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第五章 近付いたのは、敵か味方か
20. 出会いと再会
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完全に朔と女性を見失ってしまった蒼は、暫くその場で考え込んでいた。
というのも彼らの消えた場所から近い位置に出口はなく、そのまま後を追いかけることはできないからだ。正規の出入り口から外に出て大体の方角で追いかけてもいいが、その間に朔が戻ってきた場合は入れ違いになってしまう。
「朔さんが電話してきてくれるとは思えないしなぁ……」
そもそもあの女性を追いかけながら連絡をするというのも、スマートフォン初心者の朔がしてくれるとは思えない。
こちらからの電話でさえ出てくれるか怪しいのだ。それにもし仮に出ようと思っても、利き手ではない方の手で走りながら慣れない物の操作をするのは難しいだろう。
「まあ、もし戻ってきたとしたら電話する余裕は出てるか」
店内に戻る、すなわち追いかけっこが終わっているということだ。つまりこのタイミングであれば電話に出られる状態である可能性が高いため、もし蒼が外に出ていたとしても連絡を取り合うことができるはず。
そう考えて、蒼は店内から出ることにした。出口近くのコインロッカーから荷物を取り出し、スマートフォンを気にしながら外に出る。
扉をくぐって数歩歩くと、蒼はやっと籠もった空気から解放されたと大きく息を吸い込んだ。渋谷の街の空気も良いとは言えないが、それでもクラブ特有の酒や煙草の混じった匂いと比べたら天と地ほどに差がある。
滞在時間は短かったはずなのに、匂いの付いてしまった服や髪の毛を少しだけ気にしながら、朔達が消えたであろう方角に向かうため歩き出した。
「――お?」
「あれ?」
店を出てすぐ、蒼は見覚えのある顔と再会した。
きょとんとしながら目の前の人物を見つめていると、その人物は相変わらず人好きのする笑顔で笑いながら蒼に声をかける。
「さっきぶりじゃん。意外だね、こういうとこ来なさそうなのに」
「先程はすみませんでした。ちょっと仕事で」
「何回謝んだよ。もう気にしなくていいって」
ニカッと笑うその人物は、蒼が先程会社近くでぶつかってしまった男性だった。男性は蒼が自分と話しながらも別の場所を気にしているのに気が付いたのか、「どうしたの?」と小首を傾げる。
「あ、ちょっと知り合いを追いかけてて……」
「どっか行っちゃったの?」
「はい、この裏だと思うんですけど……」
その言葉に男性が眉を顰める。蒼がその表情を不思議に思っていると、男性は言いづらそうに口を開いた。
「この裏って、ラブホ街だぜ……?」
「げ。……でもまあ、仕方ないです。あっち行っちゃったので……」
「近くまで一緒に行くよ。あそこ、この時間でも酔っぱらい多くて他のとこより治安悪いんだよな」
「……お詳しいですね」
蒼のじとっとした視線に男性は慌てたように頭を振ると、「そんなに多用しているわけではない!」と声を荒げた。その姿にクスッと笑いながら、蒼は「冗談ですよ」と付け加える。
「でも悪いですよ。ぶつかった上に付き添っていただくなんて。あなたにも予定があるんじゃないですか?」
「俺はほら、暇でぶらついてただけだから。それに危ないとこ行くって分かってるのに放っておくのも後から気になるからさ。俺のためだと思って」
「……気遣いがお上手ですね」
観念したようにそう言うと、蒼は「ではお願いします」と男性に笑いかけた。男性はほっとしたような表情を見せ、「任された」とやはりニカッと笑う。
そうして男性の案内で歩いていくと、歓楽街の喧騒は徐々に遠くなり、やがて薄暗い道に出た。
――これは確かに一人だと怖いかもしれない……。
必要最低限の街灯と、ラブホテルの怪しげな色の電飾看板の明かりで、目の前に続く道は独特な雰囲気を放っていた。
その道を先程までいた建物の裏辺りまで進むと、少し遠くに長身の二人組のシルエットが現れた。
はっきりと姿を捉えることはできないが、こんな場所にいるモデルのようなスタイルを持つ男女二人組など、蒼には他に思いつかない。
「多分見つけました」
蒼が男性にそう笑いかけると、男性もまた安心したように「よかったね」と微笑む。
「じゃ、約束通り俺はここまでな」
「本当にありがとうございました。何かお礼ができればいいんですが……」
「気にしない気にしない。あ、もしまた会ったらお茶でもしてよ」
「……ナンパみたいですね」
「ダメ?」
困ったような笑顔を向けられては、蒼に断ることなどできるはずもない。知らない相手ならまだしも、ぶつかった上に道案内までしてくれた人物なのだ。
「ダメじゃないです。その時は是非」
「やったね」
「あ、そうだ。お名前教えていただけませんか?」
「んー、それは次会った時かな。そっちの方が会えそうじゃない?」
「何ですか、それ」
そう言って思わず笑うと、目の前の男性も悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、私行きますね」
「おう、じゃあなー」
蒼は改めて男性に軽くお辞儀をし、そのまま小走りで朔達の方へと駆けて行った。
「――またね、蒼ちゃん」
走り出した蒼の背中にそう言うと、男性はその場を後にした。
§ § §
「――そんな靴履いて逃げ切れるわけねぇだろ」
朔によって後ろ手に拘束された女性は、恨めしそうにその綺麗な顔を歪めて彼を睨んだ。先程から抜け出そうと力を込めるが、腕力の差が大きいためびくともしない。
朔は自身を睨みつける女性を見下ろしながら、ここからどうしようかと思案していた。女性の気配にミハイルと同じものを感じ取り咄嗟に追いかけたはいいものの、いざ捕まえてみたらその後どうしようかが思い浮かばない。
振礼島にいた頃の朔であればその場で多少手荒なことをしてでも聞きたいことを聞き出しただろうが、ここは島ではないのだ。悲鳴の一つでも上げられてしまえば途端に通報され、下手をすれば蒼に迷惑がかかる。
折角彼女との繋がりが分かるものなど持っていなかったのに、少し前に渡されたスマートフォンは警察が調べれば簡単に彼女の存在を割り出すだろう。携帯電話を持ったことがなかったとはいえ、それを予想できる程度の知識は朔にもあった。
大切に扱えと言われた手前、いざとなったら遠くに放り投げるという方法は取りづらい。素直に受け取ってしまった自分も悪いのだが、突然こんなものを渡されてもすぐにそんなところまで考えが至るほど、自分の頭の出来はよくないのだと心の中で言い訳をした。
「離してよ」
「なんだ、日本語喋れるんじゃねぇか。つーか離したら逃げるだろ?」
朔の返答に鋭い視線を返した女性は、彼が日本語を話せないと誤解した通り一般的な日本人とは異なる顔立ちをしていた。
瞳の色こそ多くの日本人が持つそれと変わらないが、彼女の顔立ちは朔が振礼島でよく目にしていたロシア人との混血そのものだ。両親のどちらに似るかで多少雰囲気は変わるが、どこの国でもなく彼らとの間の子供と断言できるのは、それだけ朔がロシア人とよく接していたからだろう。
暫くの間そうして睨み合っていると、遠くから小走りにこちらへと近付いてくる足音が聞こえてきた。朔がその音の方を見やると、そこには案の定、不満そうに顔を顰めた蒼の姿があった。
「もう! いきなり走らないでくださいよ! しかも壁まで通り抜けて、あんなの私できないって知ってるでしょう!?」
「別に追って来なくてよかったんだけどな」
「追いますよ! じゃないと朔さんてばこっそり色々やっちゃうじゃないですか」
図星を刺された朔の顔が苦々しく歪む。これ以上蒼と振礼島とを近付けたくなかった朔は、彼女の言う通り一人でこの女性と話そうと思っていたのだ。
「何? このちんちくりん」
「ちんちくりん!?」
朔に捕まっている女性の突然の暴言に蒼は思わず言い返そうとして、ぐっと堪えた。目の前にいる絵に描いたような美人を相手に、そう言われても何も言い返せないことに気付いたのだ。
悔しげに顔を歪める蒼だったが、街灯の薄暗い明かりの下で見えた、女性のワインレッドの髪にある記憶が脳裏を過ぎる。
「“赤髪ハーフ風美女”!」
「Чё?」
訝しげに自分を見てくる女性に詰め寄ると、蒼は顔を輝かせてスマートフォンを取り出した。
「この人会ったことあります!?」
その画面に表示されていたのは、朔に送った芸能人の写真だった。
「……何度か遊んだことあるけど」
「きたぁ!!」
蒼は小さくガッツポーズをすると、大急ぎでバッグの中から名刺を取り出した。先日菊池が蒼に仕事を振る際、件の芸能人に関する情報として読み上げていたのだ――“赤髪ハーフ風美女との密会”と。
「初めまして! 私雑誌の記者をやっています、た――」
「待て!」
社会人らしく名刺を両手に女性に名乗ろうとした蒼を、咄嗟に朔が声で制す。蒼はきょとんと朔を見つめたが、その意図が分からないのか不思議そうに小首を傾げるばかりだ。
「こいつは島の生き残りだぞ」
「そうですね?」
「不用意に名乗るな」
「……あ」
しまった、と間抜けな顔をする蒼に、朔は大きな溜息を吐いた。
――昨日の話を聞いておいてこれかよ……。
レオニードのことを話していなかった時ならいざ知らず、彼の存在を知っても尚警戒心の足りない蒼に頭を抱えたくなる。
「でも、この方は私にとっては貴重な取材相手でして」
「ならこの女脱がせてからにしろ」
「はぁ!? ちょっと何言ってるんですか!?」
朔の言葉に蒼は叫び声を上げ、脱がせると言われた女性の方も何か言いたげな表情で彼を睨んでいた。しかし女性の方はすぐに朔の意図に気付いたのか、「そういうこと」と怪しげに笑う。
「私Волковとは関係ないわよ」
「おい、勝手に――」
「ヴォルコフって何ですか?」
「昨日も言ってましたよね?」と先程までの怒りはどうしたのか、興味津々と言った表情で蒼が朔を見つめる。「これは教えてなかったんだ」と笑う女性の声を聞きながら、よくも余計なことを、と朔は眉根を寄せた。
「こうしない? アナタの許可なくこの子にヴォルコフの事は話さないから、いい加減手を離してくれる?」
「離したら逃げるだろ」
「っていうか、朔さんの手はすり抜けられないんですか?」
「お前は黙ってろ。……まあ確かに、なんでさっさと逃げないんだよ?」
「知らないの? 生き残り同士はすり抜けられないのよ」
呆れたような表情で女性が答えると、朔の眉間の皺が一層深くなった。
――朔さんにも知らないことあるんだ。
蒼は朔よりも情報を持っていそうな女性を感心したような表情で見つめる。もしかしたらこの女性の方が朔よりも上手なのではないかと思うと、何故か心が踊った。
「とりあえず逃げないから。アナタが言ってたんでしょ? こんな靴じゃ逃げ切れないって」
そういう女性の視線の先には、かなり高いピンヒールのパンプスがある。朔はその靴を見ながら簡単に追いつけた先程の追いかけっこを思い出したものの、最悪この靴を脱げば彼女はもっと速く走れるだろうと首を縦に振ることはできなかった。
「早くどっか入りましょ。そうしたらいくらでもこの子の前でなら脱いであげる。ヴォルコフと関係ないって分かればいいんでしょ?」
「それは……」
「あの、ちなみにそのヴォルコフって人か何かと無関係だって分かれば、お姉さん私の取材受けてくれます? さっきの写真の人のことで……」
「勿論」
――最悪だ……。
女性の返答を聞いた瞬間、朔はそう思った。蒼がどれほどその写真の人物の情報を欲しがっているか朔は重々承知している。だから彼女の頼みを聞いてわざわざこんなところまで来たのだ。そんな蒼にこんな美味しそうな餌を見せれば、彼女が簡単に釣られることは容易に想像できる。
案の定、目の前の蒼は顔を輝かせて女性の方を見ていた。
「知りたいこと何でも話してあげるわよ」
赤髪の女性のこの発言が決定打となり、蒼は完全に彼女に寝返った。
というのも彼らの消えた場所から近い位置に出口はなく、そのまま後を追いかけることはできないからだ。正規の出入り口から外に出て大体の方角で追いかけてもいいが、その間に朔が戻ってきた場合は入れ違いになってしまう。
「朔さんが電話してきてくれるとは思えないしなぁ……」
そもそもあの女性を追いかけながら連絡をするというのも、スマートフォン初心者の朔がしてくれるとは思えない。
こちらからの電話でさえ出てくれるか怪しいのだ。それにもし仮に出ようと思っても、利き手ではない方の手で走りながら慣れない物の操作をするのは難しいだろう。
「まあ、もし戻ってきたとしたら電話する余裕は出てるか」
店内に戻る、すなわち追いかけっこが終わっているということだ。つまりこのタイミングであれば電話に出られる状態である可能性が高いため、もし蒼が外に出ていたとしても連絡を取り合うことができるはず。
そう考えて、蒼は店内から出ることにした。出口近くのコインロッカーから荷物を取り出し、スマートフォンを気にしながら外に出る。
扉をくぐって数歩歩くと、蒼はやっと籠もった空気から解放されたと大きく息を吸い込んだ。渋谷の街の空気も良いとは言えないが、それでもクラブ特有の酒や煙草の混じった匂いと比べたら天と地ほどに差がある。
滞在時間は短かったはずなのに、匂いの付いてしまった服や髪の毛を少しだけ気にしながら、朔達が消えたであろう方角に向かうため歩き出した。
「――お?」
「あれ?」
店を出てすぐ、蒼は見覚えのある顔と再会した。
きょとんとしながら目の前の人物を見つめていると、その人物は相変わらず人好きのする笑顔で笑いながら蒼に声をかける。
「さっきぶりじゃん。意外だね、こういうとこ来なさそうなのに」
「先程はすみませんでした。ちょっと仕事で」
「何回謝んだよ。もう気にしなくていいって」
ニカッと笑うその人物は、蒼が先程会社近くでぶつかってしまった男性だった。男性は蒼が自分と話しながらも別の場所を気にしているのに気が付いたのか、「どうしたの?」と小首を傾げる。
「あ、ちょっと知り合いを追いかけてて……」
「どっか行っちゃったの?」
「はい、この裏だと思うんですけど……」
その言葉に男性が眉を顰める。蒼がその表情を不思議に思っていると、男性は言いづらそうに口を開いた。
「この裏って、ラブホ街だぜ……?」
「げ。……でもまあ、仕方ないです。あっち行っちゃったので……」
「近くまで一緒に行くよ。あそこ、この時間でも酔っぱらい多くて他のとこより治安悪いんだよな」
「……お詳しいですね」
蒼のじとっとした視線に男性は慌てたように頭を振ると、「そんなに多用しているわけではない!」と声を荒げた。その姿にクスッと笑いながら、蒼は「冗談ですよ」と付け加える。
「でも悪いですよ。ぶつかった上に付き添っていただくなんて。あなたにも予定があるんじゃないですか?」
「俺はほら、暇でぶらついてただけだから。それに危ないとこ行くって分かってるのに放っておくのも後から気になるからさ。俺のためだと思って」
「……気遣いがお上手ですね」
観念したようにそう言うと、蒼は「ではお願いします」と男性に笑いかけた。男性はほっとしたような表情を見せ、「任された」とやはりニカッと笑う。
そうして男性の案内で歩いていくと、歓楽街の喧騒は徐々に遠くなり、やがて薄暗い道に出た。
――これは確かに一人だと怖いかもしれない……。
必要最低限の街灯と、ラブホテルの怪しげな色の電飾看板の明かりで、目の前に続く道は独特な雰囲気を放っていた。
その道を先程までいた建物の裏辺りまで進むと、少し遠くに長身の二人組のシルエットが現れた。
はっきりと姿を捉えることはできないが、こんな場所にいるモデルのようなスタイルを持つ男女二人組など、蒼には他に思いつかない。
「多分見つけました」
蒼が男性にそう笑いかけると、男性もまた安心したように「よかったね」と微笑む。
「じゃ、約束通り俺はここまでな」
「本当にありがとうございました。何かお礼ができればいいんですが……」
「気にしない気にしない。あ、もしまた会ったらお茶でもしてよ」
「……ナンパみたいですね」
「ダメ?」
困ったような笑顔を向けられては、蒼に断ることなどできるはずもない。知らない相手ならまだしも、ぶつかった上に道案内までしてくれた人物なのだ。
「ダメじゃないです。その時は是非」
「やったね」
「あ、そうだ。お名前教えていただけませんか?」
「んー、それは次会った時かな。そっちの方が会えそうじゃない?」
「何ですか、それ」
そう言って思わず笑うと、目の前の男性も悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、私行きますね」
「おう、じゃあなー」
蒼は改めて男性に軽くお辞儀をし、そのまま小走りで朔達の方へと駆けて行った。
「――またね、蒼ちゃん」
走り出した蒼の背中にそう言うと、男性はその場を後にした。
§ § §
「――そんな靴履いて逃げ切れるわけねぇだろ」
朔によって後ろ手に拘束された女性は、恨めしそうにその綺麗な顔を歪めて彼を睨んだ。先程から抜け出そうと力を込めるが、腕力の差が大きいためびくともしない。
朔は自身を睨みつける女性を見下ろしながら、ここからどうしようかと思案していた。女性の気配にミハイルと同じものを感じ取り咄嗟に追いかけたはいいものの、いざ捕まえてみたらその後どうしようかが思い浮かばない。
振礼島にいた頃の朔であればその場で多少手荒なことをしてでも聞きたいことを聞き出しただろうが、ここは島ではないのだ。悲鳴の一つでも上げられてしまえば途端に通報され、下手をすれば蒼に迷惑がかかる。
折角彼女との繋がりが分かるものなど持っていなかったのに、少し前に渡されたスマートフォンは警察が調べれば簡単に彼女の存在を割り出すだろう。携帯電話を持ったことがなかったとはいえ、それを予想できる程度の知識は朔にもあった。
大切に扱えと言われた手前、いざとなったら遠くに放り投げるという方法は取りづらい。素直に受け取ってしまった自分も悪いのだが、突然こんなものを渡されてもすぐにそんなところまで考えが至るほど、自分の頭の出来はよくないのだと心の中で言い訳をした。
「離してよ」
「なんだ、日本語喋れるんじゃねぇか。つーか離したら逃げるだろ?」
朔の返答に鋭い視線を返した女性は、彼が日本語を話せないと誤解した通り一般的な日本人とは異なる顔立ちをしていた。
瞳の色こそ多くの日本人が持つそれと変わらないが、彼女の顔立ちは朔が振礼島でよく目にしていたロシア人との混血そのものだ。両親のどちらに似るかで多少雰囲気は変わるが、どこの国でもなく彼らとの間の子供と断言できるのは、それだけ朔がロシア人とよく接していたからだろう。
暫くの間そうして睨み合っていると、遠くから小走りにこちらへと近付いてくる足音が聞こえてきた。朔がその音の方を見やると、そこには案の定、不満そうに顔を顰めた蒼の姿があった。
「もう! いきなり走らないでくださいよ! しかも壁まで通り抜けて、あんなの私できないって知ってるでしょう!?」
「別に追って来なくてよかったんだけどな」
「追いますよ! じゃないと朔さんてばこっそり色々やっちゃうじゃないですか」
図星を刺された朔の顔が苦々しく歪む。これ以上蒼と振礼島とを近付けたくなかった朔は、彼女の言う通り一人でこの女性と話そうと思っていたのだ。
「何? このちんちくりん」
「ちんちくりん!?」
朔に捕まっている女性の突然の暴言に蒼は思わず言い返そうとして、ぐっと堪えた。目の前にいる絵に描いたような美人を相手に、そう言われても何も言い返せないことに気付いたのだ。
悔しげに顔を歪める蒼だったが、街灯の薄暗い明かりの下で見えた、女性のワインレッドの髪にある記憶が脳裏を過ぎる。
「“赤髪ハーフ風美女”!」
「Чё?」
訝しげに自分を見てくる女性に詰め寄ると、蒼は顔を輝かせてスマートフォンを取り出した。
「この人会ったことあります!?」
その画面に表示されていたのは、朔に送った芸能人の写真だった。
「……何度か遊んだことあるけど」
「きたぁ!!」
蒼は小さくガッツポーズをすると、大急ぎでバッグの中から名刺を取り出した。先日菊池が蒼に仕事を振る際、件の芸能人に関する情報として読み上げていたのだ――“赤髪ハーフ風美女との密会”と。
「初めまして! 私雑誌の記者をやっています、た――」
「待て!」
社会人らしく名刺を両手に女性に名乗ろうとした蒼を、咄嗟に朔が声で制す。蒼はきょとんと朔を見つめたが、その意図が分からないのか不思議そうに小首を傾げるばかりだ。
「こいつは島の生き残りだぞ」
「そうですね?」
「不用意に名乗るな」
「……あ」
しまった、と間抜けな顔をする蒼に、朔は大きな溜息を吐いた。
――昨日の話を聞いておいてこれかよ……。
レオニードのことを話していなかった時ならいざ知らず、彼の存在を知っても尚警戒心の足りない蒼に頭を抱えたくなる。
「でも、この方は私にとっては貴重な取材相手でして」
「ならこの女脱がせてからにしろ」
「はぁ!? ちょっと何言ってるんですか!?」
朔の言葉に蒼は叫び声を上げ、脱がせると言われた女性の方も何か言いたげな表情で彼を睨んでいた。しかし女性の方はすぐに朔の意図に気付いたのか、「そういうこと」と怪しげに笑う。
「私Волковとは関係ないわよ」
「おい、勝手に――」
「ヴォルコフって何ですか?」
「昨日も言ってましたよね?」と先程までの怒りはどうしたのか、興味津々と言った表情で蒼が朔を見つめる。「これは教えてなかったんだ」と笑う女性の声を聞きながら、よくも余計なことを、と朔は眉根を寄せた。
「こうしない? アナタの許可なくこの子にヴォルコフの事は話さないから、いい加減手を離してくれる?」
「離したら逃げるだろ」
「っていうか、朔さんの手はすり抜けられないんですか?」
「お前は黙ってろ。……まあ確かに、なんでさっさと逃げないんだよ?」
「知らないの? 生き残り同士はすり抜けられないのよ」
呆れたような表情で女性が答えると、朔の眉間の皺が一層深くなった。
――朔さんにも知らないことあるんだ。
蒼は朔よりも情報を持っていそうな女性を感心したような表情で見つめる。もしかしたらこの女性の方が朔よりも上手なのではないかと思うと、何故か心が踊った。
「とりあえず逃げないから。アナタが言ってたんでしょ? こんな靴じゃ逃げ切れないって」
そういう女性の視線の先には、かなり高いピンヒールのパンプスがある。朔はその靴を見ながら簡単に追いつけた先程の追いかけっこを思い出したものの、最悪この靴を脱げば彼女はもっと速く走れるだろうと首を縦に振ることはできなかった。
「早くどっか入りましょ。そうしたらいくらでもこの子の前でなら脱いであげる。ヴォルコフと関係ないって分かればいいんでしょ?」
「それは……」
「あの、ちなみにそのヴォルコフって人か何かと無関係だって分かれば、お姉さん私の取材受けてくれます? さっきの写真の人のことで……」
「勿論」
――最悪だ……。
女性の返答を聞いた瞬間、朔はそう思った。蒼がどれほどその写真の人物の情報を欲しがっているか朔は重々承知している。だから彼女の頼みを聞いてわざわざこんなところまで来たのだ。そんな蒼にこんな美味しそうな餌を見せれば、彼女が簡単に釣られることは容易に想像できる。
案の定、目の前の蒼は顔を輝かせて女性の方を見ていた。
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