東雲を抱く 第一部

新菜いに

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第二章

〈四〉佳宵の獣・壱

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 羽刄から人がやってきたのは、予定通り日が傾いてきた頃だった。
 本来であれば行雲御所の本殿に通すべきだが、今回は非公式の面会。相手にもそれを強調する意味を込めて、白柊はいつもの離れに客人を通した。

 その客人は、上背のある若い男だった。年の頃は日永や雪丸と同じくらいだろうか。三郎が事前に聞いていた羽刄の噂通り中々の美丈夫で、蜂蜜色の髪に、ややタレ目がちな竜胆色りんどういろの瞳が特徴的だった。
 白柊の少し後ろに座った三郎は、男を目の前にしてどこか落ち着かないものを感じていた。男に不審な点などないはずなのに、その存在を感じるとどうにも胸がざわつく。来客のために付けた狐面で隠れた額には、ほんの少しだけ汗が滲んでいた。

「こんな場所で悪いな」
「いえいえ。このたびは貴重な機会をいただき、ありがたく存じます」

 白柊の言葉に対して男が声を発した瞬間、三郎の額の汗は頬を流れ落ちた。

(この声、昨日の……!?)

 そう気付いたと同時に、三郎は何故自分がこんなにも落ち着かないのかを理解した。
 本能的に感じていたのだ、相手が昨日の男であると。自分ではまだ埋めようもない実力差を持つ危険人物――そんな人間が、守るべき主の近くにいる。次期守護としての顔合わせで来たのだから白柊に危害を加えるつもりはないだろうが、昨日感じた衝撃が三郎に緊張をもたらしていた。

「急な呼び出しでよく都合を付けたな」

 白柊の声が遠くに聞こえる。口の中がからからに乾いて、浅い息しかできない。それでも三郎は、平静を取り戻そうと小さく深呼吸を繰り返した。羽刄の男に悟られないように、普通の呼吸を装って。

「そりゃあもう、時嗣の御子のご要望とあれば。あ、私の言葉が悪いのはご容赦いただきたい。できるだけちゃんとするよう努めますが、何せ自分が守護役を仰せつかるとは思っていなくて。鋭意練習中ですが、まだまだ至らんのです」
「まだ決まったばかりだ、仕方がない。羽刄家もまさか新しい守護役が必要になるとは思っていなかっただろう」

 時和の能力は最後の時和から数えて二世代、つまり孫の代までしか発現しない。時和の生まれてくる可能性のある家はあかつきと呼ばれ、適齢期の者達は全員記録されている。
 その上で、既に今の代――現時嗣の世代にはもう新しい子は生まれないだろうと言われているのだ。新たに子が生まれなければ、時和が生まれる可能性もない。守護御三家が新たな守護役候補を用意していなくても不思議ではなかった。

「ご理解ありがとうございます。まさに仰るとおりの状況で、羽刄本家はてんやわんやですわ」

 そう言って、羽刄の男は大袈裟に肩を竦めてみせた。しかしすぐにすっと背筋を伸ばし、真面目な顔で小さく頭を下げる。

「改めて、羽刄天真てんま丹織にしきと申します。お気軽に天真とお呼びください」

 相手の挨拶に「うむ」と返して、白柊は「それで、何が聞きたくて面会を?」と続けた。

「そうですね――」

 白柊に問われたはずの天真の目が何故か、その後ろを見つめる。

「――そちらの、虚鏡の方のお名前を」

 急に話題に出されて、三郎の心臓が大きく跳ねた。羽刄の目的は、白柊の言うように彼の品定めのようなものだと三郎も考えていたのだ。それなのにそういう話の流れがあったならまだしも、最初から自分のことを聞こうとしてくる天真の意図が分からなかった。

 天真と直接話していた白柊も、少しばかり怪訝な表情を浮かべた。天真にとっては前任の守護ということで、三郎の紹介をすることになるだろうとは考えていた。だが、まさかそれを向こうが一番最初の話題として選んでくるとは思わなかったのだ。
 自分に用があって面会を求めてきたはずなのに、他者の話題から始めるということは、相手――時嗣の御子に対して礼を欠いている。いくら天真の言葉遣いがなっていなくとも、そのくらいの礼儀は弁えているはず――そう考えると、天真のこの質問の意図が白柊には分かる気がした。
 しかし、まだそれを顔には出さない。今の時点では可能性の話でしかないのだ。確信を得てからでないと、知りたいことを知ることができなくなってしまう。
 白柊は始めに浮かべた表情のまま、意味が分からないといった様子で天真に視線を合わせた。

「聞いてどうする? どうせお前達が共に仕事をすることはない」
「しかし私にとっては先輩にあたりますので。何かあった時に頼れれば、と」
「自分の力不足を伝えに来たのか?」

 白柊が嘲笑うように口端を上げれば、天真は「中々手厳しい」と苦笑いを浮かべた。

「まあいい、知っておいても構わんだろう。――明月介あつきのすけ

 白柊の言葉に、来た、と三郎は背筋を正した。

「『虚鏡明月介と申します』」

 の挨拶をして、三郎はゆっくりと顔を上げた。


 § § §


「ないとは思うが――」

 天真到着より少し前のこと、白柊が思い出したかのように三郎に話しかけた。

「――昨夜お前が会った奴と、今回来る奴が同じ人物だった場合の合図を決めておく」
「……そんな偶然あります?」
「ないとは言い切れないだろう? それに決めておかないと、万が一にも同一人物だった場合、焦ったお前が下手を打つとも限らん」
「うっ」

 そう言われてしまえばぐうの音も出ない、と三郎は顔を顰めた。動揺を隠すのは得意だが、腹の探り合いは苦手だ。そういうのは白柊が得意としていて、彼から見れば自分がどんなに必死に言葉を考えてもすべて下手とみなされるのだろう。

「こうしよう。お前が相手に名乗る時、問題なければ『三郎』まで名乗れ。だがもし警戒すべき人物なら――」


 § § §


『――明月あつきの名までで止めろ』

 白柊との取り決め通り、三郎は『虚鏡明月介』と名乗った。

(これで伝わるはず……)

 三郎はそっと主の背中を窺う。特に変わった様子はないが、この主は幼いながらも動揺を一切表に出さない。分かりづらいのは困りどころだが、こういう図太さが彼の武器でもある。

「明月介っていうのは、虚鏡の位でしたかね? いみなは教えていただけないんで?」
「虚鏡が諱を持たないのは知られているだろう?」

 天真の言葉に答えるのは白柊だ。この場において三郎はあくまで守護であり、主の許可なく発言することはない。それは三郎にとっては都合が良かったが、守護なのに主に守ってもらわなければならないというのはやはり歯痒かった。
 しかしそうやって三郎が一人悔しさを感じている間にも、白柊と天真の会話は進んでいく。

「ああ、そうでした。ですが位以外の字名もあったはずでは?」
「何だ、この私をお前の個人的な虚鏡との繋がりに使いに来たのか?」

 笑いながら、しかし有無を言わせぬ語気で白柊が言い放つ。すると天真はしまったというような顔をして、「滅相もございません」と首を振った。

「誤解を招く言い方をしてしまい申し訳ありません」
「言葉に気を付けろ。お前はまだ私の守護ではない」
「本当にそのとおりで。いやね、ちょうど昨日虚鏡の者と会う機会がありまして」

 白柊の迫力を物ともせず、天真は世間話をするように話し出した。

(これはわざと……?)

 三郎は目を細めて天真を見つめた。この場でわざわざ昨夜のことに言及する必要はない。それなのに天真が話題に出すということは、自分を疑った上で証拠を炙り出そうとしているのではないか――三郎の中に緊張が走る。
 しかし白柊は相変わらず余裕の表情で、それどころか再び呆れたように笑ってみせた。
 
「ならばその者に名を尋ねればよかっただろう」
「それが恥ずかしながら逃げられてしまいまして。虚鏡の字名は生まれた順に一郎、二郎となるのは知っているんですが、じゃああの者がなんだったかっていうのを、そちらさんの名を聞いて考えようかと。もし年の頃が近いのであれば、数字の近い名である可能性が高いんじゃないかと思いまして」

 天真の言う通り、虚鏡では男女問わず生まれた順に数字を変えただけの名が付けられる。しかしこれは本家分家問わず同じであるため、彼の言う方法では虚鏡の人間の名を特定することはできない。

「同じ名の者が何人もいるんだ。この明月介と兄弟でない限り、その方法では探せないと思うぞ?」
「げっ、そうか……。他に何か見分ける方法はありますか? 明月介殿」

 名指しで話しかけられて、三郎の息が詰まる。いくら狐面越しで声が変わっているとはいえ、この男であれば勘付かれる可能性が高い。下手に声を出せば、今ここで男の探し人が自分であると知られてしまう。どうするべきか、と三郎が迷っていた時だった。

「私に用だったのではないのか?」

(助かった……)

 白柊が横からそう言えば、天真は無視することはできない。

「ああ、何度も申し訳ない。そうですね、今日は白柊様とお話に来たんでした」

 そう言って、天真はすっと真顔になる。途端に彼の周りの空気は引き締まり、室内が緊張に包まれた。

紫明宮しめいのみやをどう見ます?」

 それは、月霜宮では許されない質問だった。
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