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第一章
第1話 ないないない、有り得ない
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『死ぬってなあに?』
頭の中で幼い声が問いかける。
それはきっと多くの子供が抱くであろう疑問。この問いに対する答えは大体決まっている。そう、例えば。
『お星さまになるってことだよ』
お星さまになって、空からあなたを見守るの。
多分そんな文章になるだろう。お星さまとは勿論夜空に浮かぶきらきらとしたあれのことだ。
浮かぶというのとは違うぞとか、今見えている星も実はもう存在しないかもしれないとか、そんな現実的なんだかセンチメンタルなんだかよく分からないことはどうでもいい。
要はなんか、人は死んだら手の届かない綺麗なものになるって言いたいんだ。
でも実際、人は死んでもそんな綺麗なものにはならない。
魂っていう存在自体が不確かなものは一旦置いといて、肉体は死後ゆるやかに腐敗しこの世から消えていく。
ここ、日本なら基本的に火葬。海外なら土葬。鳥葬や水葬もある。全てに共通しているのは消えるための過程があって、実際に消えるには途方も無い時間がかかるということ。火葬で残った骨は骨壷に入れられちゃうし、土葬も棺桶にインするから中々自然に還らない。消えると言ってもそうそう消えないのだ。
人は死んでも、存在が完全に消えるまでには相当な時間がかかる。
だから、そう。一瞬で消えるとかまず有り得ない。ましてや人体が煙みたいになるとか、もっと有り得ない。
だから今私の目の前で起こっていることは現実じゃないんだ。
「――……だったら何」
まるで煙草の煙をそのまま真っ黒くしたような、不思議な靄。夜道を照らす僅かな街頭の光を飲み込むように、闇がそのまま漂うように。
しばらくの間そこに留まって、けれど時間が経つとともに空気に溶けて消えていった。
ちょっと冷静になろう。冷静なつもりだけど、きっと冷静じゃない。
まずは今日。今日という一日はいつもどおりだった。いつもどおり学校に行って、放課後は塾に行って。二十二時に終わって、お母さんに今から帰るよと連絡した。うん、いつもどおり。
ただいつもと違ったのは物凄く私のお腹が空いていたということ。
家に帰れば夕ご飯があるのだけど、そこまで普通に帰ったらもちそうもなくて、だから珍しくショートカットしたんだ。
人通りが少ないから、あまり通らないでってお母さんに言われている道。人がやっとすれ違えるくらいの道幅で、結構長い道のはずなのに確かに人の気配は全くと言っていいほどない。街灯もこころなしか他よりも暗い気がして不気味だった。
なんでこんなところ通ろうとしちゃったかなぁと一瞬足が止まったものの、ぐうと鳴るお腹が私の背中を押す。初めて通るわけじゃないし、と自分を鼓舞しながら前に出した足を意識的に早く動かして、私は家路を急いでいた。
――そうしたら、男が現れた。
ひと目見て、なんかおかしいなと思った。ぎょろりとした目は遠目でもきっと血走っているんだろうと思えて、今まで実際に見たことはないけれどやばい薬でもやっていそうな雰囲気。
黒ずくめの服装は、薄暗い夜道で男の零れ落ちそうな目玉だけがぼんやり浮いているような錯覚を抱かせる。
あの人は駄目だ。
近付いてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴り響く。けれど狭い道を進むには男のすぐ脇を通らなきゃならない。少し考えたけれど、そんな勇気は私にはなかった。
だからくるりと踵を返して来た道を戻ろうとしたのに、何故か振り返った先にも同じ男がいて。
『は……!?』
もう一度後ろを見たら、今度はいない。じゃあ何か、あの一瞬で移動したっていうのか?
そんなの有り得ない。私が男の脇を通らないと先に進めないように、男だって私を追い越すにはすぐ横を通らなきゃいけない。いくら暗いからって気付かないわけがない。
どうやったら今の状況に説明がつくのか、必死に考えている時だった。
『痛ッ――!?』
首元に鋭い痛み。鼻腔を抉る、血なまぐさい臭い。
臭いは私の顔の横にあるものから発せられているのだとすぐに分かった。頭だ。私のものじゃない――男の頭が、私の顔の横にある。
自分が噛まれているのだと気付くのにそう時間はかからなかった。気付いた瞬間、私は両腕を目一杯前に突き出して。
その手は何故か、空を切った。
『ぐぁッ……!?』
押し返そうとした男は、既に私から飛び退いていた。喉を両手で押さえ、呻き声を上げながら。
『お前……シュシ持ちか……!?』
シュシ、趣旨、種子。日本語だけど漢字変換できなくて、私はただただ男を見ることしかできなかった。
『くそっ……誰の……くそぉおおぉおおお!!』
なんだかとても悔しそうに。断末魔のような雄叫びを上げたかと思うと、男の身体はぶわっと散った。
そう、散ったのだ。けれど血は出なくて、代わりに黒い煙のようなものが漂っていて。
――その煙が、たった今消えた。
「ないないない、有り得ない」
男がいた痕跡はもう、どこにも見当たらなかった。つまり今までのことは夢なのだ。もしくは幽霊かもしれない。いや幽霊も怖いけど、あれが現実って言われるよりはずっといい。
だって、そうじゃない?
あの男は死んだ。私に噛み付いて死んだのだ。なんでか分からないけれどその確信だけはある。
そして多分、男にとって死ぬことは想定外だったのだろう。ということは私の何かのせいで男が死んだかもしれないってことで。それはつまり私が――。
「私のせいじゃ、ない!」
浮かんだ答えを振り払うように、私は一目散に家へと走った。
§ § §
あれから三日が経った。夢だと思いたかったけれど、首元のちりちりとした痛みがそれを否定していた。
だから家に帰った直後はご飯なんて食べる気になれなくて、夢であの光景を見ては夜中に目を覚まして。私のせいじゃないと分かっているのに、ついついニュースは食い入るように観てしまう。あの男が死体で発見されるんじゃないかって。
見つかったところで私のせいにはならないのだろうけれど、でも実は私が何かしちゃったんじゃないかって、答えが分からないからこそどんどん悪い方に考えてしまう。
でも、何事もなく時間が流れていった。
ニュースであの場所が報じられることもなく、夜道であの男に出会うこともなく。いつもどおりの日常。
いつもどおり起きて、いつもどおりお母さんの作った朝食を食べる。今日のオムレツはチーズ入り。好きなやつだ。
「――ほたるは今日、塾ないのよね?」
私がお箸を手にとろとろチーズに苦戦していると、お母さんがフォークを差し出しながら聞いてきた。
「うん、ないよ?」
もらったフォークでチーズごと卵を掬う。多分これ、お母さん渡す食器間違えたな。まあよくあることなのでわざわざ文句は言わない。
「お母さん、今日職場の送別会があるんだけどさ。仲良くしてもらった人だから多分終電になると思うの」
「いいよいいよ、楽しんどいで。なんなら朝帰りでもいいんだよ」
「もう! お母さんにはお父さんがいますー」
あ、やば。そう思った時にはもう遅い。お母さんの一人ノロケ大会が始まる。
私のお父さんは忙しく海外を飛び回っているらしく、滅多に家に帰ってこない。最後に帰ってきたのは何年前だったかな。顔もおぼろげなんだけど、お母さんにとっては愛する夫。普通の家庭と違って会う頻度が極端に少ないからか、記憶の中の両親はいつもいちゃついていた。
私もいつか、ああいう相手が見つかるのだろうか。流石に両親みたく常にちゅっちゅちゅっちゅしていたくはないけれども、長い期間離れていてもお互い愛し……(失礼、恥ずかしい)、お互いが想い合える関係というのは、とても素晴らしいものだと思うのだ。
「ところでほたる、今日は学校始まるの遅いの?」
「え? ……あぁぁあぁあああああ!!」
お母さんに言われて時計を見ると、とっくに家を出る時間を過ぎていた。おかしいな、だったらもう少しお母さんも急かしてくれたっていいと思うんだけど。
私は「なんで言ってくれないかなぁ!?」と叫びながら、大急ぎで玄関から飛び出した。
§ § §
「――……疲れた」
全然いつもどおりじゃない。どっと押し寄せた疲れに、私は帰宅するなりソファに倒れ込んだ。
よりにもよって今日の一限は体育。遅刻を許さない生徒指導担当の体育教師は私を見るなり校庭十周を申し付けた。ちなみに私の通う高校の校庭は一周四〇〇メートル。ペナルティどころかこれをこなしていたら下手すれば授業が終わるレベル。
でも相手は私が元陸上部だって知っているから、二十分で終わらせろだなんて鬼のようなことを仰る。そんなの学校まで全力で走ってきた人に言うことじゃない。現役ならまだしも、私は一年前に退部していて最近はそこそこ運動不足。
なんて不満を訴えても距離は減らず、それどころかその抗議の時間すら二十分に含まれていたようで、私はひいひい言いながら走り切るのがやっとだった。
一日の始まりがそんなだったものだから、この日は散々。疲れ切った身体は睡眠を欲し、二限以降の授業はこっくりこっくり、時々怒声。怒られるだけではなく、目を付けられてやたらと当てられる。眠気と緊張感と恥ずかしさとなんかもうその他諸々が相まって、本日はとても疲れました。
それでもこのまま寝たらいかんとソファに別れを告げて、なんとかシャワーを浴びる。寝るならベッドで寝たいけれど、これでも綺麗好きなのでね。たとえ今日体育がなかったとしても、外から帰った身体のままお布団に入るのには抵抗があるのですよ。お布団には常に真摯に向き合わねばならない、これ快眠の秘訣。
勿論髪が濡れたままなんてのももってのほかだから、ちゃんと乾かしてから部屋に向かう。お気に入りのパジャマを着て寝る準備は完了。お腹が空いたけれど、一旦寝てからにしよう。なんか疲れすぎて食べるのも面倒臭い。
「あー……もう無理ぃ……」
ぽすん、ベッドに沈む。嗚呼、お布団。素晴らしきかなこの包容力。
どろどろに疲れ切った身体はお布団に溶けるように、私の意識もまた眠りの世界へと誘われる。
そんな私を現実に引き戻したのは、急に襲った息苦しさだった。
頭の中で幼い声が問いかける。
それはきっと多くの子供が抱くであろう疑問。この問いに対する答えは大体決まっている。そう、例えば。
『お星さまになるってことだよ』
お星さまになって、空からあなたを見守るの。
多分そんな文章になるだろう。お星さまとは勿論夜空に浮かぶきらきらとしたあれのことだ。
浮かぶというのとは違うぞとか、今見えている星も実はもう存在しないかもしれないとか、そんな現実的なんだかセンチメンタルなんだかよく分からないことはどうでもいい。
要はなんか、人は死んだら手の届かない綺麗なものになるって言いたいんだ。
でも実際、人は死んでもそんな綺麗なものにはならない。
魂っていう存在自体が不確かなものは一旦置いといて、肉体は死後ゆるやかに腐敗しこの世から消えていく。
ここ、日本なら基本的に火葬。海外なら土葬。鳥葬や水葬もある。全てに共通しているのは消えるための過程があって、実際に消えるには途方も無い時間がかかるということ。火葬で残った骨は骨壷に入れられちゃうし、土葬も棺桶にインするから中々自然に還らない。消えると言ってもそうそう消えないのだ。
人は死んでも、存在が完全に消えるまでには相当な時間がかかる。
だから、そう。一瞬で消えるとかまず有り得ない。ましてや人体が煙みたいになるとか、もっと有り得ない。
だから今私の目の前で起こっていることは現実じゃないんだ。
「――……だったら何」
まるで煙草の煙をそのまま真っ黒くしたような、不思議な靄。夜道を照らす僅かな街頭の光を飲み込むように、闇がそのまま漂うように。
しばらくの間そこに留まって、けれど時間が経つとともに空気に溶けて消えていった。
ちょっと冷静になろう。冷静なつもりだけど、きっと冷静じゃない。
まずは今日。今日という一日はいつもどおりだった。いつもどおり学校に行って、放課後は塾に行って。二十二時に終わって、お母さんに今から帰るよと連絡した。うん、いつもどおり。
ただいつもと違ったのは物凄く私のお腹が空いていたということ。
家に帰れば夕ご飯があるのだけど、そこまで普通に帰ったらもちそうもなくて、だから珍しくショートカットしたんだ。
人通りが少ないから、あまり通らないでってお母さんに言われている道。人がやっとすれ違えるくらいの道幅で、結構長い道のはずなのに確かに人の気配は全くと言っていいほどない。街灯もこころなしか他よりも暗い気がして不気味だった。
なんでこんなところ通ろうとしちゃったかなぁと一瞬足が止まったものの、ぐうと鳴るお腹が私の背中を押す。初めて通るわけじゃないし、と自分を鼓舞しながら前に出した足を意識的に早く動かして、私は家路を急いでいた。
――そうしたら、男が現れた。
ひと目見て、なんかおかしいなと思った。ぎょろりとした目は遠目でもきっと血走っているんだろうと思えて、今まで実際に見たことはないけれどやばい薬でもやっていそうな雰囲気。
黒ずくめの服装は、薄暗い夜道で男の零れ落ちそうな目玉だけがぼんやり浮いているような錯覚を抱かせる。
あの人は駄目だ。
近付いてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴り響く。けれど狭い道を進むには男のすぐ脇を通らなきゃならない。少し考えたけれど、そんな勇気は私にはなかった。
だからくるりと踵を返して来た道を戻ろうとしたのに、何故か振り返った先にも同じ男がいて。
『は……!?』
もう一度後ろを見たら、今度はいない。じゃあ何か、あの一瞬で移動したっていうのか?
そんなの有り得ない。私が男の脇を通らないと先に進めないように、男だって私を追い越すにはすぐ横を通らなきゃいけない。いくら暗いからって気付かないわけがない。
どうやったら今の状況に説明がつくのか、必死に考えている時だった。
『痛ッ――!?』
首元に鋭い痛み。鼻腔を抉る、血なまぐさい臭い。
臭いは私の顔の横にあるものから発せられているのだとすぐに分かった。頭だ。私のものじゃない――男の頭が、私の顔の横にある。
自分が噛まれているのだと気付くのにそう時間はかからなかった。気付いた瞬間、私は両腕を目一杯前に突き出して。
その手は何故か、空を切った。
『ぐぁッ……!?』
押し返そうとした男は、既に私から飛び退いていた。喉を両手で押さえ、呻き声を上げながら。
『お前……シュシ持ちか……!?』
シュシ、趣旨、種子。日本語だけど漢字変換できなくて、私はただただ男を見ることしかできなかった。
『くそっ……誰の……くそぉおおぉおおお!!』
なんだかとても悔しそうに。断末魔のような雄叫びを上げたかと思うと、男の身体はぶわっと散った。
そう、散ったのだ。けれど血は出なくて、代わりに黒い煙のようなものが漂っていて。
――その煙が、たった今消えた。
「ないないない、有り得ない」
男がいた痕跡はもう、どこにも見当たらなかった。つまり今までのことは夢なのだ。もしくは幽霊かもしれない。いや幽霊も怖いけど、あれが現実って言われるよりはずっといい。
だって、そうじゃない?
あの男は死んだ。私に噛み付いて死んだのだ。なんでか分からないけれどその確信だけはある。
そして多分、男にとって死ぬことは想定外だったのだろう。ということは私の何かのせいで男が死んだかもしれないってことで。それはつまり私が――。
「私のせいじゃ、ない!」
浮かんだ答えを振り払うように、私は一目散に家へと走った。
§ § §
あれから三日が経った。夢だと思いたかったけれど、首元のちりちりとした痛みがそれを否定していた。
だから家に帰った直後はご飯なんて食べる気になれなくて、夢であの光景を見ては夜中に目を覚まして。私のせいじゃないと分かっているのに、ついついニュースは食い入るように観てしまう。あの男が死体で発見されるんじゃないかって。
見つかったところで私のせいにはならないのだろうけれど、でも実は私が何かしちゃったんじゃないかって、答えが分からないからこそどんどん悪い方に考えてしまう。
でも、何事もなく時間が流れていった。
ニュースであの場所が報じられることもなく、夜道であの男に出会うこともなく。いつもどおりの日常。
いつもどおり起きて、いつもどおりお母さんの作った朝食を食べる。今日のオムレツはチーズ入り。好きなやつだ。
「――ほたるは今日、塾ないのよね?」
私がお箸を手にとろとろチーズに苦戦していると、お母さんがフォークを差し出しながら聞いてきた。
「うん、ないよ?」
もらったフォークでチーズごと卵を掬う。多分これ、お母さん渡す食器間違えたな。まあよくあることなのでわざわざ文句は言わない。
「お母さん、今日職場の送別会があるんだけどさ。仲良くしてもらった人だから多分終電になると思うの」
「いいよいいよ、楽しんどいで。なんなら朝帰りでもいいんだよ」
「もう! お母さんにはお父さんがいますー」
あ、やば。そう思った時にはもう遅い。お母さんの一人ノロケ大会が始まる。
私のお父さんは忙しく海外を飛び回っているらしく、滅多に家に帰ってこない。最後に帰ってきたのは何年前だったかな。顔もおぼろげなんだけど、お母さんにとっては愛する夫。普通の家庭と違って会う頻度が極端に少ないからか、記憶の中の両親はいつもいちゃついていた。
私もいつか、ああいう相手が見つかるのだろうか。流石に両親みたく常にちゅっちゅちゅっちゅしていたくはないけれども、長い期間離れていてもお互い愛し……(失礼、恥ずかしい)、お互いが想い合える関係というのは、とても素晴らしいものだと思うのだ。
「ところでほたる、今日は学校始まるの遅いの?」
「え? ……あぁぁあぁあああああ!!」
お母さんに言われて時計を見ると、とっくに家を出る時間を過ぎていた。おかしいな、だったらもう少しお母さんも急かしてくれたっていいと思うんだけど。
私は「なんで言ってくれないかなぁ!?」と叫びながら、大急ぎで玄関から飛び出した。
§ § §
「――……疲れた」
全然いつもどおりじゃない。どっと押し寄せた疲れに、私は帰宅するなりソファに倒れ込んだ。
よりにもよって今日の一限は体育。遅刻を許さない生徒指導担当の体育教師は私を見るなり校庭十周を申し付けた。ちなみに私の通う高校の校庭は一周四〇〇メートル。ペナルティどころかこれをこなしていたら下手すれば授業が終わるレベル。
でも相手は私が元陸上部だって知っているから、二十分で終わらせろだなんて鬼のようなことを仰る。そんなの学校まで全力で走ってきた人に言うことじゃない。現役ならまだしも、私は一年前に退部していて最近はそこそこ運動不足。
なんて不満を訴えても距離は減らず、それどころかその抗議の時間すら二十分に含まれていたようで、私はひいひい言いながら走り切るのがやっとだった。
一日の始まりがそんなだったものだから、この日は散々。疲れ切った身体は睡眠を欲し、二限以降の授業はこっくりこっくり、時々怒声。怒られるだけではなく、目を付けられてやたらと当てられる。眠気と緊張感と恥ずかしさとなんかもうその他諸々が相まって、本日はとても疲れました。
それでもこのまま寝たらいかんとソファに別れを告げて、なんとかシャワーを浴びる。寝るならベッドで寝たいけれど、これでも綺麗好きなのでね。たとえ今日体育がなかったとしても、外から帰った身体のままお布団に入るのには抵抗があるのですよ。お布団には常に真摯に向き合わねばならない、これ快眠の秘訣。
勿論髪が濡れたままなんてのももってのほかだから、ちゃんと乾かしてから部屋に向かう。お気に入りのパジャマを着て寝る準備は完了。お腹が空いたけれど、一旦寝てからにしよう。なんか疲れすぎて食べるのも面倒臭い。
「あー……もう無理ぃ……」
ぽすん、ベッドに沈む。嗚呼、お布団。素晴らしきかなこの包容力。
どろどろに疲れ切った身体はお布団に溶けるように、私の意識もまた眠りの世界へと誘われる。
そんな私を現実に引き戻したのは、急に襲った息苦しさだった。
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