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第五章

〈五〉二人の狩人・壱

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『ま、貴殿の首なんぞいらんのだがな』

 その言葉を聞いて、昇陽は意味が分からず目を白黒させた。首がいらないとはどういうことだろうか。誰かを裁くという話ならば、それは自分一人でなければならない。他の者の関与も疑われているのに、その自分の首がいらないということは――そこまで考えると、昇陽は弾かれたように声を荒らげた。

「お、お待ち下さい! 一体どういう……私は兄上を、時嗣の子を殺そうとしたのですよ!?」

 慌てて自分の罪を主張して、直前の白柊の言葉をかき消そうとした。自分がやったことが罰せられないということは有り得ない。どうにか白柊の注意をこちらに戻さなければ――本来こういう時は減刑を求めるものだろうと冷静な自分が嗤ったが、先に有り得ないことを言い出したのは白柊なのだ、と昇陽はその考えを頭から追い出した。
 白柊が何を考えているかは分からない。しかし直接雪丸に毒を盛ったのは自分なのだ。いくら兄弟間の出来事とはいえ、時嗣の子の暗殺は企てただけでも大罪。それを咎めないとも取れる発言をするなどと、まさか何かを企んでいるのだろうか――昇陽は状況が飲み込めないながらも、探るように白柊を仰ぎ見た。

「雪丸殿は生きているだろう?」

 しかし白柊が昇陽に返したのは、その言葉と不思議そうな表情のみ。それは企みなどなく、単に雪丸はまだ生きているから誰かを罰する必要はない――そう白柊が考えていると、昇陽に思わせるには十分だった。

(何を寝ぼけたことを……!)

 相手が死に至っていなければ、殺そうとした罪すらもなかったことになると言うのだろうか。そんなおめでたいことがあるはずもない――昇陽はこの時嗣の御子も琴と同類だったのか、と頭に血が上るのを感じた。

「そういう問題ではないでしょう!? それに今はまだ持ちこたえているかもしれませんが、すり替えられたとはいえ毒を含んだのであれば……!」

 自分以外の関係者を裁こうとしているのではないかという焦りは、いつの間にか時嗣の御子に対する怒りに変わっていた。何故こんな無能な奴らばかりが特別な力を得るのだと考えると、悔しくてたまらない。
 確かに雪丸に使った毒は、自分が用意したものではないかもしれない。それでも毒というものを口にしたのだから、万が一ということもあるだろう。どうしてそんな簡単なことも分からないのか――そう思って昇陽が白柊に食い下がれば、彼は「私は不確実な方法は嫌いなんだ」と笑った。

「すり替えるのだから、雪丸殿が死なないようにするのは当然だろう?」
「しかし絶対にないと言いきれますか!? 今この時にも兄上の身体は毒に蝕まれているのですよ!?」

 白柊が雪丸のために何かしていると思わせる発言をしても、昇陽はそれをすぐに受け入れることができなかった。
 それは怒りのせいだけではない。もし本当に何かしているのだとしたら、それによって雪丸が絶対に死なないのだとしたら、のだ。

(だって、そうじゃないか……)

 雪丸はあんなに苦しんでいたのに、と昇陽は眉根を寄せた。
 毒を口にした雪丸は、あっという間に顔色が悪くなった。触れた身体は燃えるように熱く、そのせいか時折痙攣まで起こし、月霜宮に連れ帰るまでに何度彼が死んだと思ったか分からない。
 そんな雪丸の姿を見たからこそ、昇陽は自分のやったことを実感した。この月霜宮で唯一とも言っていい味方を手に掛けたのだと、恐ろしくてたまらなくなったのだ。いくら白柊の言うことが正論だと頭で分かっても、彼が無事だなんて信じられなかった。そんなに自分にとって都合の良い現実など、あっていいはずがないのだと。
 はっきりとそう思い至ると、昇陽は自分の怒りの本当の正体に気が付いた。これは自分自身に対する怒りだ――白柊や時嗣の御子に対して向けたのは、そうと気付かないためだったのだ。

「私が用意した鳥の毒だがな、この鳥はネツガエルを食べるせいで身体にその毒を溜め込んでいるらしい。しかし毒性は弱まり、同じような症状に苦しむが死ぬことはない」

 だが白柊は、昇陽の葛藤を他所に淡々と事実を告げた。「そんな……」、昇陽の口から零れたその言葉は、雪丸の無事を喜ぶものなのか。それとも、自分のしたことが無意味だったと嘆くものなのか。それは昇陽自身にも分からなかった。

 明らかに動揺している昇陽を見て、白柊は溜息を吐いた。彼のその様子の原因は自分の話のせいだけではないのだろう。を考えると、安堵と罪の意識のせめぎ合いといったところだろうか――これではまともに話を聞けるようになるまでもう少し時間がかかるな、と白柊は滝之助へと向き直った。

「解毒だってもう済んでいるだろう? 羽刄の」

 その言葉に昇陽が咄嗟に顔を上げれば、滝之助が白柊に向かって静かに頷いているのが目に入った。

「はい、教えていただいたとおりに。本当になんとお礼を申し上げたらいいか……」
「つまらない言葉などいらん」

 白柊は無愛想にそう言ったが、滝之助は先程まで彼に食ってかかっていたのが嘘かのように、慇懃に頭を下げた。彼にとって気に入らなかったのは、自分に非がないのに雪丸が毒を含んだのは自分のせいだとされたこと。しかしそれは自分の注意が足りなかったのだと、既にこれまでの話から納得し、反省しているようだ。

 そんな滝之助の落ち着きようを見て、昇陽も自分の中に安堵が広がっていくのを感じていた。守護である滝之助が言うのであれば、雪丸は絶対に助かるのだ。ここまでくればもう、昇陽には雪丸の無事を否定することはできなかった。
 都合の良い現実が、今まさに起こっている――昇陽は目頭が熱くなるのに気が付いたが、自分にそんな資格はないと小さく首を振った。

 もう、怒りはなかった。無能だと思った相手は、抜け目なく雪丸の命を助けていたのだ。それは自分の計画の失敗を決定的にするものだったが、昇陽は確かに安心していた。穏やかになった心は彼に落ち着きを取り戻させて、そして同時に、その役割を思い出させた。

「……兄上が死なないというのは理解できました。しかしそれと私を裁かないというのは別の話です。結局貴方様の企みどおりに動いたとはいえ、兄上を殺そうとしたのは事実。罰がないなど有り得ません」

 罰は受けなければならない。たとえ雪丸が助かっても、彼を殺そうとしたことは事実。そうして全ての嫌疑を自分に向けなければ、仮に生きることが許されても待つのは地獄なのだ――静かに決まった覚悟は、昇陽の口を滑らかに動かした。

「貴殿はそんなに裁かれたいのか?」
「それくらいのことをしたと、覚悟していたのです。納得できる理由があれば別ですが、そうでないのなら行雲宮の采配すら疑わざるを得ない!」

 強い口調で昇陽が言えば、白柊はすっと目を細めた。

「貴殿が私にそのような物言いをするのは、何か隠したいことある時だな」
「なっ……」
「急に態度を変えたのも、隠していることがあるからだろう?」
「そんなこと……!」

 否定しようと口を開いたのに、昇陽はうまく言葉にすることができなかった。何故ならそれを口にしようとすると、頭の中で誰かが囁くのだ――お前の魂胆は相手に知れているぞ、と。
 昇陽が自身の状況に愕然としていても、白柊は待ってはくれない。更に彼を追い込むように、言い逃れできないように、「話を戻そう」、と強い口調で言葉を重ねていく。

「雪丸殿の生死の件で話がそれてしまっていたが、今一度問うぞ。――誰が毒のことを調べた? あの山にいる生き物の毒を使えば良いと、ちょうど事故の原因となる生き物もいるぞと、誰が貴殿に教えたんだ?」
「自分で……調べて……」
「どうやって?」

 問われた昇陽は、必死に記憶を辿った。そしてどうにか思い出したのは、ある日の光景――が自分に、事故についてを話した時のこと。何かを示しながら話していた、と更に記憶を追いかければ、それは書物だったと思い至る。

『生憎これしか置いていなかったが』

 その言葉はきっと、どこからかその書物を借りてきたという意味だろう。この月霜宮で、あの人の行動範囲でそれができるのはたった一箇所しかない。

「書史寮で、事故の記録を……」
「どの書架だ?」
「そ、そんなの覚えているわけ……」

 何故納得してくれない――もはや縋るような目で昇陽が白柊を見れば、呆れたような表情を浮かべる子供が自分を見下ろしていた。

「覚えていないんじゃなくて、知らないんだろう? 私の記憶が正しければ、事故の記録を借りて行ったのは昇陽殿ではない、菖蒲殿だ」
「え……?」

(そんなこと聞いていない……)

 昇陽の目が見開かれる。そんなに大事なことを何故言ってくれなかったのか――その不満は、白柊に対してではなかった。

「以前天霄殿てんしょうでんで言っただろう? 菖蒲殿に会ったと。それが書史寮でのことだ。あの時、彼女が事故の記録を手にしていたのはよく覚えている。何せ珍しい物を持っているなと驚いたからな」
「知っていて、聞いたのですか……」

 昇陽が項垂れるのを見ながら、それまで静かに見守っていた三郎は眉を顰めた。今白柊が言ったことは、だ。菖蒲と書史寮で会ったのは事実だが、その時彼女はまだ来たばかりで書物など持ってはいなかった。
 そして彼らの言う事故の記録とやらを持っていたのが白柊だ。大方昇陽の反応から、菖蒲は書史寮で白柊と会ったことを彼に話していないと判断して嘘で釣ったのだろう。
 これだけ憔悴しきった相手に、よくもここまでする――三郎は少し苦いものを感じたが、白柊がここで生きていくには必要なことだと考えると、それ以上悪くは思えなかった。たとえ嘘だろうがなんだろうが、自分に牙を向けかねない者には対処しなければならない――それが時嗣の御子として、誰も味方のない白柊には必要なことなのだ。

(まあ、もう少し悪びれてくれてもいいんだけど……)

 昇陽を騙しているのに涼しい顔をしている主を見ながら、三郎はこっそりとそう思った。

「菖蒲殿も関与していると認めるのだな?」
「ち、違います! 母は……母には私が調べて欲しいと頼んだだけです! 『鹿狩りに行くにあたり、山での危険を知っておきたい』と母に頼んで……」
「そんな頼みを聞くとは意外と息子想いなんだな、菖蒲殿も」

 白柊は薄く笑いながら、昇陽に言葉を返した。昇陽は緊張しながらもそのまま少し待ったが、白柊が言葉を続ける様子はない。
 それにやっと納得してもらえたのだと安堵して、大きく息を吐き出した。なんだかずっと息をできていなかった気がする――上手く自分の役目を果たせそうだという安心感が、昇陽の固まった身体を解していた。

「しかし、どうして毒の種類が分かったのですか? この毒を用意できたのは三日前です、なのにすぐその中身を調べて変わりの毒を用意するなどと……」

 安心からか、それとも早く話題を変えたいという思いからか、昇陽の口からは自然とその疑問が出ていた。
 それは恐らく、彼の中でずっと引っかかっていたからだろう。自分の手元に毒が届いたのは三日前、白柊が二日前にすり替えたと言ってもそれは不可能ではない。しかしすり替える時点で毒が何か、そして代わりの毒は何がいいか分かっていなければならないし、用意にも時間がかかるはずだ。実質一日で全てができるとは昇陽には到底思えなかった。
 一体どんな手品を使ったのだろう――そんな気持ちを込めて尋ねれば、白柊は世間話をするように答えた。

「私が代わりの毒を用意したのは二週間前だ」
「二週間前……?」

 有り得ない、と昇陽は目を見開く。

「そんな……まさか未来を……? しかし貴方様の時和の力は、過去を見るもののはず……」

 有り得ないことではあるが、白柊が未来を読めるならば話は別だ。しかしそんな話は聞いたことがない。昇陽はわけが分からなくなって、上手く言葉をまとめることができなかった。

「これだからこの国の人間はいかんな。未来を見れるのが時和だけだとでも? 確かに私も時和だが、そんな力に頼らんでもこの程度の未来くらい見通せるわ」

 混乱を顕にする昇陽を見て、白柊は呆れたようにそう言った。しかし昇陽にはやはり意味が分からない。「それは……どういう……?」、戸惑いのままに口に出せば、白柊は溜息を吐いてから話し出した。

「二月前の茶会で、日永殿が貴殿と雪丸殿を近付けようとした。その時点で、何か企んでいると疑うのは当然だろう?」
「そ、そんなことで……?」

 二月前という時間もそうだが、白柊が自分を疑ったきっかけに納得がいかなかった。日永が自分と雪丸を親しくさせようとするのは珍しいことかもしれない。しかし、何らかの事情で兄弟間の不和を取り持とうしているのではないかと考えるのが普通なのではないか。

「しかも貴殿も日永殿も芝居が下手すぎる。私が鹿狩りに同行したいと言ったら慌てて止めてきた。それは私に一緒に行かれたら不都合がある――鹿狩りの場で、雪丸殿を害そうとしていると考えるのは必至」

 結果的に白柊のその考えは正しかった。確かに自分たちの行動は怪しかったかもしれないが、どうしてたったそれだけのことでそこまで考えられるのだろう――未だ昇陽には分からなかったが、白柊がそう言うからには事実なのだと納得せざるを得ない。
 しかし、それでも説明できないことが残っている。

「ですが……それでどうしてこの毒を使うと……? いや、毒を使う事自体分からないはずです! 狩りの場であればもっと単純な事故を装えばいい。誤って射てしまったとか、崖から落ちてしまったとか、他にもいろいろあるはずです!」
「無理だな」
「何故……!?」
「守護がいる」

 守護がいる――そのたった一言は、昇陽を疑問を解決するには十分だった。

「守護がいる限り、誤って射てしまった矢が主人に当たることはない。崖から落ちても死ぬはずがない。となると自然、方法は限られてくる」

 それが毒殺なのだ。主を守るため、常に周囲を警戒している守護が警戒しないもの――自身が既に毒味し、安全と判断した食べ物。そして、それを食べるという行為。何度も見てこれなら警戒されないと確信が持てたからこそ、昇陽はこの方法を取ったのだ。
 最初から毒を選んでしまった自分は、他の方法が実現可能かどうかなど考えもしなかった。しかし少し考えれば、毒殺以外は不可能だとすぐにわかったのだ。昇陽が内心で感心していると、「ただ、ここで一つ問題がある」と白柊が言葉を続けた。

「今ここで不確実な手段を、さもそちらの方が確実といったふうに言ってきた貴殿は、どうして今回の方法を選んだのか」

 ぎくり、と昇陽の身体が強ばる。

「答えて頂けるかな、昇陽殿」
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