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第二章 トカゲの尻尾
11. 失われた手がかり
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先程来たばかりの小屋の前で、先程とは違う人物と共に蒼は立っていた。
隣に立つ店長は少し緊張している様子だが、朔のようにピリピリと肌を刺す感覚はない。それに蒼は安堵すると、念の為ボイスレコーダーのスイッチを入れた。今度はこっそりとではなく、隣の人物にも見えるように。
店長は一瞬だけ蒼を見やると、すぐに視線を目の前に戻し何度も深呼吸を繰り返す。友人の息子に会う前とは思えない様子に蒼は首を傾げたが、すぐに相手が関わり合いを避けている相手だからだと思い至ると、店長のペースに合わせることにした。
五分程経っただろうか。さすがにそろそろ促すべきかと蒼が思い始めた時、店長は意を決したように小屋の中へと足を踏み入れる。
「――なっ……!」
慌てて彼の後を追った蒼の目に映ったのは、予想だにしない光景だった。
つい二、三時間程前までミハイルが縮こまっていたその場所には、全身が焼け爛れた人間の姿があったのだ。辛うじてその体格から男性だと分かるが、彼が誰かを識別できるものは残されていない。
そしてよく見ると、男性の胸のあたりには銀色のナイフのようなものが刺さっていた。あまりに異様な光景に蒼は言葉を失う。悲鳴さえ出ないのは、現実味がまるでないからかもしれない。
彼女の一歩前にいる店長もそれは同じようで、呆然として目の前の男性を見つめていた。
「Миша!」
「……Отец?」
突然店長が声を発したかと思うと、全身に酷い怪我を負った男性は掠れ声でそう言った。その様子に蒼は男性がこの状態でも生きていたことに驚いたが、それよりも店長が発した言葉が耳にこびりついていた。
――今、ミーシャって言った……?
それはこの瀕死の男性がミーシャ――つまりミハイルであるということ。この場所にいる時点で彼がミハイルだという可能性が非常に高いのはわかってはいたが、蒼にはそれを受け入れることができなかった。
蒼が状況を理解できないでいる間にも、店長はミハイルに駆け寄り、その手を所在無さげに彷徨わせている。それは厭悪しているというよりは、触れることで相手に苦痛を与えないかという不安から来ているようだった。
結局その手は自身の顔に落ち着き、彼は涙ぐみながら息も絶え絶えと言った様子のミハイルに必死に話しかけている。ミハイルは話すのも辛そうだったが、それでも店長の呼びかけに答えていた。
そんな彼らの様子に、蒼は声をかけることが出来なかった。とてもではないが彼女が考える“友人の息子と父親の友人”という関係性には見えなかったし、その傷からミハイルはもう長くないことが分かりきっていたからだ。むしろ今生きていることの方が不思議なくらいだ。
さらには先程まで肉体的には十分元気だったはずの相手が死にかけているという現実が蒼にショックを与え、彼女はただそこに立ち尽くすことしかできなかった。
しかし、それも次の瞬間に訪れた変化によって終わりを告げる。ミハイルが何も言わなくなったかと思うと、彼の身体がみるみるうちに焦げ付き、黒い煙のようなものを発し始めたのだ。
「なに、これ……?」
蒼も、そしてそれに気付いた店長も驚きのあまり何も言うことができず、その様を見ていることしかできない。
そうしている間にも焦げ付いた身体は炭となり、手足の先からどんどん崩れていく。
「Миша……! Миша……!」
店長が必死に声をかけるが、一度崩れ始めた身体はその崩壊の速度を速め、あっという間に崩れ去ってしまった。
ミハイルがいた場所にはもはや黒い灰のようなものとナイフしか残されておらず、そこについ先程まで人がいたと言われても信じられないだろう。
「今のは、一体……」
混乱のあまりバクバクと大きな音を立てる心臓を押さえながら、蒼は無意識に店長へと視線を移した。自分よりもミハイルと関係性が強く、さらにはこの光景を間近で見た彼は大丈夫だろうかと心配になったのかもしれない。
案の定、店長はその場を動くことなく、呆然とミハイルがいた場所を見つめていた。
――当然だ……。
蒼はそっと目を伏せた。ある意味朔のお陰で非現実的な出来事に多少の耐性がついていた蒼でさえ、これだけの衝撃を受けているのだ。そういうことに関わりのないであろう店長の、恐らくは大切な人がこんな形で消えてしまった気持ちというのは、もはや彼女に推し量れるものではない。
ただ消えただけならまだ望みはあったかもしれないが、漠然とあれは死だという確信が蒼にはあった。それはきっと彼も同じだろう。
蒼が身近な人間を亡くした時の気持ちを思い出しながら視線を前に戻すと、ふと残された灰の存在が気になり始めた。
――ミハイルさんのあの傷は、朔さんの顔にあったのと同じじゃないの?
一度見たら忘れられないような、酷く、惨たらしい火傷のような傷。
振礼島の生き残りである二人の身体に同じものがあったのは果たして偶然だろうか。もし偶然でないとしたら、この現象は朔にも起こり得るのではないだろうか。
あまりに現実離れした状況だからか、どこか冷静に蒼は考えていた。
しかし同時に、そんな自分に嫌気が差す。ミハイルはともかく、目の前に座り込む哀れな男性にこんなものを見せてしまったのは、自分が振礼島のことを調べていたせいではないのか。それなのに、こんな状況にまでそのことを考えるだなんておかしいのではないのか。
どれくらいそうしていただろうか。蒼が自分を責めていると、不意に店長が口を開いた。
「……『もう死にたい。でも死んだら地獄に引きずり込まれる。こんな身体じゃ神は私を救ってくれない』」
「え?」
脈略のない言葉に思わず蒼は聞き返した。その言葉を発した本人は相変わらずミハイルがいた場所を見つめたまま、蒼の方を見ようともしない。
その様子に蒼は一瞬独り言かと思ったが、しかし目の前の人物であればそれはきっとロシア語になるはずだ、と自分に向けた発言であることを確信する。
「Мишаが、さっき言っていたんだ……。何のことかは分からないが、このことだったのかもしれない……」
蒼が聞き返したことに気付いているのかいないのか、それだけ言うと店長はボロボロと涙を流し始めた。彼の言葉の意味は全く分からなかったが、初めて見る大の男の涙に蒼の目にも熱いものが込み上げる。
知り合って間もない相手のはずだが、彼の発する悲壮感に自然と涙が零れた。
――私が、ここに来たせいだろうか……。
涙を流すことで気分が落ち込んだのか、再び蒼の頭にはこの事態を生んでしまった責任が自分にあるのではという考えが浮かんだ。
自分が振礼島に興味を持たなければ、自分がミハイルに会いに行かなければ、自分が店長に協力を求めなければ――そんな考えばかりが蒼の頭の中をぐるぐると巡る。
『死にたいっつってんだから殺しゃあいいだろ!』
ふと、朔の言葉が脳裏を過ぎった。まさか彼が――蒼は首を振って自分の中に浮かんだ言葉の続きを必死に振り払う。しかし否定すればするほど、恐ろしい考えが蒼の頭の中を埋め尽くしていく。
あの時の朔ならば殺しかねない、そんな考えが蒼の鼓動を速くしていった。
――でも、朔さんがそんなことをするとは思えない。
そう思いたかっただけかもしれない。少なくとも朔は自分を助けてくれたことがあるのだ、そんな人間が本当に人を殺すのだろうか、と。
それに殺すと言って本当に殺す人間など、今の世の中にどれほどいるだろうか。状況に拘わらず、簡単にその言葉を口にする人間は山程いるのだ。
蒼は自分を落ち着けるために一つ大きな深呼吸をすると、自分の愚かな考えを頭の中から追い出した。
――本当に殺したなら姿を晦ますはず。だからきっと彼は、少し待てばけろっとして私の前に現れるはずだ。
だがその夜、蒼がいくら待っても朔は帰ってこなかった。
隣に立つ店長は少し緊張している様子だが、朔のようにピリピリと肌を刺す感覚はない。それに蒼は安堵すると、念の為ボイスレコーダーのスイッチを入れた。今度はこっそりとではなく、隣の人物にも見えるように。
店長は一瞬だけ蒼を見やると、すぐに視線を目の前に戻し何度も深呼吸を繰り返す。友人の息子に会う前とは思えない様子に蒼は首を傾げたが、すぐに相手が関わり合いを避けている相手だからだと思い至ると、店長のペースに合わせることにした。
五分程経っただろうか。さすがにそろそろ促すべきかと蒼が思い始めた時、店長は意を決したように小屋の中へと足を踏み入れる。
「――なっ……!」
慌てて彼の後を追った蒼の目に映ったのは、予想だにしない光景だった。
つい二、三時間程前までミハイルが縮こまっていたその場所には、全身が焼け爛れた人間の姿があったのだ。辛うじてその体格から男性だと分かるが、彼が誰かを識別できるものは残されていない。
そしてよく見ると、男性の胸のあたりには銀色のナイフのようなものが刺さっていた。あまりに異様な光景に蒼は言葉を失う。悲鳴さえ出ないのは、現実味がまるでないからかもしれない。
彼女の一歩前にいる店長もそれは同じようで、呆然として目の前の男性を見つめていた。
「Миша!」
「……Отец?」
突然店長が声を発したかと思うと、全身に酷い怪我を負った男性は掠れ声でそう言った。その様子に蒼は男性がこの状態でも生きていたことに驚いたが、それよりも店長が発した言葉が耳にこびりついていた。
――今、ミーシャって言った……?
それはこの瀕死の男性がミーシャ――つまりミハイルであるということ。この場所にいる時点で彼がミハイルだという可能性が非常に高いのはわかってはいたが、蒼にはそれを受け入れることができなかった。
蒼が状況を理解できないでいる間にも、店長はミハイルに駆け寄り、その手を所在無さげに彷徨わせている。それは厭悪しているというよりは、触れることで相手に苦痛を与えないかという不安から来ているようだった。
結局その手は自身の顔に落ち着き、彼は涙ぐみながら息も絶え絶えと言った様子のミハイルに必死に話しかけている。ミハイルは話すのも辛そうだったが、それでも店長の呼びかけに答えていた。
そんな彼らの様子に、蒼は声をかけることが出来なかった。とてもではないが彼女が考える“友人の息子と父親の友人”という関係性には見えなかったし、その傷からミハイルはもう長くないことが分かりきっていたからだ。むしろ今生きていることの方が不思議なくらいだ。
さらには先程まで肉体的には十分元気だったはずの相手が死にかけているという現実が蒼にショックを与え、彼女はただそこに立ち尽くすことしかできなかった。
しかし、それも次の瞬間に訪れた変化によって終わりを告げる。ミハイルが何も言わなくなったかと思うと、彼の身体がみるみるうちに焦げ付き、黒い煙のようなものを発し始めたのだ。
「なに、これ……?」
蒼も、そしてそれに気付いた店長も驚きのあまり何も言うことができず、その様を見ていることしかできない。
そうしている間にも焦げ付いた身体は炭となり、手足の先からどんどん崩れていく。
「Миша……! Миша……!」
店長が必死に声をかけるが、一度崩れ始めた身体はその崩壊の速度を速め、あっという間に崩れ去ってしまった。
ミハイルがいた場所にはもはや黒い灰のようなものとナイフしか残されておらず、そこについ先程まで人がいたと言われても信じられないだろう。
「今のは、一体……」
混乱のあまりバクバクと大きな音を立てる心臓を押さえながら、蒼は無意識に店長へと視線を移した。自分よりもミハイルと関係性が強く、さらにはこの光景を間近で見た彼は大丈夫だろうかと心配になったのかもしれない。
案の定、店長はその場を動くことなく、呆然とミハイルがいた場所を見つめていた。
――当然だ……。
蒼はそっと目を伏せた。ある意味朔のお陰で非現実的な出来事に多少の耐性がついていた蒼でさえ、これだけの衝撃を受けているのだ。そういうことに関わりのないであろう店長の、恐らくは大切な人がこんな形で消えてしまった気持ちというのは、もはや彼女に推し量れるものではない。
ただ消えただけならまだ望みはあったかもしれないが、漠然とあれは死だという確信が蒼にはあった。それはきっと彼も同じだろう。
蒼が身近な人間を亡くした時の気持ちを思い出しながら視線を前に戻すと、ふと残された灰の存在が気になり始めた。
――ミハイルさんのあの傷は、朔さんの顔にあったのと同じじゃないの?
一度見たら忘れられないような、酷く、惨たらしい火傷のような傷。
振礼島の生き残りである二人の身体に同じものがあったのは果たして偶然だろうか。もし偶然でないとしたら、この現象は朔にも起こり得るのではないだろうか。
あまりに現実離れした状況だからか、どこか冷静に蒼は考えていた。
しかし同時に、そんな自分に嫌気が差す。ミハイルはともかく、目の前に座り込む哀れな男性にこんなものを見せてしまったのは、自分が振礼島のことを調べていたせいではないのか。それなのに、こんな状況にまでそのことを考えるだなんておかしいのではないのか。
どれくらいそうしていただろうか。蒼が自分を責めていると、不意に店長が口を開いた。
「……『もう死にたい。でも死んだら地獄に引きずり込まれる。こんな身体じゃ神は私を救ってくれない』」
「え?」
脈略のない言葉に思わず蒼は聞き返した。その言葉を発した本人は相変わらずミハイルがいた場所を見つめたまま、蒼の方を見ようともしない。
その様子に蒼は一瞬独り言かと思ったが、しかし目の前の人物であればそれはきっとロシア語になるはずだ、と自分に向けた発言であることを確信する。
「Мишаが、さっき言っていたんだ……。何のことかは分からないが、このことだったのかもしれない……」
蒼が聞き返したことに気付いているのかいないのか、それだけ言うと店長はボロボロと涙を流し始めた。彼の言葉の意味は全く分からなかったが、初めて見る大の男の涙に蒼の目にも熱いものが込み上げる。
知り合って間もない相手のはずだが、彼の発する悲壮感に自然と涙が零れた。
――私が、ここに来たせいだろうか……。
涙を流すことで気分が落ち込んだのか、再び蒼の頭にはこの事態を生んでしまった責任が自分にあるのではという考えが浮かんだ。
自分が振礼島に興味を持たなければ、自分がミハイルに会いに行かなければ、自分が店長に協力を求めなければ――そんな考えばかりが蒼の頭の中をぐるぐると巡る。
『死にたいっつってんだから殺しゃあいいだろ!』
ふと、朔の言葉が脳裏を過ぎった。まさか彼が――蒼は首を振って自分の中に浮かんだ言葉の続きを必死に振り払う。しかし否定すればするほど、恐ろしい考えが蒼の頭の中を埋め尽くしていく。
あの時の朔ならば殺しかねない、そんな考えが蒼の鼓動を速くしていった。
――でも、朔さんがそんなことをするとは思えない。
そう思いたかっただけかもしれない。少なくとも朔は自分を助けてくれたことがあるのだ、そんな人間が本当に人を殺すのだろうか、と。
それに殺すと言って本当に殺す人間など、今の世の中にどれほどいるだろうか。状況に拘わらず、簡単にその言葉を口にする人間は山程いるのだ。
蒼は自分を落ち着けるために一つ大きな深呼吸をすると、自分の愚かな考えを頭の中から追い出した。
――本当に殺したなら姿を晦ますはず。だからきっと彼は、少し待てばけろっとして私の前に現れるはずだ。
だがその夜、蒼がいくら待っても朔は帰ってこなかった。
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