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第二章 資料室
6 湖畔
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6 湖畔
「この、幽霊屋敷の舞台って……」
顧問への質問は続く。顧問はとても帰りたそうにしているが、はっきり言い出さない限り、私の質問は続く。
「S湖辺りの……違います?」
いろいろと特徴をあげてみるが、目を泳がせてうなるだけで全くあてにならない。
「そんな場所だったような気もしますが」
「この辺、今年の合宿で行くはずだった場所ですよ……」
一応行程案は見せたはずだが、覚えていないらしい。つくづく何も覚えていられない顧問である。森にはいくつもの美術館が点在しており、湖をめぐる公園もある。合宿二日目はここで自由に見学やスケッチをする時間を取ろうと思い、アクセス方法はもちろんのこと、各美術館の開館時間や入場料、昼食場所や巡回バスの時刻表まで調べていた。全部流れてしまったが。
「ご家族で行ってきたらどうです」
「家族で……」
そういえば流行り病が持ち上がってから、家族でどこにも行っていない。旅行はもちろん、外食もしていない。感染をちゃんと恐れている系の親である。そんなミーアキャットみたいな家族をかりだすなんて許されるだろうか。ドライブだけならまだしも、宿泊は絶対嫌がるだろう。そもそも感染症云々の前に、美術館なんか五分で飽きているさまが目に浮かぶ。そんな親を待たせ、あるいは引き連れて、スケッチしたり展示に浸ったりする気にはなれない。
「別行動すればいいじゃないですか。ご両親には買い物とか散歩をしていてもらえば」
「いや、うちは割とガチに感染を恐れる系の親なので……」
民放ニュースを見すぎな母は、気ままに外出している若者や医療現場の苦境を見るたびに眉をひそめ、帰宅した家族が消毒せずに玄関をまたぐと鬼の形相で追いかけてくる。オリンピックが中止にならないことも、不思議で仕方ないらしい。美術部の合宿がなくなったという報告にも、満足そうにうなずいていた。
「じゃあ一人で行ってみたら? 新幹線もあるわけだし、日帰りで」
「先生……今週末も、どうせ軽井沢行かれるんですよね?」
顧問の目が大きくなる。珍しく、皆まで言わずとも察してくださったようだ。
「まさか乗せて行けと」
「行きだけでいいんですが」
「嫌です」
生徒に対してストレートすぎる。
「私の車で行くったって、向こうに着くのは夜ですよ」
「それなら先生のアトリエに、一泊だけさせていただけませんか。次の朝、美術館に行って、後は一人で帰りますから。あ、お部屋がご迷惑なら車中泊でも構わないです」
固まる顧問のそれとは対照的に、私の脳細胞は活性化する。
「そんなことさせられるわけがないでしょう」
「連れて行ってください。お願いします」
「あのね、教師と生徒が個人的に連絡を取ったり出かけたりしたらいけないんですよ」
「なんでダメなんですか」
「とにかく生徒と私的な関係を持つのはだめなんですよ。特別扱いもだめ」
顧問に特別扱いされても何のメリットもないから誰もが放っておいてくれるだろうという反論はさすがに失礼なので控えた。
「皆には内緒で行けばいいじゃないですか」
「親に無断で生徒を連れ出したら犯罪ですよ」
「うちの親が許可したら、乗せて行ってもらえますか?」
「嫌です」
「な……」
「なぜかと言えば、私は、週に三日は一人にならないと、まともな精神が保てないからですよ」
これには黙ってしまった。ひどい理由だが、おそらく建前ではない。
「週のほぼ半分じゃないですか」
「そうですよ。スナフキンと呼んでくださっても構いません。こればっかりは、たとえ生徒の頼みでも譲れません」
孤独を愛するという点だけで名前を借りてはあちらに失礼だ。また、生徒の頼みを断わり続けている顧問の発言は、羽毛ほども重みがなかった。
「一人で行きたい所があるって、家で相談してごらんなさい」
もう高二なんだし、当然の欲求だろうという。うまく説得すれば、資金協力してくれるのではないか。留学を許可していた両親が、たった一日の国内旅行を反対するはずがない。などと、怒涛の勢いで説得してくる。顧問が人を丸め込もうとするなんて本当に珍しい。
「まあ……一理ありますね」
私はのろのろと返事をした。顧問にはいくら言っても駄目なようだから、今日はあきらめよう。そう思って引き下がった。
* * *
親は意外にも反対しなかった。旅行に連れて行けないことや、留学が取りやめになったことを、私が思っていた以上に気にしてくれていたらしい。行動の予定を事前に知らせておくこと、目的地に着いたら必ず連絡を入れること。それが条件。なんと交通費も出してくれるという。感染症を心配する母も父に諭されて、まあ日帰りならと、頷いた。あれよあれよと話が決まった。
理解のありすぎる両親。夕食後、なぜか私以上に張りきった父が携帯を取り出して、その場で指定席の往復チケットを取ってくれた。
こんなに親にお膳立てされる一人旅って一体。
金曜の朝早くに家をたち、夕方の新幹線で帰宅する。一瞬でもいい、向こうで顧問と合流出来たら、これ以上ない夏休みになるのだが。
* * *
金曜の朝。九時には軽井沢駅に着いていた。真夏なのに空気がひんやりと冷たい。目当ての美術館はタクシーに乗れば十分ほどで着くらしいのだが、散歩をしながら向かい、途中でバスに乗った。
顧問にはこちらのスケジュールを伝えてある。顧問は行かないと言い張ったけれど、私は待つと言い置いてきた。
来るはずがないと分かってはいる。ただ、どこかで会うかもしれないと思えるだけでいい。着いたら連絡したいと言ったが、顧問が連絡先を教えてくれることは遂になかった。
父と母には、駅に着いては連絡を入れ、バスに乗っては連絡を入れ、美術館については連絡を入れた。すぐに既読になる。これが顧問だったらどんなにいいだろう。美術館に入ると、私も一人を満喫したくなってきた。帰宅の連絡までは見ないように、携帯をしまいこんだ。
美術館を出ると、かなり日ざしが強くなってきていた。グッズを物色し、カフェでサンドイッチとラズベリージュースを頼んだ。顧問はこのカフェがきっと似合わない。
アスファルトで舗装された道路は広いが、車通りはまばらだった。道は白い中央ラインをうねらせながら木陰の中にきえていく。そっとマスクを取って樹々の匂いをかぐ。降り注ぐ夏の日差しと、森の冷気が醸し出す独特の風。
部活の連絡網には、一応、顧問の番号が載っている。だが、それは学校が教員に貸している携帯の番号にすぎないらしい。衝動的に鳴らしてみるが、我に返り、誰かが出る前に切った。顧問の番号に掛けるとなぜか別の教員が出て、顧問を探し回って、運良く見つかれば折り返し連絡が来るという。恐ろしく携帯の用をなさないのでかけるなと言う先輩の教えを思い出したのだ。
美術館を幾つ巡っても、顧問からの連絡はなかった。湖に行った。スケッチをして過ごす。暑くて疲れてきた。一人でアヒルのボートに乗った。デート中のボートにぶつかった。中島に降りた。カルガモが寄ってきた。お菓子をあげて過ごした。芝生で寝転んでうとうとする。
こういうの好きそうだなと思って、だれが、と思う。水がオレンジ色の輝きを増し、陽は翳り出した。あの子を連れてきてやりたいけど、それはできないと気付く。
死にたがっているのかもしれないと感じたあの子の二次創作。本気ではないと思っていたのに。どうして一線を越えたのだろう。芝生の下の土はしんしんと冷たい。風と微かな葉音。
私が気づいてやるべきだったのかもしれない。あの子の作品は、今でもきっと、ネットの海に漂っている。私だけが知っている彼女の作品たち。ヒロインは必ず傷を負い、死んでは人に囲まれる。斬る、喰われる、堕ちる、駆ける、死ぬ。あの子が消えて以来、いちいち身体に吸いつく言葉。小説なんかを通じてあの子と近づいた私は、彼女の母に恨まれている。
本なんて読まない子だったのに。単純な子だったのに。生き物が大好きで明るくておしゃべりな子だったのに。あなたと出会ってからあの子は変わった。あなたとあの子はクラスでも二人きりで、浮いていた。心配していた。
置き去りにしたの。あなたが引きずり込んでおきながら。
そう聞いた。言葉の端々からそう聞いた。きっと被害妄想。笑顔で話してくれている。けれど、私はそう聞いた。
私はあの子の複雑さが好きだった。その複雑さが彼女を殺したと彼女の母は思うのだろう。私は恨まれている。不当だと分かっている。誰かを恨まずにいられないのもわかる。私が悪くないのもわかる。責められてはいないことも。この様々な感情も、仲良くしてくれてありがとうって言いながら泣いたあの人の悲しみには及ばないということも。でも私一人だけが制服を喪服としてあの場にいることを許されて以来、毎朝、それを着るだけで苦しかった。
あの子は私の一部を連れて消えてしまった。私の一部はあの子に失われてもう戻ってこない。もう会えない。理由もわからないまま簡単に消されてしまった私はどうすればいい。どうして。どうして死んでしまったの。どうして助からなかった。どうして怪我ですまなかった。どうして何を考えて最後の瞬間、飛び立つ瞬間、何を感じて、何を考えていたの。私のことなど考えもしなかったに違いない。私もその日、その瞬間、特にあの子のことを考えていたわけではなかった。流行り病で消えていた、学校での自分に戻るのに必死だった。
さっきから聞こえていたのは讃美歌ではなく閉園の音楽だと気付き、目が覚める。起き上がり、ボートを船着き場に戻して園を出る。顧問からの連絡はなかった。バス停に向かう。一時間後にバスが来る。新幹線はまだ間に合う。顧問からの連絡を待つ。会いたいです。ショートメッセージを送信しかけてやめる。会えたらいいと願っていたが、会えなかったのだからさっさと帰るべきだ。バスが来る。見送る。親からラインが来る。電話が来る。無視する。電話が鳴り続ける。無視する。ラインで、バスの中だと送る。嘘を吐く。ごめん出られないと嘘を吐く。バスが来る。ラインの中の私はとっくに駅に着いている。バスが出る。何台も、何台も。身体は動かず森に残る。日が沈む。森はうっそうと暗さを増す。次が最後のバスだ。携帯が鳴る。出たくない。次のバスに乗ろう。誰にも連絡はしない。バスが来る。最終バス。動けない。
乗り遅れると思った瞬間に腕を掴まれた。電話を掛けながら顧問がいた。鞄の中の鳴動が消えた。
顧問は呆れかえっていた。怒りもせず、一応来てみてよかったといった。
第二章おわり。
第三章に続く。
「この、幽霊屋敷の舞台って……」
顧問への質問は続く。顧問はとても帰りたそうにしているが、はっきり言い出さない限り、私の質問は続く。
「S湖辺りの……違います?」
いろいろと特徴をあげてみるが、目を泳がせてうなるだけで全くあてにならない。
「そんな場所だったような気もしますが」
「この辺、今年の合宿で行くはずだった場所ですよ……」
一応行程案は見せたはずだが、覚えていないらしい。つくづく何も覚えていられない顧問である。森にはいくつもの美術館が点在しており、湖をめぐる公園もある。合宿二日目はここで自由に見学やスケッチをする時間を取ろうと思い、アクセス方法はもちろんのこと、各美術館の開館時間や入場料、昼食場所や巡回バスの時刻表まで調べていた。全部流れてしまったが。
「ご家族で行ってきたらどうです」
「家族で……」
そういえば流行り病が持ち上がってから、家族でどこにも行っていない。旅行はもちろん、外食もしていない。感染をちゃんと恐れている系の親である。そんなミーアキャットみたいな家族をかりだすなんて許されるだろうか。ドライブだけならまだしも、宿泊は絶対嫌がるだろう。そもそも感染症云々の前に、美術館なんか五分で飽きているさまが目に浮かぶ。そんな親を待たせ、あるいは引き連れて、スケッチしたり展示に浸ったりする気にはなれない。
「別行動すればいいじゃないですか。ご両親には買い物とか散歩をしていてもらえば」
「いや、うちは割とガチに感染を恐れる系の親なので……」
民放ニュースを見すぎな母は、気ままに外出している若者や医療現場の苦境を見るたびに眉をひそめ、帰宅した家族が消毒せずに玄関をまたぐと鬼の形相で追いかけてくる。オリンピックが中止にならないことも、不思議で仕方ないらしい。美術部の合宿がなくなったという報告にも、満足そうにうなずいていた。
「じゃあ一人で行ってみたら? 新幹線もあるわけだし、日帰りで」
「先生……今週末も、どうせ軽井沢行かれるんですよね?」
顧問の目が大きくなる。珍しく、皆まで言わずとも察してくださったようだ。
「まさか乗せて行けと」
「行きだけでいいんですが」
「嫌です」
生徒に対してストレートすぎる。
「私の車で行くったって、向こうに着くのは夜ですよ」
「それなら先生のアトリエに、一泊だけさせていただけませんか。次の朝、美術館に行って、後は一人で帰りますから。あ、お部屋がご迷惑なら車中泊でも構わないです」
固まる顧問のそれとは対照的に、私の脳細胞は活性化する。
「そんなことさせられるわけがないでしょう」
「連れて行ってください。お願いします」
「あのね、教師と生徒が個人的に連絡を取ったり出かけたりしたらいけないんですよ」
「なんでダメなんですか」
「とにかく生徒と私的な関係を持つのはだめなんですよ。特別扱いもだめ」
顧問に特別扱いされても何のメリットもないから誰もが放っておいてくれるだろうという反論はさすがに失礼なので控えた。
「皆には内緒で行けばいいじゃないですか」
「親に無断で生徒を連れ出したら犯罪ですよ」
「うちの親が許可したら、乗せて行ってもらえますか?」
「嫌です」
「な……」
「なぜかと言えば、私は、週に三日は一人にならないと、まともな精神が保てないからですよ」
これには黙ってしまった。ひどい理由だが、おそらく建前ではない。
「週のほぼ半分じゃないですか」
「そうですよ。スナフキンと呼んでくださっても構いません。こればっかりは、たとえ生徒の頼みでも譲れません」
孤独を愛するという点だけで名前を借りてはあちらに失礼だ。また、生徒の頼みを断わり続けている顧問の発言は、羽毛ほども重みがなかった。
「一人で行きたい所があるって、家で相談してごらんなさい」
もう高二なんだし、当然の欲求だろうという。うまく説得すれば、資金協力してくれるのではないか。留学を許可していた両親が、たった一日の国内旅行を反対するはずがない。などと、怒涛の勢いで説得してくる。顧問が人を丸め込もうとするなんて本当に珍しい。
「まあ……一理ありますね」
私はのろのろと返事をした。顧問にはいくら言っても駄目なようだから、今日はあきらめよう。そう思って引き下がった。
* * *
親は意外にも反対しなかった。旅行に連れて行けないことや、留学が取りやめになったことを、私が思っていた以上に気にしてくれていたらしい。行動の予定を事前に知らせておくこと、目的地に着いたら必ず連絡を入れること。それが条件。なんと交通費も出してくれるという。感染症を心配する母も父に諭されて、まあ日帰りならと、頷いた。あれよあれよと話が決まった。
理解のありすぎる両親。夕食後、なぜか私以上に張りきった父が携帯を取り出して、その場で指定席の往復チケットを取ってくれた。
こんなに親にお膳立てされる一人旅って一体。
金曜の朝早くに家をたち、夕方の新幹線で帰宅する。一瞬でもいい、向こうで顧問と合流出来たら、これ以上ない夏休みになるのだが。
* * *
金曜の朝。九時には軽井沢駅に着いていた。真夏なのに空気がひんやりと冷たい。目当ての美術館はタクシーに乗れば十分ほどで着くらしいのだが、散歩をしながら向かい、途中でバスに乗った。
顧問にはこちらのスケジュールを伝えてある。顧問は行かないと言い張ったけれど、私は待つと言い置いてきた。
来るはずがないと分かってはいる。ただ、どこかで会うかもしれないと思えるだけでいい。着いたら連絡したいと言ったが、顧問が連絡先を教えてくれることは遂になかった。
父と母には、駅に着いては連絡を入れ、バスに乗っては連絡を入れ、美術館については連絡を入れた。すぐに既読になる。これが顧問だったらどんなにいいだろう。美術館に入ると、私も一人を満喫したくなってきた。帰宅の連絡までは見ないように、携帯をしまいこんだ。
美術館を出ると、かなり日ざしが強くなってきていた。グッズを物色し、カフェでサンドイッチとラズベリージュースを頼んだ。顧問はこのカフェがきっと似合わない。
アスファルトで舗装された道路は広いが、車通りはまばらだった。道は白い中央ラインをうねらせながら木陰の中にきえていく。そっとマスクを取って樹々の匂いをかぐ。降り注ぐ夏の日差しと、森の冷気が醸し出す独特の風。
部活の連絡網には、一応、顧問の番号が載っている。だが、それは学校が教員に貸している携帯の番号にすぎないらしい。衝動的に鳴らしてみるが、我に返り、誰かが出る前に切った。顧問の番号に掛けるとなぜか別の教員が出て、顧問を探し回って、運良く見つかれば折り返し連絡が来るという。恐ろしく携帯の用をなさないのでかけるなと言う先輩の教えを思い出したのだ。
美術館を幾つ巡っても、顧問からの連絡はなかった。湖に行った。スケッチをして過ごす。暑くて疲れてきた。一人でアヒルのボートに乗った。デート中のボートにぶつかった。中島に降りた。カルガモが寄ってきた。お菓子をあげて過ごした。芝生で寝転んでうとうとする。
こういうの好きそうだなと思って、だれが、と思う。水がオレンジ色の輝きを増し、陽は翳り出した。あの子を連れてきてやりたいけど、それはできないと気付く。
死にたがっているのかもしれないと感じたあの子の二次創作。本気ではないと思っていたのに。どうして一線を越えたのだろう。芝生の下の土はしんしんと冷たい。風と微かな葉音。
私が気づいてやるべきだったのかもしれない。あの子の作品は、今でもきっと、ネットの海に漂っている。私だけが知っている彼女の作品たち。ヒロインは必ず傷を負い、死んでは人に囲まれる。斬る、喰われる、堕ちる、駆ける、死ぬ。あの子が消えて以来、いちいち身体に吸いつく言葉。小説なんかを通じてあの子と近づいた私は、彼女の母に恨まれている。
本なんて読まない子だったのに。単純な子だったのに。生き物が大好きで明るくておしゃべりな子だったのに。あなたと出会ってからあの子は変わった。あなたとあの子はクラスでも二人きりで、浮いていた。心配していた。
置き去りにしたの。あなたが引きずり込んでおきながら。
そう聞いた。言葉の端々からそう聞いた。きっと被害妄想。笑顔で話してくれている。けれど、私はそう聞いた。
私はあの子の複雑さが好きだった。その複雑さが彼女を殺したと彼女の母は思うのだろう。私は恨まれている。不当だと分かっている。誰かを恨まずにいられないのもわかる。私が悪くないのもわかる。責められてはいないことも。この様々な感情も、仲良くしてくれてありがとうって言いながら泣いたあの人の悲しみには及ばないということも。でも私一人だけが制服を喪服としてあの場にいることを許されて以来、毎朝、それを着るだけで苦しかった。
あの子は私の一部を連れて消えてしまった。私の一部はあの子に失われてもう戻ってこない。もう会えない。理由もわからないまま簡単に消されてしまった私はどうすればいい。どうして。どうして死んでしまったの。どうして助からなかった。どうして怪我ですまなかった。どうして何を考えて最後の瞬間、飛び立つ瞬間、何を感じて、何を考えていたの。私のことなど考えもしなかったに違いない。私もその日、その瞬間、特にあの子のことを考えていたわけではなかった。流行り病で消えていた、学校での自分に戻るのに必死だった。
さっきから聞こえていたのは讃美歌ではなく閉園の音楽だと気付き、目が覚める。起き上がり、ボートを船着き場に戻して園を出る。顧問からの連絡はなかった。バス停に向かう。一時間後にバスが来る。新幹線はまだ間に合う。顧問からの連絡を待つ。会いたいです。ショートメッセージを送信しかけてやめる。会えたらいいと願っていたが、会えなかったのだからさっさと帰るべきだ。バスが来る。見送る。親からラインが来る。電話が来る。無視する。電話が鳴り続ける。無視する。ラインで、バスの中だと送る。嘘を吐く。ごめん出られないと嘘を吐く。バスが来る。ラインの中の私はとっくに駅に着いている。バスが出る。何台も、何台も。身体は動かず森に残る。日が沈む。森はうっそうと暗さを増す。次が最後のバスだ。携帯が鳴る。出たくない。次のバスに乗ろう。誰にも連絡はしない。バスが来る。最終バス。動けない。
乗り遅れると思った瞬間に腕を掴まれた。電話を掛けながら顧問がいた。鞄の中の鳴動が消えた。
顧問は呆れかえっていた。怒りもせず、一応来てみてよかったといった。
第二章おわり。
第三章に続く。
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