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第一章
22. 上層部の思惑
しおりを挟む時は少し遡る。
その夜は、ブランノヴァ帝国にしては珍しく夜遅くまで湿気が多く、熱がこもっていた。夏と呼ぶには早い時期だが、そろそろ雨が増える季節であった。
東の森を越えた先——そこに皇国の拠点があるという情報は以前から知っていたが、いよいよそこへ攻め入れという指令が下ったのは一週間ほど前。それから速急に準備を進め、あと十日もあれば作戦を開始できるという晩のことだ。
シモンは執務室で作戦内容を確認していた。
帝都から下った指令書を改めて見直す。そこには何度読んでも「皇国の拠点へ攻めこめ」という命が綴られている。
(……今更、あそこに攻め入って何になるというのか)
指令書を睨むシモンの目には憂いが浮かぶ。シモンは此度の作戦に関して、疑問を感じていた。
先ほども述べたように、東の深い森の先に皇国の拠点があるというのは、帝国軍がこのファレーズヴェルト要塞に四つの部隊を集めたときから知られていたことだ。むしろ、その拠点があるからこそ、この要塞に部隊を集めたと言ってもいい。ここに部隊が集結していなければ、皇国はすぐにでも深い森を駆け抜け、帝国へ進攻していただろう。要塞に派兵された四つの部隊は、皇国への牽制と近辺の防衛機能を担っていた。
ひとたび皇国が攻め入ってくれば、この地も漏れなく戦場と化す。
そういう場であってもこの要塞周辺で大規模な戦闘行為を繰り広げるのに至っていないのは、ファレーズヴェルト要塞が古くも堅牢であることと、東に広がる森が深いこと、そして近くに湿地が広がっているためだ。
端的に言えば、皇国側から攻め入るには手間がかかる環境であるがゆえ、苛烈な戦闘地域になっていない。開戦当初は攻め込んでくる動きもあったが、数ヶ月もしないうちに冬を迎え、それと同時に皇国からの大々的な進攻はなされていなかった。互いに様子見、あるいは牽制というのが東の地の現状であった。
だがそれも、いつまで続くのか。
ブランノヴァ帝国は劣勢の一途を辿り、戦況を覆すような策は見い出せていない。この地が攻め込まれずとも、帝国の劣勢には変わりない。まして戦局が変わるほどの変化をこの地で見出すというのは些か妄言が過ぎる。
それほどまでに、敵国であるベルプレイヤード皇国の力は圧倒的だ。
その皇国の拠点の一つが森を抜けた先にある。だが、その拠点に戦力はあまり集められていないことにファレーズヴェルト要塞の面々は数ヶ月前から気づいていた。つまり、皇国はこの東の地からの進攻を画してはいない。それがこの要塞で防衛の任につく第六から第九部隊隊長全員の見解であった。開戦当初ならさておき、今や皇国にとって重要な拠点ではない、ということだ。
そのため、その拠点に今更ながら攻め入ろうという上層部の判断に、シモンは首を傾げている。
(本部は何を考えているんだろうな。……いや、あるいは何も考えていないのか。すでに放棄間近の拠点一つを制圧したところで、戦局が変わるとも思えん。小さな勝利にために、どれだけの犠牲を払うつもりなんだ……)
拠点へ斥候を送って得た情報や、各部隊長の見立てについては、すでに何度も帝都へ情報を送っている。通信兵を直接帝都へ向かわせて、細かな状況も伝え済みだ。——皇国の拠点は、近いうちに手放されるのではないか、と。
それはすなわち、皇国がその拠点に寄せていた軍力を縮小させ、その分を他の戦地へ向かわせ戦力増強をする可能性を示唆している。
ファレーズヴェルト要塞から自軍を退くべきではないが——ここで退けば、それこそ皇国がこちらへ攻め入るきっかけを作ってしまう——かといって、必要以上に敵の拠点を警戒する必要もない。シモンたちは、そう上層部に伝えていた。
しかし要塞からの報告虚しく、上層部は「ならば好機である」として、皇国の拠点へ攻め入るよう指令を飛ばしてきたのだ。
(……上層部も、もはや皇帝の言いなりか)
本来であれば、優秀な者が集まっている帝国軍上層部である。
それでも今のような判断が下されるということは、戦地からの情報ではなく机上で戦争をしている物のわからぬ者か、皇帝に逆らえぬような状況に陥るほど正常に機能していないかの、どちらか——あるいは両方——だ。
オメガ男性への徴兵令が下った頃から、帝国の雲行きは一気に怪しくなったとシモンは感じている。
シモンだけではなく、おそらく戦地を駆けている多くの者はそう考えているだろう。
この国は、まともな思考をする力すら失いかけている——。
「…………まいったな」
嘆きはため息になって、夜の空気に溶けた。
とはいえ、どんなに嘆いたところで帝国軍の軍人として任務に就いている以上は、上の命に従わないという道はない。いや、あるにはあるが、それを行えば、延いては民の犠牲拡大に繋がることをシモンも他の隊長も知っている。
革命は、時に多大な被害と混乱を招く。
その手を取らざるを得なくなる前に、軍人である自分たちが進攻してくる敵国を抑え、この国から立ち去ってもらわなければならないのだ。たとえ大きく勝てずとも、民を護れればいい。口に出すのは憚られるが、シモンはそう考えていた。
だからこそ、オメガ男性の徴兵には今でも疑問を感じている。
彼らを戦地へ駆り出すことは、護るべきはずの民を危険な地へ連れ出すことにほかならない。本来、国や軍が担うべき責務を放棄している気がしてならないのだ。
だが、それを言葉にすればシモンには何らかの懲罰が下るだろう。懲罰自体は怖くない。それを受けて戦争が終わるのならば、いくらでも受けよう。しかしシモンの行動一つで、オメガの彼らや帝都にいる護るべき民たちに影響があるような……そんな気がするのだ。ゆえに、慎重な行動が求められると思っていた。
パラパラと指令書を再度確認し、作戦を綴った書類や帝都から届く様々な情報を確認していると、不意にバタバタと廊下を急ぐ足音が近づいてくるのが聞こえた。そして、数秒もしないうちにバタンッと勢いよく執務室の扉が開く。
多くの者はそこが執務室であってもそうでなくても、扉が閉まっていればコンコンと戸を叩いて入室の許可を貰うのが常だ。それを合図もなく開けるというのは、相手がだいぶ急いでいるか、慌てているかだった。
「隊長!」
「なんだ、どうした?」
血相を変えて扉を開けたのはジャンだった。
シモンは訝しげに眉を寄せて、はぁはぁと肩で息をする彼に問いを投げた。
「それが……っ、レオンスが倒れまして。先ほど救護室に運ばれたんですが、意識がまだ戻らなくて」
「……なに? 今、なんと……?」
「レオンスが作業中に意識を失って倒れたんです!」
部下の誰かが倒れた、怪我をした、場合によっては命を落としたという話は往々にしてよくある報告だった。曲がりなりにも戦場なのだ。
しかしそれは、アルファやベータといった兵の話だ。
先の四月から配属されたオメガの兵士について、シモンはかなり気にかけていた。
彼らが『オメガ』という稀有な性だからだ、というのはある。
昔から軍人を多く輩出している家系に生まれたシモンは、幼い頃から力なき者に対して優しく接するようにと教育を受けて育った。その対象は女性であったり、老人であったり、子供であったり、オメガであったりした。
シモンはアルファの中でも、とりわけ力に長けたアルファであると自覚している。
その気になれば、国の中枢でも、軍のさらに上層部であっても分け入ることができるだろう。しかしブラッスール家は、上へ上へと伸し上がることよりも、民のために体を張ることを好む家だった。そんな環境で育ったからか、シモンも机を囲んで戦略を練る幹部ではなく、現場を駆ける軍人の道を目指した。そうして軍人となり、今は部隊長として何人もの兵士をまとめている。
そこにきて、此度のオメガ徴兵であった。
男性とはいえオメガが徴兵されると報告を受けたとき、シモンは何とも言えぬ衝撃を受けた。それと同時に抗えぬ空気を感じ取り、それならばと自分の手が及ぶ範囲ではあるが可能な限り、彼らには良い対応をしてやろうと決意した。
これは差別ではなく、同情でもない。
同じ部隊に所属する仲間として、当然の配慮だ。
だから配属後、特にこの最近でオメガたちが体調を崩しているという報告には心を痛めていた。それと同時に、少しでも彼らの力になれるにはどうすべきか、あれこれと考えていた。だが、戦地で彼らにできることは僅かだ。そんな中で彼らが一人の兵として働こうと無理すらしている状況に、歯痒い思いをしていた。
「案内しろっ!」
シモンは思わず声を荒げていた。
まさか、倒れるほどに苦難を強いていたというのか。
いや、体中の血がふつふつと騒ぎ立てているのは、一介のオメガ兵が倒れたというだけでは説明がつかない。シモンは、オメガが配属されたあの日、彼と——レオンスと出会ったときから、彼のことが頭から離れない。
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