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三章 食堂付きの宿にて(1)

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 鳥に食べ物の礼を改めて告げた後、ラビはノエルと共にアビードの町に戻った。ごちゃごちゃとした印象のある建物や雑貨といったものを広げて販売している屋台やテント店は、街灯だけでなく吊り下げ式の灯りも沢山付けられていて、まるで祭りのような眩しさで町を照らしていた。

 その橙色の明かりは、帽子から覗く金髪をあまり目立たせないでいてくれていて、ラビは人混みに紛れるように帽子を深くかぶり、足早に中心地まで歩き進んだ。
 一階に食堂が付いているという時計が設置された宿を目指していると、しばらくもしないうちに一際背の高い建物が見えてきた。

「あれかな?」

 思わず呟くと、日中よりも距離が近い通行人を忌々しげに避けていたノエルが、彼女が見ている先と同じ方向に顔を向けた。

『こっからだと、時計が付いているのかまでは確認出来ねぇなぁ』
「ノエル、大丈夫? すごく歩きづらそうだけど、先に行く?」
『……先には行かねぇ』

 ノエルはそう答え、ラビから離れないよう人混みを縫うように歩いた。

 その目立った背の高い建物は、近づいてみると、小さな窓がついた壁の中央に古びれた大きな時計が一つ設置されているのが分かった。時刻は午後の十時で、ホノワ村であれば、全村人が消灯して寝静まっている頃である。

 時計が付いた建物は一軒しかないと教えられていた事もあるけれど、ラビとノエルは建物の入り口が見え始めた時に、それが目的地の建物であると確信した。何故なら、扉のない開かれた一階部分の出入り口に、ローブで身を包んだ見知った男がいたからだ。
 建物の入口脇にある木箱に腰を降ろしていたのは、ヴァンだった。ローブで騎士服が隠れているせいか、ぼんやりと煙草を吹かしている無精鬚の横顔は、騎士というよりは本物の旅人のようにも見えた。
 
「よぉ、チビ獣師。遅かったな」

 こちらに気付いたように振り返った彼が、煙草を持っていない方の手を、軽く上げて彼がそう声をかけてきた。

 ラビは最後の人の波を抜けると、小走りで駆け寄った。どうしてヴァンがこんなところで一人煙草を吸っているのか不思議で、つい尋ねてしまう。

「食堂は禁煙だったのか?」
「まぁ、そんなところだ」

 そう言って、ヴァンは短くなった煙草の吸殻を、木箱の隣に設けられていた灰皿に押し潰した。さっきサーバルに言われて、女の子だしなと思い出して待ってしまった訳だが、とラビに聞こえない声量で口の中に独り言をこぼして立ち上がる。

 目の前に立たれると、幼馴染のセドリックよりも大きな男である事がよく分かった。ラビが、騎士も軍人なんだよなぁと考えていると、こちらを数秒ほど見下ろしていたヴァンが、ふと口を開いた。

「お前は、強いな」

 言われた意味がよく分からなくて、ラビは首を傾げた。

「剣と体術にはそれなりに自信はあるけど」
「そっちじゃねぇんだが。いや、強くあろうとしているだけか――『相棒』もそこにいんのか?」

 建物の出入り口から、馴染みのない民族衣装で身を包んだ三人の男性が出てきたので、ラビは口頭では答えず、ここにいるよと教えるようにノエルの背を少し撫でた。
 表情なくそこに目を留めていたヴァンが、「やっぱ見えねぇな」と腕を組んだ。

「あんなデカい犬っころだったら分かりそうなもんだが、気配すらもないってのも不思議だぜ」
『テメェが気配を認識出来てないだけだ。あと、俺は犬じゃねぇ、狼だ』

 ノエルは答えたが、その声はラビにしか届かないものだった。

 犬の中で害獣に分類されている少数種については、確かに大型も存在している。人によっては、犬と狼の見分け方が難しいとする場合も少なからずあり、特殊ながら、二つの種族の間に位置している狼犬に属する動物も存在していた。

 とはいえ、害獣に指定されている肉食種の大型の山犬を含め、これほど身体が大きく、しかも立派な狼という顔立ちや姿をしている犬もいない。そういう理由もあって、ノエルとしては誤解されるのは大変遺憾である。

「ところで、お前メシはまだだろ。料金は宿代を含めて払ってあるから、カウンターで注文したら席に座って待っていれば運ばれてくる。今ならほとんど人がいないし、奥の席の方なら『相棒』にもあげられると思うぜ。部屋の鍵は、入ってすぐのところにある受け付けで名前を言えばもらえる」

 で、遅れて合流したお前に状況を説明するとだな、とヴァンは手振りを交えながら続けた。

「ユリシス様は就寝が早いからな、さっさと食って部屋に上がっていった。テトとジンが外に飲みに繰り出して、ハメを外し過ぎないようサーバルが同行した」
「それって夜更かしじゃん。眼鏡が知ったら怒りそうだな」

 眼鏡と言われた一瞬、ヴァンは「呼び名が『眼鏡』か……」と遠い目をしたが、気を取り直すように固い癖毛の髪を後ろへ撫でつけた。

「あいつらは酒が強いからな。寝坊さえしなけりゃ、ユリシス様も何も言わねぇよ」
「ふうん? あんたも、サーバルさんって人といつも一緒なのに、別行動なのも珍しい気がする」
「お前、サーバルの名前はちゃんと呼ぶんだな、しかも『さん付け』……。俺だって外に出る予定だったんだが、副隊長のお守で――」

 そこで、ヴァンは唐突に思い出したかのように言葉を切り、「そうだった、忘れてたけど、俺がユリシス様の代わりに付いてたんだよなぁ……」と深い溜息をこぼした。
 彼は幼馴染のセドリックを、副隊長と呼ぶ。つまり他の騎士のメンバーが退出した中で、セドリックだけが食堂に残っている状況であるらしい、とラビは察した。

 あの仕事に口煩いユリシスが就寝し、テト達が外に飲みに行ったという事は、勤務時間外なのだろう。それなのに、部下として仕事でわざわざ一緒にいたのだというようなヴァンの台詞には、疑問を覚えてしまう。

 それについてラビが問い掛けようとした時、視線を斜め下方向にそらしていた彼が、悩ましげにこう言った。

「正直言うと、逃げたい」
「はぁ?」

 一体唐突になんだ、とラビは露骨に顔を顰めた。

 お前結構隠さないし色々と失礼だよな、とヴァンは自分よりも随分小さな彼女へ視線を戻した。

「俺はな、第三騎士団で一番怒らせたくない相手が、副隊長なんだよ。あの人は切れるとおっかねぇ。強く酔っている時は、へたするとプツリと切れて日頃のあれやこれやを説教される率がぐんと上がる」

 真面目な顔で、ヴァンがそう言い切った。

 ラビは、幼馴染のセドリックが、どれほど温厚気質であるか知っていた。だから、真面目に聞いて損した、と言わんばかりの表情を浮かべて腰に片手をあてる。

 切れるとセドリックが一番怖い、というヴァンの主張を完全に聞き流す姿勢を察知し、ノエルは『ルーファスの弟だし、可能性はあると思うんだがなぁ……』と呟いた。しかし、ラビはその呟きを聞く前に発言していた。

「説教はするけど、セドリックはそう簡単にプツリと切れたりしないよ。というか、日頃のあれやこれやって、お前普段ちゃんと仕事してんのか?」

 本人に向かって失礼極まりない疑問をストレートに尋ねたラビは、そこでようやく、ヴァンが語った現状について遅れて一つの事を理解した。

「――って、ちょっと待った。強く酔ってるって? 誰が?」
「うちの副隊長」
「そんなに飲んだの? あのセドリックが?」
「ビールをジョッキでお代わりだ」

 貴族がワインなどの酒を嗜むというのは、幼い頃からヒューガノーズ伯爵家と交流があったから知っている。一時期世話になっていた際の夕飯時にも出ていたし、セドリック達の父親であるヒューガノーズ伯爵は、昼食の際にも地元産のワインを少し口にしたりするのも珍しくなかった。

 とはいえ、今は調査任務に向かう道中だ。明日も早い出発だというのに、セドリックが嗜み以上の量の酒を飲むというのは、あまりイメージがなかった。

 ラビの中で、彼は未成年時代の印象の方が強く残っているため、お酒を飲むというのも馴染みがない状況だった。しかもワインではなく、庶民に親しまれているビールを、彼がジョッキで思いきり飲むという姿を想像するのも難しい。

『ジョッキの二、三杯で酔い潰れたってんなら相当弱いな』
「それでも結構多い気がするけど……」
『大抵ビールってのは、三杯くらいは軽く飲めるようなアルコール飲料だぜ』

 ラビがノエルと話していると、ヴァンが「ワンコ、何か言ってんのか?」と尋ねてきた。

「うーんと、ノエルが、二、三杯なら酒に弱いなって」
「正確に言うと、一杯と半分だな」

 なんだそんな事か、という顔でヴァンが即答した。

 それを聞いたノエルが、間髪入れず『クッソ弱ぇな! なんでこのタイミングで飲んだんだ?』と叫んだ。ラビも、それには同感だと思った。

「仕事終わりには、ビールって決まりでもあるのか?」
「いんや、特に決まりはねぇけど、夕食にビールは付きものって感じだな。副隊長はいつも少し口にする程度なんだが、目が合ったと思ったら、突然一気飲みしたんだよなぁ」
『あ~……なるほど、なんとなく読めた気がする』

 ノエルは、日中に窃盗団を彼らに引き継いだ際にあった、ヴァンが向かってくるラビの頭を押さえた件だろうか、と思い至った推測を口の中に落とした。王都の伯爵本邸を訪問した時にも、セドリックが妙にそわそわしていた事を思い出す。

『……あの猫娘もショックを受けていたみたいだが、もしや頭でも触りたかったのか?』

 いやまさかな、とノエルは呟いて浮かんだその可能性を否定した。彼が独白する脇で、ヴァンとラビの話は続いていた。

「副隊長は、今度はテトの方を見たタイミングで、二杯目のビールのお代わりを力いっぱい注文した。ユリシス様もびっくりしてたぜ」
「何やってんの、あいつ?」
「さぁな。ユリシス様もあまり飲まない人なんだが、上司に付き合うって言って、珍しくビールをジョッキ一杯分は飲んだな」

 ヴァンは思い返しながら説明し、「やれやれ」と首の後ろを撫でさすった。

「ああ見えて、テトとジンは騒ぎ癖もある後輩だからな。サーバルだけで面倒を見るってのも手に余るだろうし、だから幼馴染の副隊長の事は任せたぜ、チビ獣師」

 それに多分、外にいるよりはずっと安全だろう――

 視線をそらされた際、そんな呟きが聞こえたような気がして、ラビは踵を返したヴァンの背中に向かって「何が?」と尋ね返した。しかし、彼は「なんでもねぇよ」と言って、後ろ手を振って歩いて行ってしまった。
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