虚像のゆりかご

新菜いに

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第五章 八尾彰

〈三〉物音

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「――そうですか、分かりました。ありがとうございます」

 自席で電話を切ると、尾城はふうと小さく息を吐いた。相手は橘の友人である金森で、橘が通勤経路を逸れて川の方へと向かった理由に心当たりがないか聞いてみたのだ。
 結論から言えば、金森に思い当たる理由はなかった。だが彼女の話では橘があの辺りを歩くこと自体はそれほど不思議ではないという。
 今は暑いからやらないが、過ごしやすい季節に金森は何度か橘と共にあの土手道を歩いたことがあるそうだ。それは特に目的のない散歩のようなもので、昼間だけでなく夜であってもあまり恐怖を感じない道のため、身体を動かしたくなった時にはちょうど良いらしい。

「せめて彼女が亡くなったのが昼か夜かだけでも分かればいいんですけど。あまり日傘も使わないタイプだったみたいなので、所持品からは判断できそうにないですね」

 尾城は金森との電話の内容を河野に伝えると、そう言って困ったように頭を掻いた。

「今分かってるのは七月二十二日以降ってだけだからな」

 この日付は橘が最後にバイト先である居酒屋に出勤した日だ。仮に金森が橘と連絡を取ろうと試みた八月十日には既に亡くなっていたと考えても、三週間近くも幅がある。

「川の水かさの記録を見る限り、七月後半のまとまった雨より前ではありそうなんですけどね。まだ水かさが少ない時期にあの場所で亡くなって、その後増水で周りを水に囲まれたと考えられます。でもどこかから流されてきたなら話は別です。増水した後じゃないとあそこには流れ着かないでしょうから、その場合だと逆に雨以降――八月上旬ってことになります」
「結局分からないってことか。……橘がなんであの辺りに近付いたのか分かれば、まだどうにかなりそうなんだけどな」

 橘が川に近付いた理由が分かれば、その理由から死亡時期が逆算できるかもしれない。仮に本人の意思ではなかったとしても、そうと断定できるだけでも進展するのだ。

「……逃げたとか、か?」
「逃げた?」

 予想もしていなかった河野の言葉に尾城は思わず素っ頓狂な声を上げた。確かに橘はストーカー被害に遭っていたため逃げる動機はありそうだが、それでどうしてあんな道に行くのか分からなかったのだ。

「金森さんが言うにはあの辺は怖くないんだろ? 他の道で付けられていると感じたら、普段から悪い印象のないあそこに行きたくなるかもしれない。相手が分からなければ家を知られないようにするためにすぐに帰れないだろうからな」
「まあ一理ありますけど……」

 それでもあの道に逃げ込むということは、付けられていたと気付いた時には既に近くにいたということになる。その理由は今の話では説明できないと思って尾城が口ごもれば、「言いたいことは分かってるよ」と河野が溜息を吐いた。

「あくまでそうとも考えられるってだけだ。結局のところ、今の段階じゃ死亡直前の橘の行動は分からない」

 そう言って話を打ち切ると、河野は手元の書類に視線を落とした。
 これはもうこの話題を続ける気はないな――そう悟った尾城も、同じように金森に電話をかけるまで読みかけていた資料に意識を戻す。今見ているのは八尾の来歴で、彼の周りの死について取り寄せたものも含まれていた。

 これが天涯孤独というやつか――資料を読みながら、尾城は彼の半生に対してそんな印象を抱いた。
 八尾はごく普通の夫婦の家に生まれたようだが、母親は彼の出産時に命を落としている。その後は父親が男手一つで息子を育てていたものの、その父親もまた八尾が小学校に上がる直前に縊死していた。

「幼い息子を残して死ぬなんて……」

 当時の記録を見る限り、父親の遺体発見現場に無理心中しようとしていた形跡はなかったらしい。借金など子供を残して死を選ぶような理由も見当たらず、通常の親子仲だったのであれば自分は死んでも息子は助かるようにと事前に準備はしそうなものだったのに、そういった痕跡も確認できなかったそうだ。
 実際、幼い八尾は父親の遺体と二日ほど暮らしていたようだ。異変を感じた近所の人間が警官を伴って家を訪れた時、家の中の食料はもうほとんど残っていない状態だったという。散乱していたゴミの量から考えて、父親の死亡時点で普段から買い置いていた程度の食料しかなかったとみられている。
 そういった事実を鑑みると、尾城にはこの父親は発作的に自殺をしてしまったように感じられた。心療内科や精神科の通院記録はないようだが、彼の精神状態は正常とは言える状態ではなかったのではないか――突然妻を亡くし子育てに追われてしまったのだから仕方がないか、と尾城は暗くなった気持ちを振り払うように首を小さく横に振った。

「その後は叔母に引き取られる、か」

 叔母というのは、当時二十五歳だった父親の妹だ。八尾の父方の祖父母は当時存命だったが、若年性の認知症を患っていた祖父の介護で祖母は手一杯だったため、叔母が名乗り出たようだ。
 だが二十五歳と言えば、まだ社会人経験も浅い。その分給料も低く、叔母は八尾を養うために勤め先の会社に隠れて副業をするようになったらしい。

「その叔母も過労で倒れて死んじまったってな」

 尾城が八尾に関する資料に集中していると、隣で同じ資料を見ていた河野が苦々しい顔をしながら言った。いつもどおりの乱暴な口調だが、その声にはいささか張りがない。

「珍しいっすね、河野さんがしんみりするの」
「そんなんじゃねぇよ。ただまあ、二十五って言ったらうちの娘と大して変わらないからな……」
「そういえば今大学生でしたっけ、娘さん」

 尾城が言うと、河野は小さく「まあな」と返して再び資料に視線を落とした。だから彼が何故気落ちしたか確かなことは尾城には分からなかったが、恐らく自分の娘と八尾の叔母を重ねたのだろう、と理由を思い浮かべる。
 若い女性がある日突然子供を育てることになって、その責任を全うしようと無理をして命を落とす――同じ年頃の娘を持っていれば確かに嫌な気分になるかもしれないな、と尾城はそれ以上河野に聞くことはせずに資料の続きを見始めた。

 八尾の叔母は、甥を引き取った四年後に自宅の風呂場で遺体となって発見されたらしい。何かしらの理由で転んだ拍子に風呂場にあった洗面台に頭を打ち付け、その怪我が原因で命を落としたようだ。
 過労で倒れたとされているのは、この頃頻繁に職場で気絶しそうになる姿を目撃されていたことが大きい。正式な死因とはされていないが、過労のため風呂場で意識を失うか、目眩を起こした可能性が高いとされている。
 そしてこの時の叔母の遺体の第一発見者は、当然ながら同居する八尾少年だったそうだ。朝目覚めた彼は風呂場で倒れる叔母を発見、救急車を呼んでいる。しかし叔母が倒れたのは夜中と見られ、救急隊員が到着した時には既に彼女は息を引き取っていた。

「この時にはもう、頼れる身内がいないから八尾は施設に行ったんですね」

 父方の祖父母は、祖母の方が八尾が叔母に引き取られた二年後に亡くなっていた。残された祖父は老人ホームでの生活で、認知症を患っていることもあり八尾を育てることができない。母方の祖父母についてはそもそも八尾が生まれる前に亡くなっている。
 つまりこの時点で、八尾はほぼ天涯孤独の身となった。

「高校卒業と同時に施設を出て、今に至る……か。本当に八尾が無実の罪を着せられそうになっているなら、とんでもなく不運というかなんというか……高校生活だって東海林美亜の一件のせいで全然楽しめなかったでしょうね」
「……本当に無実だったらな」

 意味ありげに言う河野に尾城は怪訝な面持ちを浮かべた。少し前までは八尾を疑う自分を諌めていたくらいなのに、この口振りではまるで河野もまた八尾の無実を疑っているように感じられたのだ。

「何か気になることでもあるんですか?」
「気になるってほどでもねぇが……八尾明香さやかが死んだ時、八尾は起きなかったのかと思ってな」

 その言葉に尾城は資料を見返した。明香というのは八尾の叔母の名だ。彼女の死亡推定時刻は夜中の一時半頃で、一一九番への通報は朝の七時過ぎとある。死亡推定時刻がはっきりしているのは、この時間帯に大きな物音を聞いた同じアパートの住民が複数いたからだそうだ。
 しかし夜中の一時と言えば小学生の子供なんてよほどのことがない限り眠っているだろう。そう考えると、この資料に記載されている内容にそれほど不思議な点は見当たらない。

「転んだってことは確かにそれなりに物音はしたかもしれませんけど、ぐっすり眠ってたら気付かなくてもおかしくないんじゃないっすか?」
「ああ、だから気になるほどでもないって言ったんだよ」
「……?」

 尾城が言葉の続きを尋ねると、河野は嫌そうに顔を顰めた。

、金に困ってたんだったら家はきっと安アパートだろ? 人間が倒れる音なんて相当響くと思うけどな。ほら、実際アパートの他の部屋にまで聞こえてるだろ。同じ家の中にいたならもっと音はでかかったはずだ」
「八尾は聞こえてて無視したってことですか?」
「かもしれない、って話だ」

 そう言う割には確信に近い表情をしているな――河野の横顔を盗み見た尾城は、自分の抱いた印象が正しいかどうか確認しようと口を開いた。

「もしそうだとしても、それで責任を問うのは難しいと思いますよ。たとえ夜中に大きな物音がしても、子供なら眠気を優先して様子を見にすら行かないなんてこと普通に有り得るでしょう? 同居家族がいるなら尚更ですよ。物音の原因はきっと家族だと思えば、何回も睡眠を妨げられでもしない限りなんとも思わないかもしれません」
「分かってるよ。もし本当にそういう事実があったとしても、子供なら怖くなって大人に打ち明けないこともあるだろうっていうのもな。それでも――」

 わざと河野の意見に反するような内容を選んだ尾城だったが、その反応を見てやはり彼の中で確信のようなものがあるのだと悟った。いつもよりも一つ低くなった声は、河野が熟考の末に出した考えを語る時のものだったからだ。

「――父親を目の前で亡くしてるんだ。父親が死んだ時は理解できていなかったとしても、この当時の八尾は小学四年……過去の出来事についても十分考えられる歳だ。だったら普通の子供より同居家族の心配をしたっておかしくないだろ?」
「異変に過敏になっていたかもしれないってことですね」

 それは尾城にも分からなくもなかった。八尾が父親の死に接した状況は異常なのだ。ただでさえ家族を亡くすことは子供の気持ちに大きな影響を与えるだろうが、首を吊った状態の遺体と二日間も同居していたのだから、身内の死に対してトラウマを抱えるほどのものとなっていてもおかしくはない。

「だからまあ、とりあえずは八尾が叔母と住んでた家の構造は確認しておきたいところだな。何部屋もあるんだったら八尾が起きなくても仕方がないと納得できるかもしれない」

 河野のその言葉で、尾城達の次の行き先が決まった。
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