アザー・ハーフ

新菜いに

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第七章 境界の罅

26. 赤に嗤う

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 エレナは夜の繁華街を歩いていた。時刻は夜中の三時を回っており、いくら栄えた街といっても大抵の居酒屋は営業を終え、駅前のタクシー乗り場も閑散としている。

 やっと暗くなりつつある街中には、ちらほらと学生と思われる若者やスーツを着た男性が道端に座り込む姿があった。

 ――今日が金曜じゃなくてよかった。

 多くの学生や社会人にとって休日となる土曜日を翌日に控えた日であれば、このあたりはもっと騒がしい。
 しこたま酒を飲んで力尽きているだけであれば、地面の吐瀉物や彼らの嘔吐の射程圏内に入らないように歩くだけで済む。しかし閉店時間で店を追い出されても尚余力を残しているようであれば、酒で気が大きくなった連中が路上で奇声を発したり、見知らぬ他人に絡んだりするのだ。

 女性の一人歩きということは勿論、その人目を引く容姿により、エレナの場合は特にそんな連中のターゲットになりやすい。話しかけられるたびにエレナは無視するが、それでも引かない者が相手の場合はロシア語で捲し立て、言葉が全く通じない外国人を装って対処している。

 しかし対処できるといっても、面倒なものは面倒だった。
 だからそんな面倒を引き起こしそうな人間が見当たらない状況というのはエレナには歓迎すべきことだったのだが、その状況に反して彼女の表情は浮かない。

 綺麗に整えられた眉を悩ましげに歪ませて、エレナは帰り慣れた道をヒールの足音を響かせながら進んでいく。
 そうして繁華街を出てすぐの場所にあるマンションまで辿り着くと、その古めかしい外観を見上げて、ふうっと一つ溜息を吐いた。

 ――早くここも出ていかなきゃ……。

 振礼島を出た後、ロシアで暮らすという道もあった。しかし以前から抱いていた日本の東京という大都市に対する憧れもあり、彼女は迷うことなく日本での生活を選択した。

 彼女に東京の魅力を語ったのは、一人の日本人だった。振礼島がロシアにとっても日本にとっても本来非合法とされる商売で成り立っているというのは、島に住まう者であれば誰もが知る事実だ。

 そしてそれを実現しているのは、何より島に関する情報の遮断――振礼島にとって不都合な人間が現れれば、本土まで追ってでも対応する。ロシア側にも日本側にも、それを仕事とする人間がいることを知る者は少ない。

 エレナがそれを知ることになったのは、姉であるリュドミーラの影響だった。彼女はそういった仕事を請け負うレオニードと繋がりがあり、姉の紹介でエレナはその日本人と知り合うこととなった。

 屈託のない笑顔で笑う青年だった。しかし時折彼が見せる影は、彼の仕事の影響もあるのだろうとエレナは考えていた。

 ロシア人の父親の経営する理髪店を継ぐ予定だったエレナは、客として来た青年の髪を茶色に染めながら、彼の話す日本の様子を聞くのが楽しみだった。もうその話を聞くことはないだろうが、それでも彼の話に夢を膨らませて訪れた東京は、殆ど期待どおりの街だった。

 期待どおりといかなかったのは、面倒な酔っぱらいや明け方のネズミの多さくらいだ。しかしどちらもエレナにとっては取るに足らないもので、ずっとこの街に住んでいたいと思うほどだった。

 しかし、それももう終わらなければならない。

 ミハイルがレオニードに殺されたのであれば、自分も狙われるかもしれない。
 朔達が現れた後、暫く警戒してみたが自分が狙われる気配はなかった。それもそうだろう、ミハイルが小屋に引きこもって殺されるまでの二週間、何もなかったのだ。急に何かが起こるとは思えなかった。

 だが、レオニードのことだから気まぐれということも有り得る。自分が生かされるのも気まぐれなら、殺されることもまた彼の気まぐれなのかもしれない。
 だからエレナは、早いうちに東京を出る決意を固めていた。それは自分を守るためであったが、もう一つ、同じ家に住む人間に迷惑をかけないためでもあった。

 振礼島を襲った嵐と地震により、エレナの家もまた無残に倒壊した。そんな家から身分を証明出来るものなど持ち出せるわけもなく、持ち出せたとしても日本国籍を持たない彼女が持っているのはロシアのパスポートのみで、日本で暮らすには何の役にも立ちそうになかった。

 身分を証明できなければアパートを借りることもできない。エレナが途方に暮れてネットカフェを渡り歩いていたときに出会ったのが、今一緒に住んでいる人物――輪島わじま勇太ゆうただった。気の弱そうな小柄の男性で、困った人間は放っておけないような人の良さを持っていた。

 最初はエレナにも打算があった。安定した住環境を得られる上、輪島程度の体格ならたとえ相手が男性でもこの人外の能力を持ってすれば負けない自信があったからだ。だからもし襲われたとしても何の問題もない――そう考えて輪島の家に転がり込んだエレナだったが、彼がエレナに手を出すことは一度もなかった。

『私ってそんなに魅力ない?』

 以前エレナが輪島にそう尋ねたとき、彼は慌ててそれを否定した。では何故自分に手を出さないのかとエレナが詰め寄れば、『ご、合意なく、そういうことはダメだから』と、挙動不審ながらもしっかりとした眼差しで彼女を捉え、輪島はそう言い切った。

 それ以来、エレナは輪島と二人きりになると緊張するようになった。理由は彼女自身にも分からない。もう少しで分かりそうだとも思ったが、今となっては知る必要はないだろうと苦笑を浮かべた。

 ――どうせ寝てるよね。

 何故だか急に輪島に会いたくなった。会って、声を聞きたくなった。しかし時刻を考えると、朝八時前には出勤する輪島はとうに眠っているだろう。
 エレナが意図的に顔を合わせないようにしているのだから、この状況は当然だった。

 見慣れた古いマンションの階段を、三階を目指しゆっくりと上る。四階建てで、エレベータはない。
 カツ、カツ、というエレナの足音だけが、静寂の中に小さく響く。
 夜中に帰ってくるなら近所迷惑にならないように――気弱な輪島が珍しく語気を強めて言ったその言葉を、エレナは忠実に守っていた。

 三階に着くと、なるべく物音を立てないようにしながら共用廊下を歩いた。隅に虫の死骸がいくつも落ちていたが、いつものことなので顔を顰めるに留まった。

 やがていつもの扉の前までやって来たエレナは、輪島から預かった鍵で玄関ドアの解錠をした。彼女には必要のないものだったが、何も知らない輪島は相手の素性が知れないにも拘わらず合鍵を用意してくれたのだ。失くさないようにと付けられた安っぽいキーホルダーは何かのオマケだったらしく、その不細工なカエルは輪島のものと色違いだった。

 エレナはそっとドアを開けて身体を滑り込ませ、ゆっくりとドアを閉めた。鍵をかけるときまで物音に気を遣い、ヒールを玄関の床にぶつけないようにしてパンプスを脱ぐ。

 廊下を歩いてダイニングキッチンに入れば、真っ暗闇が広がっていた。やはりもう輪島は寝ているのだと思いながら、この部屋は明るくても輪島を起こす心配はないので躊躇わず電気をつける。
 そうして次にエレナの目に映るのは、綺麗に片付いた部屋のはずだった。
 それなのに明るくなった瞬間、彼女の目に飛び込んできた光景は予想もしないものだった。

「勇太……?」

 ぽつりとこぼれたその声は、漂う生臭さの中に紛れて消えた。

 床一面の赤。その中心に倒れ込む、見覚えのある背中。

 それが輪島であることをエレナが理解したと同時に、彼女の身体は強い力で床に叩きつけられた。少し遅れて、カシャン、と手に持っていた鍵が床に放り出される。

 放心状態だったからか悲鳴を上げることはなかった。しかし上半身の痛みで意識を現実に戻したエレナが背中に乗る何かを睨みつけると、その表情は一瞬にして驚愕に覆われた。

「レオニード……!」

 久しぶりに見たとしても、間違えるはずがない。島で最後に見た時と違い髭を生やしていたが、短く整えられたそれは彼の端正な顔立ちを際立たせていた。
 だがその口元には嫌らしい笑みが浮かんでおり、誰が見ても彼は嫌な人間だと警戒するだろう。

「すっかり日本に馴染んでるみたいだなぁ、Леночкаレーナチカ

 ロシア人らしい容姿とは裏腹に、訛りのない流暢な日本語がレオニードの口から発せられた。
 Леночкаレーナチカ――レオニードがエレナを馬鹿にする時にだけ使う愛称。それで呼ばれたことにエレナは一瞬不快な気持ちになったが、同時にこの状況と、レオニードが日本語を習得していたことに混乱を覚えた。今まで彼と話す時はロシア語のみで、日本語が話せるだなどと考えたこともなかったのだ。
 しかし彼の立場を考えれば不思議ではないと思い直すと、改めて憎しみを込めて自分の背に乗る男を睨みつけた。

「どうして……彼を……!」

 彼とは、先に床に倒れていた人物のことだ。この状況では考えるまでもなく、輪島を手に掛けたのはレオニードだと確信していた。

 せめて床に倒れる人物が全く知らない人間であれば、とその姿を目にした瞬間エレナは思っていた。しかし自分も床に叩きつけられたことにより、背中しか見えていなかった彼と顔を向き合わせる形となって、もはやそれが輪島ではないと否定することができなくなっていた。

 エレナの絞り出すような問いかけにレオニードはニヤリと笑うと、「なんとなく?」と軽い調子で言い放つ。

 その答えにエレナは怒りを感じたが、一方で自分のせいだという自責の念に駆られていた。

 ――私がもう少し早くこの家を出ていれば……!

 レオニードの気分次第で自分が殺されるかもしれないというのは分かりきっていたのだ。それをいつまでも言い訳をして、ここに居座ってしまった自分が悪いのだと思わずにはいられない。

「お前、Мишаミーシャと仲良くしてたんだってなぁ?」
「仲良くって、彼が勝手に……うっ!?」

 エレナはレオニードの言葉を否定しようとしたが、同時にやってきた腕の痛みに思わず声を漏らした。焼け付くような痛み――それがかつて自分の全身を覆っていた火傷と同じものだと気付くと、混乱に満ちた表情でレオニードを仰ぎ見た。

「これ便利だろ?」

 そう言ってレオニードがエレナに見せびらかしたのは、折りたたみ式のナイフだった。刃にべっとりと付着した血は誰のものだろうか――その量に自分のものではないと分かっていたが、エレナは答えを受け入れることができず目を背けた。その先にはカエルのストラップが転がっており、エレナの目には涙が浮かぶ。

「わざわざ作ったんだよ。刃の部分だけ銀製にして、他はステンレス。これで安全に銀を振り回せる」
「銀って……」
「俺らには銀がよく効くんだよ。何せ身体が半分地獄にいるようなもんだからな」
「どういうこと……?」

 疑問を浮かべ自分を見てくるエレナにレオニードはやはり嫌らしく口端を上げ、「さあな」と呟くとナイフを頭上高く掲げた。

До свиданияスヴィダーニヤЛеночкаレーナチカ

 別れを意味するその言葉だけ言って、レオニードは腕を思い切り振り下ろした。
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