、狭いベッドの上にいた。着衣のままではあるが顔は上気しており、吐く息が熱い。

 薄暗がりの中、本来ならば一人で自身を慰めるはずだった。しかし今、その体を組み敷いている男がいる。細い両腕は、逞しい腕に——それもたったの片腕だけでまとめて拘束され、頭上に縫い留められている。辛うじて両足は自由だが、それも馬乗りになる男が器用に腰を挟み込んでいるので動かしにくい。バタバタと足を動かしてはいるが、そのたびに下半身に集まる熱が疼くので、思うように動かせなかった。

「シモン、隊長……! 部屋に……っ。俺の部屋に、返してくださいっ」

 レオンスが連れてこられたのは、二階にあるレオンスの自室ではなく要塞の最上階にあるシモンの執務室だ。
 隊長の座にいる者は、多くの兵士と異なり個室を与えられていた。それはそれぞれの執務室から横続きになっており、緊急時にはすぐに作戦確認や指示を出すことができるようになっている。そのシモンの自室にある一人用のベッドの上に、レオンスとシモンは二人で沈んでいた。

 目の前の男に抱きつきたくなる衝動に、レオンスは必死に堪えていた。
 抗えない本能に無理やりに抵抗するように、指をぎゅっと握り締めて手のひらに爪を立てる。小さな痛みがレオンスに理性を僅かに戻してくれていた。そうでもしないと、はしたない要求を発してしまいそうだった。
 ギラリと鋭い光を宿してレオンスを見下ろすシモンの瞳が怖い。

「お願いしますっ、シモン隊長! きっと今、隊長は冷静じゃないです……! 俺の発情ヒートをきっかけに、暴走ラットしかけてますっ。だから……!」

 シモンから発せされる威圧感に、レオンスは震えながらも声を上げる。弱いオメガがアルファに抵抗するのは容易ではない。まして威圧をしてくるアルファ相手ならば、指一本すらまともに動かせないのが普通であった。
 威圧をするアルファは恐ろしい。レオンスも、今のシモンは恐ろしかった。
 だが「自分のため」と「相手のため」にも、ここで屈するわけにはいかないと、歯の根が合わなくとも必死に声を出した。

 この前のような事故が起きる前に、早く離れたい。
 早くしなければ、理性が焼き切れてしまいそうだ。

 けれど、シモンは無情にも言葉を返した。

「ラットは起こしていない。私は冷静だ」
「それじゃ……なぜ……」

 このようにレオンスを組み敷いている意味は——。

 戸惑いの目を向けるレオンスに、シモンは熱に浮かされているわけではないとわかる厳しい声色で言った。

「こんな状態の君を自室には帰せない。前みたいな事故があっては困る」
「なっ……! きちんと鍵をかけます……! なんなら、外側から部屋を閉じてもらっても構いませんっ」
「ダメだ。それは許可できない」
「っ……」

 威圧的な声を上げられ、レオンスは身を竦めた。
 シモンからは決して逃すまい、否を言わすまいという空気が発せられ、ビリビリとレオンスの肌を刺した。

「私の部屋にいろ。それが理解できなければ、この手は離せない」
「で、でも……」

 シモンの言うように、たしかにまたヒート事故が起きるのは困る。レオンスとしても部隊としても、望まぬ者同士で情を交わすのは何かと都合が悪い。
 でもだからといって、シモンの部屋に匿われる意味はわからない。

 レオンスは返事しあぐねていた。掴まれている手首が熱い。細い体に負担をかけまいと配慮をしながらも、体を動かせぬように跨る男の太腿が密着していた。そこから他者の体温が伝わってくる。このままだと、兆し始めている自身がシモンに伝わってしまいそうだ。

「レオンス」
「わか、り、ました……。わかったから、早く一人にしてください……お願い、します……」
「……わかった。つらくなったら呼んでくれ。私は隣の執務室にいる」

 名前を呼ぶ声が、威圧的なものではなく懇願するような色をのせていた。
 なぜ? という疑問が浮かぶが、それよりも切羽詰まっている自分の状況を何とかしなければという思いが勝った。

 レオンスは渋々ながらも男の部屋に留まることを了承した。
 熱い手が離れていき、かけられていた重さが消える。執務室へと続く扉がパタリと閉められ、部屋にはレオンス一人きりとなった。





 シモンの部屋は、彼の匂いに満ちていた。
 その中で、レオンスは声を噛み殺しながら自身の性器を慰めていた。張り詰めた陰茎を扱き、先走りの蜜を指先を濡らしていく。

 なぜ属する隊の指揮官の部屋で一人、こんな淫らな行為に耽っているのか。
 その疑問がずっと頭の中でぐるぐると回っている。けれど本格的に発情期を迎えた体は、慰めるほかに熱を冷ます術がない。

 思えば、シモンの行動は独占欲の強いアルファが自分の領域テリトリーにオメガを囲い込む行動そのものであった。
 レオンスとシモンはつがいどころか恋人ですらない。しかし不幸な事故とはいえ一度、肌を重ねた仲である。それによってシモンの箍が外れてしまっている可能性はあった。本能的に好ましいと思うオメガを、自分のもののしたいというアルファらしい支配欲と独占欲が、行動として現れたのだろう。
 やろうと思えば無理やりに抱けるのに、彼はレオンスを自室に閉じ込めることだけに留めた。ラットを起こしてはいないと言ったシモンだが、十分にレオンスにあてられていたと思う。それでも、レオンスを一種の監禁状態にする程度で済ませてもらえたのは、御の字なのかもしれない。

 そこまで考えて、そうなのであれば、もはやシモンを信じるしかないとレオンスは腹をくくった。それに閉じ込められた先……隣の部屋にアルファのシモンがいる今の状況で、扉を開けるのは自殺行為だ。
 レオンスは本格的にヒートに突入した。もはや、発情期が落ち着くのをこの部屋で待ち続けるしかないだろう。

「…………ぅ、っ」

 だからレオンスは、シモンの部屋で自慰を繰り返している。

 彼の匂いに囲まれて。
 彼がいた痕跡を感じて。

 けれど——。

(……くっ! こんなの……まるで、生殺しだ)

 シモンの匂いが染みついた部屋で、彼が今朝まで寝ていたであろうベッドで耽る行為はレオンスに苦しみを与えていた。
 彼の匂いは、発情期を迎えたレオンスには毒にも等しいほどに、体の奥まで入り込んでくる。森にいるときのような安心感と同時に、その森の主がいないことに対する渇望感。

 ——ああ。このアルファが欲しい。

 体がそう望んでいることをレオンスは感じ取っていた。
 理性はまだ手放していない。体の奥はざわざわと煩いが、本能に流されるがままに他者に抱かれようという行動を起こすほどには至っていない。でも、体はひどく飢えていて、渇いていて、満たされないと叫び続けていた。

 シモンの匂い……彼のフェロモンが、レオンスを狂わそうとしてくるのだ。そのフェロモンの匂いに満ちた彼の部屋で、一人で慰め続ける意味をシモンはわかっているのだろうか。

(くそ、あのアルファめ……)

 心の中だけで悪態をつく。けれど、頭にあの男を浮かべれば、体はぴくんっと悦ぶように反応してしまう。それが嫌でどうしようもないのに、そうするしかなかった。せめて頭の中だけでもシモンを罵らなければ、淫乱極まりないオメガとして堕ちてしまいそうだった。

 何時間も、自分で自身を慰めて、弄って、落ち着けと白濁を吐き出し続ける。
 それでも本当に欲しいものはここにはない。いや、扉一枚を隔てた先に、望んでいるものがいる。だったら、その手を伸ばしてしまえ。
 理性を本能が叩き壊そうとするのを、レオンスは唇を噛み締めて堪え続けていた。

 陰茎から放った白濁は、見慣れぬベッドを汚している。いつしか手を伸ばした後孔からも淫液が溢れ、太腿を伝う。三本の指を飲み込んでもなお、はくはくと動いている淫猥で浅ましい孔。
 自室でないため、ここに使い慣れた性具はない。だからレオンスが、その身一つでこの熱を発散しなければならなかった。それがどんなに惨めで苦しいことなのか………あのアルファは知らない。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

侯爵令息セドリックの憂鬱な日

めちゅう
BL
 第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける——— ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

誰よりも愛してるあなたのために

R(アール)
BL
公爵家の3男であるフィルは体にある痣のせいで生まれたときから家族に疎まれていた…。  ある日突然そんなフィルに騎士副団長ギルとの結婚話が舞い込む。 前に一度だけ会ったことがあり、彼だけが自分に優しくしてくれた。そのためフィルは嬉しく思っていた。 だが、彼との結婚生活初日に言われてしまったのだ。 「君と結婚したのは断れなかったからだ。好きにしていろ。俺には構うな」   それでも彼から愛される日を夢見ていたが、最後には殺害されてしまう。しかし、起きたら時間が巻き戻っていた!  すれ違いBLです。 ハッピーエンド保証! 初めて話を書くので、至らない点もあるとは思いますがよろしくお願いします。 (誤字脱字や話にズレがあってもまあ初心者だからなと温かい目で見ていただけると助かります) 11月9日~毎日21時更新。ストックが溜まったら毎日2話更新していきたいと思います。 ※…このマークは少しでもエッチなシーンがあるときにつけます。 自衛お願いします。

【完結】選ばれない僕の生きる道

谷絵 ちぐり
BL
三度、婚約解消された僕。 選ばれない僕が幸せを選ぶ話。 ※地名などは架空(と作者が思ってる)のものです ※設定は独自のものです

オメガの復讐

riiko
BL
幸せな結婚式、二人のこれからを祝福するかのように参列者からは祝いの声。 しかしこの結婚式にはとてつもない野望が隠されていた。 とっても短いお話ですが、物語お楽しみいただけたら幸いです☆

傾国の美青年

春山ひろ
BL
僕は、ガブリエル・ローミオ二世・グランフォルド、グランフォルド公爵の嫡男7歳です。オメガの母(元王子)とアルファで公爵の父との政略結婚で生まれました。周りは「運命の番」ではないからと、美貌の父上に姦しくオメガの令嬢令息がうるさいです。僕は両親が大好きなので守って見せます!なんちゃって中世風の異世界です。設定はゆるふわ、本文中にオメガバースの説明はありません。明るい母と美貌だけど感情表現が劣化した父を持つ息子の健気な奮闘記?です。他のサイトにも掲載しています。

初心者オメガは執着アルファの腕のなか

深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。 オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。 オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。 穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

恋のキューピットは歪な愛に招かれる

春於
BL
〈あらすじ〉 ベータの美坂秀斗は、アルファである両親と親友が運命の番に出会った瞬間を目の当たりにしたことで心に深い傷を負った。 それも親友の相手は自分を慕ってくれていた後輩だったこともあり、それからは二人から逃げ、自分の心の傷から目を逸らすように生きてきた。 そして三十路になった今、このまま誰とも恋をせずに死ぬのだろうと思っていたところにかつての親友と遭遇してしまう。 〈キャラクター設定〉 美坂(松雪) 秀斗 ・ベータ ・30歳 ・会社員(総合商社勤務) ・物静かで穏やか ・仲良くなるまで時間がかかるが、心を許すと依存気味になる ・自分に自信がなく、消極的 ・アルファ×アルファの政略結婚をした両親の元に生まれた一人っ子 ・両親が目の前で運命の番を見つけ、自分を捨てたことがトラウマになっている 養父と正式に養子縁組を結ぶまでは松雪姓だった ・行方をくらますために一時期留学していたのもあり、語学が堪能 二見 蒼 ・アルファ ・30歳 ・御曹司(二見不動産) ・明るくて面倒見が良い ・一途 ・独占欲が強い ・中学3年生のときに不登校気味で1人でいる秀斗を気遣って接しているうちに好きになっていく ・元々家業を継ぐために学んでいたために優秀だったが、秀斗を迎え入れるために誰からも文句を言われぬように会社を繁栄させようと邁進してる ・日向のことは家族としての好意を持っており、光希のこともちゃんと愛している ・運命の番(日向)に出会ったときは本能によって心が惹かれるのを感じたが、秀斗の姿がないのに気づくと同時に日向に向けていた熱はすぐさま消え去った 二見(筒井) 日向 ・オメガ ・28歳 ・フリーランスのSE(今は育児休業中) ・人懐っこくて甘え上手 ・猪突猛進なところがある ・感情豊かで少し気分の浮き沈みが激しい ・高校一年生のときに困っている自分に声をかけてくれた秀斗に一目惚れし、絶対に秀斗と結婚すると決めていた ・秀斗を迎え入れるために早めに子どもをつくろうと蒼と相談していたため、会社には勤めずにフリーランスとして仕事をしている ・蒼のことは家族としての好意を持っており、光希のこともちゃんと愛している ・運命の番(蒼)に出会ったときは本能によって心が惹かれるのを感じたが、秀斗の姿がないのに気づいた瞬間に絶望をして一時期病んでた ※他サイトにも掲載しています  ビーボーイ創作BL大賞3に応募していた作品です

処理中です...