アザー・ハーフ

新菜いに

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エピローグ

68. 追憶の終わり

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 バサ、と蒼の手から大量の書類が零れ落ちた。レオニードによって深く切られた右腕の傷は、未だ完治していない。それなのに利き腕ということで無意識のうちに使ってしまうと、強い痛みに手に持っていた物を落としてしまうということが頻繁にあった。

「またやったのか」

 呆れたようなぶっきらぼうな声が、書類を拾うためにしゃがみ込む蒼のすぐ近くから聞こえてきた。そっと顔を上げれば、菊池が溜息を吐きながらも一緒に書類をかき集めてくれているのが目に入る。

「すみません、ありがとうございます」
「もうその腕、治るまで使えないように縛っといた方がいいんじゃないか?」
「不便じゃないですか」
「悪化するよりマシだろう」

 ほら、と渡された書類を受け取ると、蒼はバッグにしまい込んだ。

「無断欠勤しまくったのに定時退社か」
「パワハラですか? それに私が無断欠勤したなんて事実、どこにもありませんよ。不思議なことに」
「……口ばっか達者になりやがって」

 ひく、と顔を引き攣らせながら菊池が毒づく。しかしその目は穏やかで、彼が本気で怒っているわけではないというのは一目瞭然だった。

「で、定時で帰るからには用事があるんじゃないのか?」
「あ! そうでした、友達と会うんですよ」
「また変なことに首突っ込んでんじゃないだろうな?」
「もう全部終わりましたから」

 蒼が微笑えば、菊池が小さく息を吐く。上司というよりは、完全に父親の友人の顔だな――そう思いながら軽く挨拶をすると、蒼は会社を後にした。


 § § §

 移動先の駅を出て少し歩くと、カフェレストランのテラス席で綺麗な赤い長髪が揺れているのが目に入る。それに相手を待たせてしまっていると気が付いて、蒼は慌てて店へと走った。

「走ったら危ないんじゃない? まだ治ってないんでしょ?」
「走るのにはそれほど影響ないですよ」

 訝しむエレナの前の席に腰掛けると、蒼は「まだ頼んでないですよね?」と言いながらメニューを取り出し、お互いの間に広げた。

「ご飯はこれ。お酒は……アナタ、その怪我で飲んでいいの?」
「……一杯くらいなら、そろそろいいんじゃないかなと思うんですが」
「ほんと変よね」

 それが注文内容ではなく、自分の怪我に対して発せられた言葉だと蒼にはすぐに分かった。
 あの日、洋館で全てが終わった時、エレナは蒼に傷を治そうかと申し出たのだ。それを蒼が断ったため、今もこの右腕は不自由な状態にある。

「――火傷が治っただけで十分だと思うんですよね」

 しばらくして料理を平らげると、蒼はゆっくりと口を開いた。注文前のエレナの言葉は苦笑で誤魔化したが、食事中ずっと彼女に探るような視線を向けられていたため答えるしかないと思ったのだ。

「でも、治せる怪我なのに治さないっていうのも変な話じゃない?」
「……忘れたくないんです」
「……レオニードを?」
「うっ……まあそれもあるんですけど、そうじゃなくて、その……あの時、私がしたこととか、全部」

 聖杯を巡る一連の出来事を──蒼はそっと右腕を撫でた。
 忘れないために傷を残したいというのなら、蒼の身体にはすでに一般女性には有り得ないような傷が二つもある。それでもこの傷を簡単に治してはならないと感じたのは、聖杯の生贄とされた時に訪れた自分の変化に対する戒めの意味もあった。

 涼介の言うとおり、蒼にあった変化は聖杯の中の血を捨てたら嘘のように治まった。床に転がっていたはずの聖杯の血が、それまで一滴も零れていなかったことに驚いたのはそうだが、それ以上に、変化がなくなったことにより急に押し寄せた恐怖は今でも忘れない。自分は人を殺そうとしたのだと、たとえそれが聖杯の影響だとしても、紛れもない事実なのだという実感が蒼を襲った。

 恐怖は、時間が経てばいずれ薄れる。その恐怖が無くなった時、自分がまた同じことをしてしまわないか――そう思うと恐ろしかった。だからせめて、忘れにくくなるようにとエレナの治療を断った。

 彼女が治したところで結局傷跡はある程度残るのだから、大人しく治してもらっても良かったのかもしれない。それでも心の整理がつく前にこの痛みを消してしまうというのが、どうしてもできなかった。
 今痛みがなくなったら、この恐怖すら忘れてしまうのでは――それだけはあってはならないと、誰が何と言おうと譲れなかった。

 蒼本人が治したがらないのだから、エレナにはどうすることもできない。しかし彼女なりに蒼の経過は気になるのだろう、あれから蒼は何度かエレナに呼び出されている。こうして夜ゆっくりと食事をするのは今日が初めてだが、それはエレナが蒼の傷が良くなって来ていると感じているからかもしれない。

「今日は、輪島さんはどうしてるんですか?」
「なんかよく分からないけど、面接がどうのこうので懇親会っていうのがあるみたい」

 エレナのふんわりとした発言に、蒼はこれまでに聞いた話を思い出しながら状況を推測した。

 菊池に融通してもらった蒼とは違い、輪島はレオニードに囚われている期間の無断欠勤が響いて仕事を辞めなければならなくなったらしい。急に解雇ということにはならなかったが、若いながらも職場で部下を持つ立場にいた輪島は暗に責任を取れと言われてしまったそうだ。

 そのため現在の彼は就職活動中で、面接というのもそのためだろう。懇親会も面接の一貫なのか、それとも内定者向けか。蒼には分からなかったが、同じく転職を経験した身としては是非とも上手く行って欲しいものだと思いながら、一人うんうんと頷いた。

 そんな蒼の様子に、エレナが口を尖らせる。彼女自身、自分がこの街での生活に溶け込めていないと自覚しているらしい。だから時折輪島関連の話で、自分は分からなかったのに蒼がすんなりと理解してみせると、少しだけ不満を感じるようだ。

 ――なんか妹ができたみたい。

 てっきり年上だと思っていたが、実際は二十一歳だったらしいエレナの年相応な表情に蒼が頬を緩ませる。その様子にエレナは子供扱いされているのを感じたのか、軽く咳払いして話題を変えようと口を開いた。

「そういえば、彼はどうしてるの? まだうじうじしてるの?」
「うじうじって……。朔さんは――」

 エレナの言葉に苦笑しながら、蒼は朔の近況を思い返した。


 § § §

 瓦礫の転がる道を、朔は歩いていた。久しぶりに訪れる故郷は笑ってしまうくらいに荒れていて、以前は見かけたはずの黒い塊はもうどこにもない。

 建物だったコンクリートからは緑が芽生え、時の流れを感じさせる。自分の記憶の中にある景色の面影を微塵も残さない街並みに、胸がつかえるような感覚を覚えつつも、朔は真っ直ぐと目的地に向かって歩いていた。

 手には、どこで拾ったのか一メートル程の金属の棒を持っている。買ったものではなく、そこらへんの瓦礫から拾い上げたものだということは、その錆や汚れの具合から明らかだった。
 時折無意味にコンクリートや金属の看板をその棒で叩き、虚しく響く音に瞼を伏せる。誰か、この迷惑な音に文句を言ってくれれば――自分の中に淡い期待があるのを感じながらも、音を立てるたびにそんなことあるわけないと自分を嘲笑った。

「――……あ?」

 たっぷりと時間をかけて目的の場所に着いた時、朔は思わず顔を顰めた。かつて島を出る時、街中に転がる適当な瓦礫を使って建てた粗末な墓標の元に、墓参りに訪れる人間などいないはずなのだ。それなのに、その墓には花が供えられていた。

 まだ数日程度しか経っていないのだろう。枯れてきてはいるが、鮮やかな色も辛うじて残している。

「……奴か」

 苦々しいものを感じながら、朔はそれが誰の仕業かすぐに理解した。振礼島に入れる人間など、たかが知れているのだ。自分はカズに再び頼み、ここに連れてきてもらった。それ以外にここに来られる人間がいるとすれば、この墓に花を手向けるような人間がいるとすれば、たった一人しか思い当たらない。

「マジで父親なのかよ……」

 事実として理解してはいるが、未だ実感がないのだ。困ったように墓に掛けられたバングルを睨みつけ、「趣味悪すぎだろ、ババア」と一人呟いた。

 ――奴が来るところだと嫌か……? でもここしかねぇしな……。

 朔は手に持っていた金属の棒を見つめると、「ま、我慢しろ」と言って華の墓の隣にそれを突き立てた。ざくざくと何度も地面を刺してある程度埋まると、転がる瓦礫を足で寄せ、それを支えに安定させる。軽く触って固定できたことを確認し、ポケットから小瓶を取り出して、新しい墓標の前に置いた。

「あとこれか」

 思い出したかのように、ポケットに再び手を突っ込む。そうして取り出した煙草の箱から一本だけ抜き出して、箱本体は黒い粉で満たされた小瓶の横にそっと置いた。

『ただ、俺は――家族に、なりたかった』

 蒼から聞いた、涼介の本当の最期。そして、彼が聖杯を盗んだ本当の理由。
 それを聞いた時、朔の胸には安堵と後悔が広がった。自分の見ていた涼介は嘘ではなかった。それなのに彼は自分は家族になれないと思って、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。

「勘違いもいいとこだな」

 しかし彼にそう思わせてしまったのは、自分にも原因がないとは言い切れない。涼介がそんな悩みを抱えているとは知らなかったとは言え、もっと何かできることはあったはずなのだ。

「俺にとっちゃ、レオニードの方が赤の他人だっつーの。馬鹿が」

 ふてくされるようにしてそう言うと、手に持ったままだった煙草を口に咥えた。慣れた手付きで火をつければ、ふわりとバニラの香りが漂う。

「……くっそ不味いんだけど、これ」

 慣れない香りとタールの濃さに思い切り顔を顰めて、それでももう一度口を付けた。


 § § §

 エレナと会った帰り道、蒼は以前利用したとんかつ屋の前で険しい顔をしていた。時刻は二十三時近く、閉店まではあと十分程度しかない。

「……カツ丼一つください」
「はーい」

 注文してから、やっぱりやめるべきだったかもしれないと蒼は思い始めた。エレナと食事してきたため、正直腹は減っていない。なら何故買ったのかと言えば、もう帰って来ているであろう朔を尋問するためだ。

 エレナ曰くうじうじしていた朔は、蒼が勝手にかき集めた涼介の遺灰を持ってどこかに出掛けて行った。それから一日経って、今夜戻ると昼間連絡があったのだ。

 朔が何処に行っていたのか、なんとなく蒼には分かった。自分を誘わなかったのも、彼なりに思うところがあるのかもしれない。最初は必要ないと言っていたのに、蒼が渡した遺灰を受け取ってからはずっと大事に持っていたことがその証拠だ。

 あの日以来、洋館や聖杯の後始末に忙しく動いていたかと思えば、突然ぼんやりとして動かなくなる。そういう時は大抵手の中に遺灰の小瓶があって、蒼にはどう声を掛けていいかが分からなかった。
 それが、恐らくは振礼島に行って、今日帰ってくる。二度と連絡がないかもしれないと思っていたが、意外にも連絡してきたことから少しは精神的に落ち着いたのかもしれない。それならば吐き出したいものを吐き出した方がより楽になるのではと思って、以前そうしたように取り調べよろしくカツ丼を用意したのだ。

「お待たせしましたー」

 相変わらずやる気なく間延びした店員の声を聞きながら、蒼はとぼとぼと歩き出した。

 自分がしようとしていることは余計なお世話なのかもしれない。何も言いたくないなら、何も聞かない方がいいのだろう。そうなるとこのカツ丼はどうしたものか。もし何故買ってきたのかと聞かれたら、なんと答えればいいだろう。自分の夕食だと言って、無理矢理胃に突っ込むべきか。

 歩みはゆっくりでも、考え事をしていると案外時間は早く流れる。気付けば着いてしまっていた我が家を前に、蒼はふうっと重たい溜息を吐いた。

 カシャンと音を立てて門を閉め、玄関の前に立ち尽くす。どんな顔をすればいいのかと頭を悩ませていると、家の外壁――小さな庭のある方から、ガサガサと音が聞こえてきた。

 ――え、まさか泥棒……?

 こんな時に、と身体を強張らせれば、「おい」と不機嫌な声と共に背の高い影がぬっと姿を現した。

「泥棒! ――って、朔さんじゃないですか」
「他に誰がいるんだよ」
「だって、なんで家の外に……?」
「鍵がねぇんだよ。ったく、今日戻るって言ったのになんでいねぇんだよ」

 イライラとした様子で頭を乱暴に掻きむしる朔を、蒼はぽかんとした顔で見ていた。

「何だよ、馬鹿みたいな顔して」
「……いや、そっか。そうですよね」
「何が?」
「朔さん、もう普通の人なんだなって」

 鍵がなくて家に入れない。そんな当たり前のことで苛立っている朔に、蒼の口からは思わず笑みが零れた。

「ん? 庭の方にいたってことは、植木は……? あそこ、一応木で通れないようにしてありましたよね……?」
「……多少枝は折れたかもしれない」
「……今回だけですよ」

 今回に限っては自分にも責任はある。そう自分を納得させながら、蒼は玄関のドアを開いた。

 ――……あれ?

 そういえば、朔とどんな顔をして会えばいいのかと悩んでいたのではなかったか。予想外の出来事があったとはいえ、そんな悩みが無駄だったと思わせる状況に、蒼は困ったように笑った。

「何笑ってんだよ? つーか腹減ったんだけど、何か食い物ある?」
「カツ丼がありますよ。一個だけですが」
「自分のだけかよ……」
「取り調べを受けるなら、全部朔さんのものです」
「あ?」

 後ろで訳が分からないという顔をしている朔を置いて、蒼は玄関に入り靴を脱ぐ。

「『この季節でも庭で待ってると蚊に刺されるのかな』とか、『普通の身体に戻った気分はいかがですか?』とか――」

 言葉を切って、恐る恐る、朔に振り返った。

「――『久々の帰省はどうだったのかな』とか」

 少しだけ眉間に力が入ってしまうのは、朔に拒絶されてしまうかもしれないという不安からだろう。話しかけられた朔は目を見開いたかと思うと、すぐに表情を戻して小さく溜息を吐いた。

「食った後にな」

 言葉と共に浮かべられた苦笑に、誤魔化したわけではないとすぐに分かった。朔にとっては楽しい話ではないだろう。それなのに話してくれようとしていると分かって、蒼は喜べずにはいられなかった。

 エレナに聞いた話では、今の振礼島は瓦礫の山になっているそうだ。彼女が島を出た頃はそこには炭となった遺体が散見されたらしいが、今となっては残っていないだろう。それでも、その景色は朔にあの日のことを思い出させるのには十分なはずだ。

 ヴォルコフの罠に嵌った涼介が、朔を騙し、レオニードを利用して聖杯を盗み出そうとした。だが、レオニードが途中で聖杯を思いがけない方法で使ってしまったため、振礼島は滅ぶことになった。言葉でまとめてしまえば、あの日に起きたのはそれだけだ。

 しかし、そこには蒼が考えていたのとは全く異なる背景がある。陰謀という点では、今となっては目的など知る由もないヴォルコフの企みがそうかもしれない。だがそれを除いてしまえば、そこにあったのは、涼介が家族を望む気持ちだけ。既に持っていたことに気付けず、結果として彼は故郷も、家族も、朔との関係も、全てを壊してしまった。

 ――でも……。

 朔が振礼島を訪れたということは、伝わったのだろうか。蒼が伝えた涼介の最期の、その先が。赤の他人の自分では感じ取れていないだろう、涼介の気持ちが。

 そう考えると、一ヶ月前に意地でも振礼島を調べてやろうと思った自分が間違っていなかったのだと思える。子供の頃に見た父親の面影を追って入った会社で、これならば父の気持ちが分かるはずと考え調べることに決めた振礼島。勿論、この一ヶ月のことは記事にはできない。だが自分も朔も、何もしなければ知る機会など得られなかったどころか、知ろうとすらしなかったであろう真実を知ることができた。

 表に見えるものだけ見ていたら気付けなかったものと、向き合うことができたのだ。

 ――意味のないことじゃ、なかったよ……お父さん。

 信じられないことがたくさん起きた。痛い思いもしたし、逃げ出したい状況もたくさんあった。それでも、今こうしてここにいることに、これでよかったのだと感じている。

 蒼はふっと微笑んで、「ご飯の前に──」と朔に空いている方の手を差し出した。

「──おかえりなさい、朔さん」

 そう口にした途端、蒼は目頭が熱くなるのを感じた。もう終わったのだ、もう辛い想いはしなくていいのだ――その実感が、目の奥から熱と共にこみ上げてくる。それをどうにかぐっと堪えて、蒼は朔に目をやった。

 少しだけ驚いたように差し出された手を見る朔の目も、どことなく力が込もっているように見えた。洋館で目を覚まして最初に見た彼の顔を思い出させるその表情に、蒼はいよいよ涙が堪えきれそうにないと唇をきゅっと結ぶ。

 そして、どちらからともなく視線を絡めた。

「……ただいま」

 どこか照れ臭そうな声が、静かな家に小さく響いた。
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みんなの感想(1件)

2023.05.27 ユーザー名の登録がありません

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新菜いに
2023.05.27 新菜いに

ありがとうございます!
楽しんでいただけましたら幸いです*ଘ(੭*ˊᵕˋ)੭*

解除

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