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 煙草は嗜むが、酒は飲まない男だった。最近は会う機会がなかったのだが、仲村渠にとっては少ない友人のうちの一人だった。

 城間に連絡を取ると、ちょうどその病院に教え子がいるということで、妻の様子を教えてもらえる運びとなった。

 個人情報の保護というのがあるから、城間が教え子に経過を聞き出して、仲村渠に報告してくれるという流れだ。

 一日、一日が、仲村渠に重々しく圧し掛かった。

 妻は大丈夫だろうかと、毎朝、城間から報告を受けつつも心配で仕方がなかった。

 妻の容体は安定しているが、もう、ほとんど寝て過ごしているらしい。免疫力が下がっているから外出も禁じられており、いつも家族の者が入れ替わり立ち替わり、彼女に会いに来ているのだとか。

(残されている時間があるのなら、――俺も、会いに行ってはいけないだろうか)

 仲村渠は、そう思った。けれど、

(息子達が俺を相当嫌っているように、俺のせいで妻が、辛い結婚生活を強いられていたとするなら……)

 会えない。でも、俺は会いたい――……。

 そんな迷いと葛藤が、彼を一層苦しめていった。

 何も進展がないまま半月が過ぎ去った。

 そして、事件は起こる。

 その日は、日差しが暑くも感じる晴天だった。彼は寝室の窓から外を眺めていたのが、当然のように気持ちは少しも晴れてくれなかった。

 寝室から出てすぐ、彼は一つの違和感に気付いた。

 閉め切っていたはずの一階から、風の流れを肌で感じ取った。

 確認してみると、なぜか客間も、書斎も、窓が開かれて空気の入れ替えがされている。

 不審がりながら歩き慣れた廊下を慎重に進んだ。すると明るいリビングに足を踏みいれた瞬間、珈琲の香りが鼻をついた。

「あら、あなた、おはようございます。今日は珍しく遅い起床ですのねぇ」

 キッチンには、エプロンをつけた妻がいた。

「あ……え、お、おまっ……」

 別居となる直前まで、彼と過ごしていたはずの妻が、そこにいたのである。

 口をあんぐりと開けて見つめる仲村渠を、妻は「どうしたの」と不思議そうに見つめ返した。

 目の前に現れた中年の女性が、彼の記憶の中にいる妻の印象と少し異なっていたのは、彼女が出会った頃のような幸福そうな顔で笑うところだ。別居した頃より、少し歳も若いように思えた。

「あらあら、どうされたんですか? さ、珈琲が冷めてしまいますよ」

 仲村渠は促されるまま、パジャマ姿で珈琲を飲み、キッチンで楽しく朝食作りに精を出す妻をまじまじと見つめた。

 影はある。身体は生身のようだが、この現象はいったい何だ?

 出された朝食は美味かった。彼の寝癖に触れてくる妻の手も、暖かい。

(俺の方がおかしくなってしまったんだろうか)

 そう仲村渠は悩んだが、いや、そんなはずはないと思い直した。彼女は、病院で入院中のはずなのである。

 そこでテーブルに用意されていた新聞を手に取って、今日の日付を確認しようとしたところで、仲村渠は一つの異変に気付いた。

 新聞、雑誌、テレビなど、日付を探すことができなかったのだ。

 不思議と、日付部分が空白となっている。スマホの待ち受け画面にも、ない。

「あなた」
「なっ、なんだ」

 食後の珈琲を淹れ直した妻が、ふんわりと微笑みかけてきた。

「長い間、お仕事お疲れさまでした」
「え……」
「最後の出勤日も、あっという間でございましたね」

 手を握られて、仲村渠は呼吸がゆっくりと止まった。そこに彼は、彼女と過ごしたのだったら――という、もう一つの人生の光景を見た気がした。

『お帰りなさい。お疲れさまでございました』

 最後の時に、そう、妻に言ってもらいたかった。

 自分の誕生日だって興味がなかったのに、仲村渠は、もう終わってしまった人生の節目の一つについて、胸がぎゅっと寂しさに締めつけられた。

(そばにいて欲しいのは、お前、だけだったんだ)

 仲村渠の目から、ぼろぼろと涙がこぼれていった。

 妻が「あらあら、まぁまぁっ」と驚いたように言い、ティッシュを何枚も取って、仲村渠の目元にあてた。

「どうされたのです? 長いこと努めていらしたものね、寂しくなる気持ちはわかりますよ」
「ち、違うんだ……すまなかった……本当に、すまない」

 何も、してやれない夫だった。

 仕事をこなす日々。そこから残った余暇に、酒を片手に持っていたら、妻を愛せるはずがなかった。

 抱き締めるはずの腕に、彼は酒を持っていた。

 妻と他愛のない話をしてやれるはずだった時間、彼はテレビを大きな音量で流し、意味もなく時間をだらだらと消費した。

「本当に、お疲れ様でした。もう一度抱き締めてもいいですか?」

 出迎えも、抱き締めも、なかったことだった。

 けれど仲村渠は、いっときのこの夢を『一度だけでいい』と見たくなった。

 最初で最後にするからと、彼はそう思いながら妻の胸を借り、泣いた。

 嗚咽を押し殺し、後悔と、罪悪感と、そしてたった一人愛したその女性に『どうか俺より先に死なないで欲しい』という想いで、泣いた。

 そして、仲村渠は、彼女の前で泣くのはこれで最後にしようと心に決めた。

 そのあと、彼は台所で片付けをする妻を残し、友人の城間に大急ぎで電話をかけた。

 申し訳なく思いながら病院に確かめに行ってもらうと、病室で寝ている妻がいたと、折り返し電話連絡があった。

(何か、大変なことが起こっている)

 仲村渠はそう思ったが、城間は彼の話を聞いてもピンと来なかったらしい。

『とりあえず、会おう。会って、その現象を確認すべきだよ』

 城間がそう提案し、二人は近くの茶店で落ち合うことにした。

 だが、仲村渠がいくら待っても城間は現れなかった。痺れを切らして電話を掛けると、もう到着していると城間は言った。

『どの席だ?』
『F席だよ』
『は……』

 その時、仲村渠もF席に一人で座っていたのだ。

 どうやら、訳がわからない現象は、自分の身にも起こっているらしいと、この時になって仲村渠は気付く。

 試しに、自分の足で妻の病院を訪ねようと足を運んでもみた。

 しかし病院らしき建物さえ、発見することができなかった。

『と、とすると、詰ま輪連れても行けないってことか……俺は幽霊になっちまったのか?』
「落ち着け、パニックになったらだめだ。何か、確かめる術を探すんだ。幽霊との電話なんて聞いたことがないぞ。俺は、今、こうしてお前と喋っているんだから、お前が生きているのは確かだろう」

 友人と電話越しで話し合い、まずは仲村渠が先に会計を済ませて外に出た。

 その後、城間がレジに向かい、会計をしながら店員の女性に尋ねる。その際の会話は、仲村渠はスマホ越しに聞いていた。

『さっき、仏頂面の年寄り染みた男が来なかったですかね。右手にスマホを持っていて、突拍子もなく自己紹介をして帰っていったと思うんですが……』
『ああ、いらっしゃいましたね。つい、さっきのお客様だと思います。ナカンダカリだ、と言い残して去っていかれましたから』
『どこ席に座っていたのか、覚えていますか?』
『どちらだったかしら。私が珈琲の注文を取ったのですけれど……ごめんなさい、覚えていないみたい』

 電話は通じるが、結局は面と向かって会えないことだけは分かった。何度試しても無駄だった。

 電話が通じるだけまだマシだと、友人は困ったように笑っていた。

『原因は分からないが、ユタに相談した方がいいんじゃないかな。私は詳しい訳ではないがね、たとえばお前の奥さんが、魂が身体から離れて実体化しているとしたら、危うい気がするんだよ』
『確かに……』
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