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第二章

36. 彼のため

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 それは、彼を呼び止めた直後のことだった。
 細い体が、シモンの目の前で宙へと投げ出され、階下へと落下していった。

 シモンが腕を伸ばす前に、レオンスの体は階段を転げ落ちて、床へと打ちつけられたのだ。

 あの光景は、今も頭から離れない。
 投げ出された体を見ている時間はやけに遅く流れたように感じたが、シモンはあのとき、自分でも驚くほどに速く彼へと手を伸ばしていた。しかし、ドンッという鈍い音が耳に届き、その手は間に合わなかったのだと理解した。
 床に転がったまま、ピクリとも動かぬ彼を見たとき、背筋が凍った。全身に嫌な汗が滲んだ。

 そのときに——彼という存在が、自分の中でどれほどの割合を占め始めていたのかに気づいた。

「——おい、聞いてるか?」
「ん? あ、ああ……すまない。少し考えごとをな」

 嫌な光景を思い出しながらも、一介の部下としてではなく個人として目が離せなくなった彼のことを考えていると、剣呑な声が響いた。

「考えるんなら、お前の個人的な感情のことじゃなくて、あいつのことを考えてやってくれ」

 まったく、と声の主は悪態をつく。
 シモンは今、自分の執務室から繋がる別室でクロードと向き合っていた。以前、レオンスを呼び出して、エジットと共に新薬に関する考えや状況について聴き取った場所と同じ部屋だ。
 そこへ軍医のクロードを招いて、レオンスの対応について協議を重ねていた。

 クロードが「個人的な感情」と茶化したが、そこまで読めている友にシモンは苦笑せざるをえなかった。だが、長年の友が言うように、今はシモンが募らせる恋心よりも、レオンスが抱える問題についてどう対応するかを考えるのが先決であろう。
 シモンは軽く咳払いをして、あらためてクロードに話を振った。

「それで、どこまで話したか……」
「隔離場所に必要なもんについてだ」
「そうだったな。場所については候補がすでにある。心配ない」

 候補となる場所は、すでに見繕ってある。
 ファレーズヴェルト要塞は古くからの施設ということもあり、様々な部屋が用意されているのが功を奏していた。地下牢などもあるにはあるが、無論そこにレオンスを入れるつもりはない。
 隔離場所として用意するのは、かつて敵国の要人を匿うことを目的とした小さな部屋だ。そこは格子に囲われた部屋ではなく、四方をしっかりとした壁で覆われて、頑丈な鉄の扉がついている。小窓だけが設けられた部屋は、従来では要人が逃亡しないよう監禁するために使われていた。そういう意味ではその部屋も牢屋には違いないのだが、ベッドや机も用意されているため人としての暮らしができるようになっている。
 元は要人向けとはいえ監禁部屋だということをレオンスに話すべきかは悩ましいところだ。聡いレオンスのことだから、伝えずとも察してしまうかもしれないが。

「彼は、納得してくれるだろうか」
「さっきも言ったが納得云々の問題じゃーない。まぁ、なんであっても、それがあいつ自身を守るためにも必要だってことはレオンスもきちんと理解してる。嘆きはしてるが、あいつもバカじゃねぇ。処遇についても仕方ないって納得はしてる」

 あのあとシモンは、目を覚ましたレオンスに命令と要望を出したのちに救護室を退室し、彼をクロードと二人きりにした。
 そこで彼が何を悩み、何を望んでいるのかは、軍医であるクロードに改めて聴き取りをしてもらっている。

「まー、ただ……本能を理性で抑えつけるのは相当に負担がでかい。部屋ん中でどんだけ苦しむかは、正直言って未知数だな……」
「苦しむ、か。オメガが本能を抑え込むというのは、やはり相当大変なのか?」
「そりゃもうな。そもそもアルファやオメガの発情ってのは性欲と同一に見られがちだが、どちらかといえば食欲に近いと言われてる。足りなくなったら欲しくなるし、満たされなければ飢え続ける。極度の空腹状態なのにそれを我慢して、頭で『飯食った気になれ』ってのは、まー難しいわな」

 クロードの言うように、第二の性による本能に関する欲情は、単なる性欲とは同一ではない。
 アルファにしてもオメガにしても、その性から発される欲を満たすためには性行為を介す。ゆえに結果として性欲も満たすことになるが、性欲は性欲、アルファやオメガの本能からくる欲は欲として別々の充足感が必要だ。

「俺たちアルファも発情すれば飢餓感は同じだ。足りないから欲しいって衝動は、わかってやれるだろ?」
「まあな」

 アルファもオメガのように『ラット』と呼ばれる発情状態が存在する。
 シモンも数度ではあるが経験はある。本能のままにオメガを欲し、その中で欲をぶちまけないと狂ってしまいそうなほどの衝動は耐え難いものであった。

「だが、あてられでもしない限り、アルファは発情しない。まー、意図的に自分を発情させることはできるが、それはいったん置いておくとして……オメガが大変なのは、本人の意思とは関係なしに発情期がやってくるからだ。女性の月経と同じだな。気合で止めるとか来るようにするとか、そーいうんじゃない。そんで、発情期がやってくれば『精を得たい』って欲が本能として現れる。その飢えを満たすには誰かに精を注いでもらうしかない」
「性交が、食事と同義ということだな」
「言い方はなんだが、そのとおりだ」

 腹が減れば食事をとらねばならない。それは生理的欲求として当然である。
 オメガにとって、欲を満たすための性交というのは、それと同義なのだ。

「抑制剤ってのは、その『精を得たい』という欲を薄めてやると同時に、疑似的に満たしているようなもんなんだ。抑制って名前がついちゃいるが、実際は薬を飲むことで飢えを僅かに満たしてやってる面も大きい。だから、抑制剤で疑似的に欲を満たしてやれれば一人で過ごせるやつもいる。……つっても、多少空腹状態がマシになる、くらいらしいけどな。とまあ、これがオメガが飲んでる発情抑制剤の仕組みだ」
「いわゆる『新薬』が強力な抑制効果を生み出していたのも、そこが関係しているということか」
「だろうな。俺は開発には関わってないから推測でしかねーが。従来の抑制剤よりも疑似的に飢えを満たす度合いが強いんだろうな」

 たとえ話を交えながらのクロードの説明は、門外漢であるシモンにもわかりやすかった。
 アルファとして、帝国軍に籍を置く者として、アルファやオメガの特性は知識として学んできた。しかし自分がアルファという性である以上、異なる性であるオメガのことを十全に理解してやれているとは言い難い。そこへきて、此度のオメガ男性の徴兵にあわせて導入された新薬という存在も増え、オメガをとりまく状況は複雑性を増してきていた。

「食欲と同じで、大飯喰らいなやつもいれば、小食で満足できるやつもいる。それは抑制剤を使ってようが、使っていまいが変わらねぇ。我慢できる度合いも様々だ。ただ一つ言えるのは——空腹が続けば人は死ぬ」

 鋭い眼光と共に、クロードははっきりと述べた。
 クロードと同様にたとえ話をするのなら、抑制剤を使わず、かつ一人で処理するということは、ずっと空腹状態でいるということだ。空腹のままで発情期を乗り越えられるかどうかは本人自身。つまり今回でいえば、レオンスが持つオメガの欲にかかってる。
 飢餓状態が続くという状況に、彼は耐えられるのだろうか……。

「……彼が望んでいないことは理解はしているが、限界まで飢える状況はやはり問題ではないか? 身体面がかなり心配なんだが」
「心配ってのは、俺も同意だ」
「好ましくない案であることは承知で言うが、薬などで一時的に意識を薄弱にさせて欲だけを満たしてやるとか、折り合いをつけられる相手を見つけて飢餓を満たすためと割り切って情を交わしてもらうだとか、そういった方法で良い案はないのか?」

 無論、前者のような強姦めいた手法をとるつもりは一切ない。かといって後者の手を取れないのは、レオンスの様子からして明らかではある。
 だとしても、体を健康を害す心配とを天秤にかけるとレオンスのことが心配であった。

「それがな……体のほうも気にかけてはやりたいが、あいつが望まないことをしてやるのも医者として賛成はしづらい」
「それには何か理由が?」
「とにかくオメガって性は繊細なんだ。望まない形で抱かれて心をぶっ壊した症例もある。体のほうはどうにかなっても、心のほうは治るのに時間がかかることが多い」

 そう返されてしまえば、シモンも言葉は返せなかった。

「まーつまりだ。レオンスが望んでない限りは、一人でこもれる場所を用意してやるべきだ。そんで、望まれたときにできる限りの協力をしてやればいい」
「そうか……」

 レオンスのことを思うのであれば、彼の望むとおりに、分泌される彼のフェロモンに誰一人として誘引されぬよう、一人きりになれる部屋を用意し、幾重にも警備をつけ、万が一が起きないように隔離してやるのが一番。それが、なによりも彼の助けになるというのが結論であった。

 けれど……欲を満たしてやれる相手として、彼の助けになりたいと思ってしまう自分に、シモンは気づいている。
 薄荷の香りに似た彼の匂いでシモンの本能を刺激して、思うがままに自分を引き込んでほしい。それは本能であると同時に、恋慕という形をまとった個人的な欲であった。

 だが、その願いは、彼にとって暴力に他ならない。
 シモンができることはただ一つ。彼を見守り、望むとおりに助けの手を差し伸べるだけ。

 せめて彼が体も心も壊さずに、この危機を乗り越えられるようにとシモンは願った。

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