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最終章 転がり落ちていく先は

【第十一話 窮鼠】11-1 理由って何ぃ……

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 キョウが壱政様の本の虫干しをしていった翌日。昼過ぎに起きた私はなんとなく何か食べたくなって、屋敷の台所へと向かった。
 正直なところ、私達吸血鬼は毎日食事を取る必要はない。栄養価の高い血液であれば数日に一回腹を満たすだけ飲めれば十分だ。こちらに来てからは二、三日に一回程度吸血鬼らしい食事をしているけれど、今私が食べたいのはそっちじゃなくて人間のご飯の方。
 こちらはそもそも嗜好品なので食べても食べなくても関係ない。だからお腹が空いたから食べたいって感覚じゃなくて、味や食感が恋しくなる方の〝食べたい〟だ。グルメ番組に出てきた食べ物を食べたくなるあの感覚に近いだろう。空腹なわけでもないのに、口の中にその味の記憶が広がってどうしてもそのものを食べなきゃ気が済まなくなるあの感覚だ。

 がしかし、この屋敷にはまともに映るテレビがない。だから私が何か食べたくなった理由は分からないのだけど、今は気にする必要はないだろう。だってこの屋敷で食べられる人間の食べ物って選択肢が全然ないんだもん、気にしたところで意味がない。
 おだんごは昨日全部食べてしまった。おまんじゅうはまだあるけれど、なんとなく甘い物の気分じゃない。となればしょっぱいものだけど、今この屋敷にあるのは先日大量購入した冷凍鍋焼きうどんだけだ。

「うーん……ま、これでいっか」

 やけに立派な冷蔵庫の冷凍室を開ければ、まだまだたくさんのアルミ容器が私を見上げてきた。その中から一つを取り出して、手順通りに外装のビニールを剥がしてコンロの上に置く。
 このコンロは折角三口あるのに、基本的にお湯を沸かすためにしか使われていない。だから油汚れは全然付いていなくて綺麗だ。レイフの掃除が行き届いているというのもあるだろうけれど、やっぱり油を使わないというのは大きいだろう。

 そんな綺麗なコンロに、昨日私はこのうどんを派手にぶちまけてしまったことを思い出した。名誉のために言っておくけれど、私が不器用なわけじゃない。華族のお屋敷で働けたくらいだ、家事をすれば今でもお金を取れるくらいにはできる自信がある。

 じゃあなんでぶちまけたって? そんなの麗様が余計なことを言うからだ。
 なんで麗様はあんなこと――鮮明に蘇ってきた記憶に、顔に変な力が入るのを感じた。


 § § §


 ぐつぐつ煮える鍋焼きうどん。そろそろ食べ頃かしらと思いつつ、大人しく手順に書かれた調理時間が経つのを待っていると、背後から麗様が近付いてくる気配がした。
 気配を消さないということは、私に話しかけようとしているのかもしれない――そう思って意識の片隅で彼女の動きを追いながら軽く身構えていると、案の定背後から『一葉さァ』と麗様が顔を出した。

『人間にうつつを抜かすのはいいけど、ほどほどにしとけ?』
『えっ……!?』

 びくり、肩が跳ねる。驚いたのは話しかけられたせいじゃない。

『あのガキに惚れてるんだろ? 昔の壱政見る目と一緒』
『ッえぇえええ!? ――うわッ!?』

 カタンッ、私の腕に当たったアルミ容器が五徳から落っこちる。バシャン、聞こえたのはうどんが床に着地した音。意外と小さいのはそのほとんどが私にかかったからだ。

『ッあっつ!? 惚れたって何ッ……ぁあっついなぁもう!!』

 露出した脚にかかった分はまだいい。だけど分厚いパーカーにかかった分は温度を下げないまま私の肌にくっついて、私の腰から下に苦痛をもたらした。

『ああ、お前火傷は慣れてないのか。壱政も過保護だからなァ、火傷なんて私達でも加減間違えれば跡残るし』
『……壱政様が過保護?』

 パーカーを身体から離してパタパタしていると、麗様が暢気な声で言ってきた。だけどその言葉の意味が分からない。私はパーカーの熱さがなくなってきたのを感じながら、説明を求めるように麗様へと顔を向けた。

『過保護だろ。お前を人里に帰す時だって、金銭的に困らせないためなら華族の娘ってことにすりゃァ良かったんだ。でもあの時代、その先に待つのは政略結婚だろ? それでわざわざ〝そこそこ良い家だけど一般家庭の娘〟っていう微妙な立場にしたんだよ。そしたらお前が自由に人生を選べるってな』
『え……嘘ですよね……?』

 かつて壱政様がくれた私の身分には何も不満はない。実際に華族のお屋敷で働いてみても、あの家の子に生まれたかったとは微塵も思わなかった。
 麗様の言葉を信じられなかったのは、壱政様の当時の行動の理由が過保護だと言われたからだ。麗様の口振りではまるで彼が私を可愛がるあまりにあの身分を与えたのだと言っているように聞こえてしまうけれど、あの壱政様がそんなことする? 建設的な理由か、そうでなくても単純に私を厳しく育てるためと言われれば納得できるけれど、過保護が理由じゃ私の中の壱政様像とはそぐわない。

『本当、本当。じゃなきゃお前が死にかけた時に都合良く現れた理由が説明できんだろ? あいつ、お前が結婚するってなった時に相手のこと調べてたんだよ。でもさァ、調べてろくでもない男だって分かったくせに、『一葉が決めたことだ』って格好付けて手出しすんの我慢しててさ。小っせェ男だよなァ、本当。まァ私はめちゃくちゃ笑わせてもらったんだけど』

 当時のことを思い出したのか、ニヤニヤと笑い出した麗様を前に、私も自分の顔が盛大ににやけていくのを感じていた。
 だってこの話が本当なら壱政様ってば私のこと凄く大事にしてくれてるじゃん。最近のことだって実は裏で手を回してくれていたみたいだし、この間まで嫌われたかもと騒いでいた身からすると嬉しすぎて胸がいっぱいになる。

 と、ニヤニヤしすぎてもはや顔に痛みを感じていたら、その後に続いた麗様の言葉が私の気持ちをすっと冷やしていった。

『まァ壱政のことはどうでもいいのよ。あの人間のガキとのとこだって、当人達が真剣ならあいつは邪魔したりしないだろうさ。でもお前、人間相手に浮つくのなんて初めてじゃないか? 壱政が忠告しない代わりに私が言っといてやるけど、人間に対して本気になんてなるもんじゃない。こっち側に連れてこれる奴ならいいけど、ハンターは違うだろ?』
『え、っと……』

 さっきから麗様は私がキョウを好きだという前提で話しているけれど、それは多分違うと思う。私が恋しているのはキョウの顔であってキョウじゃない。キョウ自身とはそろそろ友達くらいにだったらなれそうかなと思っているものの、そこに色恋が絡んでいるかと聞かれたら答えはノーだ。

 だからそう弁明したいのに、なんだかうまく言葉が出ない。

『あー……もしかして自覚してなかったのか? うわ、私が気付かせちまったって壱政にバレたら面倒なやつじゃん……あァでも、中途半端にしとく方が面倒なのか……?』
『あの、気付くも何も……!』

 どうにか慌てて否定を口にしようとしたら、麗様はにんまりと口角を上げた。

『じゃァ、あのガキのこと私がもらってやろうか?』
『は!?』

 何を言っているのだろう、この人は。麗様の言葉の意味が分からなくて彼女を見れば、相変わらずにやけた顔だったのに、やけに真剣な瞳と目が合った。

『あのガキ、鍛えてやるぞって言ったら乗ってきそうだろ? 仮に乗ってこなくても、あんな子供なんざ簡単に言いくるめられる。私がもらって、人間捨てさせて、ついでに男女のあれそれを仕込んでやったって――』
『駄目!!』

 自分の口から出た大声に、誰より私が驚いていた。それなのに麗様は分かってたと言わんばかりに一層笑みを深めて、『駄目?』と私を嘲笑う。

『駄目なんてことないだろ、一葉とあのガキは関係ないんだから』
『でも……! キョウはハンターなのに……』
『まァそれもそうか。じゃァ鍛えてお遊びだけ教えてやろうかな』
『ッ……それも、駄目です……』
『なんで?』
『な、なんでも……』

 真っ直ぐこちらを見てくる麗様の視線から逃れるように、私の顔は俯いていった。足元には零したうどんの残骸が派手に散らかっていて、早く片付けないと、と頭が勝手に考える。とりあえず手で具材を拾って、その後雑巾がけをしなければ。私自身も汚れてしまっているから少し早いけれどお風呂に入った方がいいだろう――そんな、どうでもいい思考が一気に頭を駆け巡る。必要なのはそれではないのに、自分の意思で制御できないのはどうしてだろう。
 麗様の問いに答えなければとは思う。思うけれど、全然考えがまとまらない。いつの間にか指先は湿ったパーカーの裾をぎゅっと握り締めていて、前方から『困ってんなァ』と楽しげな声が聞こえてきた。

『まァいいよ、一葉は可愛い孫みたいなもんだからな。今回は一旦保留にしといてやる』
『保留……?』

 私が顔を上げた時には、麗様はもう台所から去っていくところだった。

『ちゃんと納得できる理由を言えないなら、あのガキは私が引き取るってことだ。そうだな……一ヶ月くらいあれば十分だろ? その間にちゃんと理由考えとけよ。あ、〝大人として〟みたいなのはナシで』
『えっ……ちょ、麗様!!』

 私が呼び止めても、ひらひらと手を振っている麗様が足を止めることはなかった。


 § § §


「――理由って何ぃ……」

 思い出した会話に、私は頭を抱えながらその場にしゃがみ込んだ。
 私が麗様を納得させられなければ、キョウは本当に彼女の餌食になってしまうのだろう。鍛えてもらえるのはとても辛いだろうがいいとして、男女のあれそれは良くない。麗様はそこまで男癖が悪いわけではないけれど、恋愛感情というものを持っているかは非常に疑わしい。多分身体の関係と割り切って、相手がどれだけ自分を恋しがろうが気分が乗らなければ何年でも放っておくタイプだ。
 キョウもそれでいいならいいけれど、まだ未成年だという彼に大人としてそんな爛れた付き合いはさせられない。そうだ、それでいい。これが理由だ。

『あ、〝大人として〟みたいなのはナシで』

 脳裏に蘇った声が私を嗤う。なんなんだよもう、どうしろって言うんだ。大人としてじゃなかったらなんだ。私はどういう立場でキョウを麗様から守ればいいんだ。

『あのガキに惚れてるんだろ?』

 頭の中で麗様がにんまり笑ってとこちらを見ている。ああもう、本当にあの人は……!
 麗様は人間を辞めてから長いから、人間らしい感情や考え方がところどころ抜け落ちている。だから相手の感情の動きがただの余興にしか見えていない。なんて、心の中で精一杯の悪口を言ってみたところで意味なんてなかった。

「そんなんじゃ……ッ」

 そんなんじゃないのに――彼女の言葉を否定するそれが、最後まで言えない。それが意味するところなんてそう多くはなくて。
 なんとなく気付いてしまったかもしれない自分の気持ちから目を逸らすように、私は床を睨み続けることしかできなかった。
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