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第八章

第51話 本当に嫌か?

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 クラトスに指示されて、一度どこかに消えた壱政さんが私の牢に入って来た。彼の両手には大きな水瓶のようなものがあって、その中身が何かだなんて考えなくても分かった。
 だって、それを持って壱政さんが近付いてくると辺りに鉄臭さが漂ったから。
 床に座る私の胸と同じくらいの高さ。恐らくその中いっぱいに、血液が入っている。
 これをどうするんだろう。まさか飲めとは言わないよね? 得体の知れない血を口にすると考えただけで喉に酸っぱいものが込み上げた。
 咄嗟に手で口を覆って、クラトスに視線を移す。彼は私が見ていることに気付くと安心させるように微笑んだけれど、その優しさがなんだか恐ろしかった。

「この方法は邪道だ」

 クラトスが優しい口調で話し出す。

「通常、種子は植えた親にしか発芽させられない。だがとても簡単な方法で親以外でも発芽させることができる。それなのにこれを知る者が少ないのは、多少なりともリスクがあるからだ」

 水瓶を置き終わったのに、何故か壱政さんは私の隣から離れない。気絶させられた時に見た一面のせいで少し居心地が悪かったけれど、明らかに気まずそうにする私をクラトスも気にしていないようだからまだ何か用があるのだろう。となれば壱政さんが私の近くから離れてくれるのは今じゃない。
 なら今は、クラトスの話を聞かなきゃならない。

「一つは親子関係の問題だ。自分が種子を与えた子なのに、他の者に発芽させられたとなれば面倒事の原因になる。今よりもこの方法を知る者が多かった頃はそれで諍いが絶えなかった。そして二つ目の問題は――」

 急にクラトスの視線が強くなって、私は自分の身体が強張るのを感じた。睨まれているわけではないけれど、その目を見ているだけで緊張感に身を包まれる。紫眼にすらなっていないのに、やはり長い年月を生きている人はそれだけで威圧感を持つのだろうか。
 知らず識らずのうちにゴクリと喉を鳴らしたところで、クラトスが話を再開した。

「――無理矢理種子を起こすことになるせいで、吸血鬼として目覚めた直後の安定性に欠ける」
「安定性……?」
「何、大したことじゃない。ほんの少しの間強い食欲に支配されるだけだ。腹を満たしてやればじき落ち着く」
「それって……」

 なんとなく嫌な予感がして、さっき壱政さんが置いた水瓶を見る。するとクラトスは私が理解したのが分かったのか、「そういうことだ」と満足そうに頷いた。

「君はここにいる誰よりも序列が高くなる。可哀想だが我々の安全のためにも、落ち着くまでは牢で過ごしてもらわなければならない」

 やっぱりあの水瓶の中の血はそういうことなのだ。食欲に支配されるというのが具体的にはどういうことかはよく分からないけれど、誰彼構わず襲いかかってしまう危険があるのだろう。だから私は落ち着くまで牢の中にいなければならない。この中であの水瓶の血を飲んで、空腹を満たさなければならない。
 それは理解できたものの、この牢は吸血鬼に対して何の意味があるんだろうか。前から思っていたのだけれど、吸血鬼は影と呼ばれる黒い火のようなものになれるのに、こんな隙間だらけの牢なんて簡単に抜け出せるから意味なんてないはずだ。

「この牢屋は意味あるの? その……影ってやつになっちゃえば簡単に抜け出せない……?」
「吸血鬼の動きを制限するための物だ。当然腕力ではどうにもならないほど強固な上、見た目には分からないが、この鉄の中には外界で太陽光を吸わせた炎輝石が混ぜ込まれている。影となって触れてしまえば命を落としかねない」
「なんで……?」
「体内に太陽光を取り入れるようなものだ。影の状態で触れれば炎輝石の欠片が一瞬にして全身に広まり、取り込んだ量が多ければ死に至る。死を免れたとしても、炎輝石が身体から抜けるまでは耐え難い苦痛が長期間続くことになる。だから決して影となって牢を抜けようとは思わないようにしてくれ」
「でも食欲に支配されるんでしょ? 無意識に出ようとしちゃわないの?」
「それは心配いらない。目の前に食糧がある限りはそこから動かないし、吸血鬼化した直後は身体が影となる感覚を知らない。知らなければ、理性が働いていない状態で影となろうとすることはない」

 なるほど、私にとってこの牢は普通の牢として作用するのか。ただ迂闊に影になろうとしちゃいけないというのは早めに知れてよかった。どうやってああなるのかは分からないけれど、知らずにやって呆気なく死んじゃいました、じゃあ笑い話にもならない。

「他の問題は?」
「今言った二つだけだ。簡単だろう?」

 クラトスはそう言うけれど、本当に簡単なのかどうかは怪しい。だって今言った二つのリスクはそこまで忌避されるようなものなのか私には判断がつかない。
 確かに吸血鬼同士の諍いは良くないだろう。けれど、食欲に支配されると言うのは?
 クラトスの話を聞いている限り、それはこうして牢屋に入れることで対処できるようだから大した問題ではないはずだ。この方法を知る人がほとんどいなくなってしまうほどの大事おおごととは思えなかった。

「腑に落ちない、という顔をしているな。君が吸血鬼というものをどういうふうに考えているかは分からないが、私達は自分の子に対しては意外と独占欲といったものが強い。横から誰かに手を出されるのは時に殺し合いになるほど腹立たしい」
「……なら尚更いいの? そういう話なら、私を吸血鬼にしたら貴方がスヴァインに恨まれると思うけど」
「君は何故死にそうになっている?」
「え……?」
「種子の侵食がかなり進んでいるのは明らかだ。今はまだ動けるようだが、もうすぐ君の身体は衰弱し、死に向かって枯れていくだけになるだろう。それなのに君を助けようとしない奴が、それほど君自身に執着しているとは思えない。ノエを使って君を守るのには何か理由があるのだとしても、それは自分の子としての想いとは別だろうな」
「それ、は……」

 スヴァインが私をどうでもいいと思っていることくらい、私は痛いほど身に染みている。もしかしたらどうでもいい振りかもしれないとは言われたけれど、確証もないのにそんなことすぐに百パーセント信じられるはずもない。

「心当たりがありそうだな。なら大丈夫だろう、君の種子を発芽させたところでスヴァインの恨みは買わない」

 知らないうちに口をきゅっと結んで俯いていた。
 私にとってもスヴァインはどうでもいい相手のはずだ。私の両親を殺して、私を何年も騙していた人だから。むしろ憎くてたまらない相手のはずなんだ。
 でも、よく分からないんだ。
 ノエの話では、私にかけられていたスヴァインへの認識に関する催眠はもう完全に解けているはずなのに、私の中のお父さんの記憶は変わっていなかった。あれはてっきり本当のお父さんとの記憶をスヴァインとのものにすり替えられたのだと思っていたのに、ならどうしてお父さんを思い出そうとすると私の頭を撫でるスヴァインの顔が浮かぶのかが分からない。

 私がお父さんだと思って接していたのは、間違いなくスヴァインだったのかもしれない。

 それなのに、彼は私に利用価値は見出しても子としては何とも思っていない。そう言われてしまうと、胸が奥から抉られるような感覚を覚える。
 ああ、でも。ノエがスヴァインの仲間で私を騙していたのなら、催眠が解けたって話も嘘かもしれないな。なんて、ここで考えても仕方がないけれど。

「何を考えている?」
「……別に」
「つらい気持ちを抱いているならちょうどいい。食欲によって支配されている間は、良くも悪くも何も考えなくて済む」

 まるで麻薬だ――クラトスの話を聞いていると、そう思わずにはいられない。
 実際の麻薬がどういうものなのかは分からないけれど、クラトスの言葉は耳触りが良くて、胸の奥に巣食う苦しさから私を逃してくれる。信じない方がいいと分かっているのに、ついついその言葉に身を委ねたくなる。

「ただ楽になる前に、一つだけ我慢しなければならない。それがどれほどのものか私にはもう思い出せないが、人間の感覚には厳しいものだろう」
「……何をしなきゃいけないの?」
「君の中の種子を発芽させる」

 そう言って、クラトスは爪で自分の腕を切り裂いた。

「吸血鬼の血を飲むこと――それが、親の手を借りず種子を発芽させる方法だ」

 ぽたぽたと血の滴る腕を、クラトスが檻の隙間から差し入れる。私はといえばそんな傷口を見ることも、ましてやそれを飲むと考えるのも嫌で慌てて目を逸らした。

「早くしなさい。傷が塞がってしまう」
「でも……こんなの……!」
「壱政」
「何をッ……――!?」

 ずっと隣にいた壱政さんが、私の頭を掴んでクラトスの腕に付けた。咄嗟に口を噤んだけれど、僅かに唇に触れてしまったらしく口の中にほんのりと血の味が広がる。
 嫌だ、気持ち悪い。他人の血なんて口にしたくない――そう思って耐えていると、クラトスが壱政さんに「もういい」と言うのが聞こえて、同時に頭が解放された。

「本当に嫌か?」

 嫌に決まっているだろうと思ってクラトスを睨めば、薄い笑みを浮かべた顔が目に入る。
 なんでそんな顔をしているのか分からなくて戸惑っていると、頭の中が熱を持つのを感じた。この感覚は、知らないはずがない。

 私の中の種子が、何かしようとしている。
 でも死にかけているわけでもないのに、一体何を――考えようとしているのに頭が上手く回らない。それなのにクラトスを睨んでいた私の視線は、吸い込まれるように彼の腕へと落ちていってしまう。
 その赤を食い入るように私の目は見つめて、そこから目が離せなくなればなるほど、頭の中が熱くなっていって。

「本来吸血鬼にとって一番魅力的なのは人間の血液ではない、同じ吸血鬼の血液だ。しかし自分と同等以下の序列のものでないと毒になる上、本能によって共食い自体が忌避される。だからそれを自覚する者は滅多に現れない。まあ、これは本能というより刷り込みと言うべきだと私は考えているが」

 クラトスの言葉が、どこか遠くに聞こえる。

「どちらにせよ、種子持ちには吸血鬼としてのあらゆる本能が芽生えていない。そしてその体内にある種子は飢えている。普段は種子自体が眠っている状態だから影響は出ないが、一度宿主を通してその味を知ってしまえば種子は目覚める。もっと吸血鬼の血を寄越せと、宿主の身体を支配し欲を満たそうとする。それなのに本来その欲求を制御してくれる本能は種子持ち――君にはない」

 もう、何も考えられなくなっていた。
 頭の中から広がった熱は全身を包み込んでいて、クラトスの腕から滴るものしか目に入らない。

「存分に味わうといい。私と君の種子の序列は二つしか違わないから、すぐに種子が自力で発芽するだけの栄養が摂れるはずだ」

 嫌なのに――微かにそう思ったのを最後に、口の中いっぱいに血の味が広がるのが分かった。
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