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第9章「愚者の記憶」
175話
しおりを挟むエリザベータside
「ああああああああぁぁぁっ!!!」
彼の記憶が途切れた瞬間、私の口から絶叫が迸った。
喉奥から水雑巾を絞るように上げたその声は、茜色に染まりつつある空に響き渡る。
「何よ、これ…」
身体中を駆け巡る飼い慣らせない感情に堪らず頭を抱えた私は、深く俯き身を震わせる。
濁流の如く、理解し難い異常者の思考や奇行の数々を強制的に脳内へ流し込まれ、戸惑いと嫌悪感で気が狂いそうだった。
いや、いっそのこと狂ってしまいたい。
そう思ってしまうほどに、ここに眠っていた記憶は、私の理解を超えていた。
「…うっ…」
もう何も考えたくないのに、全てを忘れてしまいたいのに、無情にも頭の中では私の墓を暴く彼の姿がフラッシュバックする。
その常軌を逸した光景に、吐き気が込み上げてきた。
恐ろしくて、おぞましい。
彼のあんな姿、見たくなかった。知りたくなかった。
私の記憶の中の彼とでは、あまりにもかけ離れている。
300年前、どんなに冷たくあしらわれようとも、自分にも他人にも厳しく、あらゆる才を兼ね備えていた彼に、私は強い憧れと尊敬の念を抱いていた。
だが実際はどうだ。
自分の思い通りにならない度に、苛立って、当たり散らして、壊して、焼き払って、それら全ての責任を周りに押し付けて。まるで玩具を取り上げられて癇癪を起こす子供のようじゃないか。
いや、〝まるで〟なんかじゃない。
彼は子供だ。
善悪の区別がつかないまま大人になってしまった、残酷な子供。
だから何の悪意もなく、私の墓を無邪気に暴いてみせた。親に隠された玩具を躍起になって取り返す感覚で。
身体中を駆け巡る幾多の感情の中から、殺意に似た衝動が膨れ上がり、唇を噛む。
あんな醜くなった姿、誰にも見せたくはなかった。
モニカが守ってくれた人としての尊厳を、そしてその想いさえをも、彼はその悪意なき残虐性をもって踏み躙ったのだ。
だが彼はその事に気付いていない。気付いていないどころか、その行為を私が受け入れ喜ぶとさえ思っている。
的外れもいいところだ。
彼は何も理解していない。
知ろうともしていない。
そもそも、彼は私に興味なんてない。
彼の執着心の矛先は、彼が自分の中で勝手に作り上げたただの虚像だ。
自分の全てを受け入れてくれる私の姿をした別の何か。
そんな都合のいい何かに依存し、虚像と現実の区別ができなかった彼は、自分の理想に反していく私が許せなかったのだ。
こんなにも身勝手な話があるだろうか。
あの日、あの時。
泣いている私に花を差し出してくれた優しい人なんていなかった。
私の手を握り「頑張り屋さんだ」と言って笑いかけてくれた人なんて、最初からいなかった。
そこに居たのは、私に歪んだ理想を散々押し付け、勝手に失望していた身勝手な人。
これではまるでーーー
「ーーー私みたい?」
突然、頭上から声が降ってきた。
その声にハッと仰ぎ見れば、見覚えのある少女が1人、感情の読めない翡翠色の瞳で私を静かに見下ろしていた。
ノルデン人特有の白い肌に、腰まで伸びた真っ直ぐなプラチナブロンド髪、そして記憶に新しい純白のドレス。
木々の隙間から後光のように射し込む茜色の光が、それらを薔薇色に染め上げていた。
「お互いに理想を押し付け合って、そして失望し合って…」
目が合うと、少女は再び口を開く。冷たくて、淡々とした聞き覚えのある声音。
人形のように無表情だった少女は、少し間を置いてから皮肉めいた笑みを浮かべた。
「…あなた達って本当、身勝手な生き物ね。」
そう言う少女を見て、私は確信した。私はこの声を、この少女を知っている。
時折見るカモミール畑の夢に現れては、毎回のごとく不可解なことを言い残していく不思議な少女。
そして、その姿は紛れもなく、300年前の私だった。
「…貴女は一体…」
なぜ、夢の中の存在が現実に居るのか。どうしてそんな姿をしているのか。そもそもここは本当に現実なのだろうか。今の状況が何一つ分からない。もしかしたら私はまだ夢でも見ているのではーーー
「夢なんかじゃないわ。」
まるで私の考えを読んだかのように、少女は淡々と否定した。
おそらく、いや、きっと、少女は私の考えていることが分かるのだろう。その証拠に、少女は私の考えに同調するように頷いてみせた。
「…。」
ここが夢ではなく、現実の世界ならば尚更、少女がここに居るのはおかしい。
「おかしくないわよ。」
少女は視線を落とす。つられて私も視線を落とせば、そこにはカモミールの花が咲いていた。
「だって私は、ここに咲いている花だもの。」
伏せた視線が、釣り針に引っかかったように上を向く。そこには相変わらずの無表情。冗談や嘘を言っているようには見えないが、それ以上のことは分からない。
少女の顔をまじまじと見つめることしかできない私に、少女は呆れたように溜息を吐いた。
「300年前、あの人が咲かせたカモミールの花…って言えば分かるかしら?」
300年前。
ドクンと心臓が脈打った瞬間、先ほど流し込まれた記憶が脳裏に蘇り、思わず私は頭を抱えた。
「まだ分からない?じゃぁ、もっと教えて上げる。」
両膝をつき、こちらの顔を覗き込んだ少女は、弾むような声とは裏腹に、こちらを責めるような眼差しで睨んできた。
「私は、貴女のせいで永遠に咲き続ける呪いをかけられたカモミールよ。」
地を這うような低い声に息を呑む。少女から向けられた激しい敵意が、まざまざと伝わってきた。
「貴女が永遠を望んだから、私は300年も咲き続けているの。そこに咲いているだけの植物が、自我を持ってしまうくらい長い長い年月を。」
確かに私は枯れてしまった花を見て永遠を望んだ。だが所詮それはーーー
「子供の頃の戯言だから、今の自分に罪はないと?」
自分に全く非がない、とは思っていない。
けれど、結局は同じことであると思った私は、少女の言葉に押し黙る。すると、少女は苛立ったように双眸を眇めた。
「貴女っていっつもそう。都合が悪くなると、すぐに押し黙る。」
「…。」
「そうやって今回も過ぎ去るまで黙っているの?」
「…。」
「それとも、あの人の記憶を見たばっかりだからそれどころじゃない?」
「…。」
「私のことなんてどうでもいい?えぇ、そうよね。だって貴女は自分が1番可愛いもの。」
「…。」
「…あぁ、そうだわ。あの人の記憶を見て、どう思ったのかしら?」
「…。」
「やっと見せることが出来たんだし、感想ぐらい聞いてみたいわ。」
「…感想もなにも、わざわざ声に出さなくても貴女にはもう分かっているでしょ。」
こちらを煽るような口調に苛立ち、散々見飽きた顔を睨みつければ、少女は皮肉な形に口角引き上げた。それを見て、私は更に苛立ちを募らせる。その表情が、あまりにもあの人に似ていたから。
「あの人の記憶なんかを私に見せて、一体どういうつもりなの?」
あの人の魔力で咲いた存在ならば、この少女はあの人の一部のようなもの。きっと、あの人の為に動いている。
それに気付いた途端、目の前にいる少女が憎らしく思えた。
「私はただ知って欲しかっただけよ。」
「なにを…」
「貴女も加害者だってことを。」
少女の言葉に、カッと頭に血が昇る。
「加害者って何よ…全部あの人が勝手にやったことじゃない…!」
一度溢してしまった不満は、堰を切ったように溢れ出し、止まらなかった。
「確かに私はあの人の気持ちなんて、これぽっちも考えていなかった!でもっ、あれ以上どうしろって言うのよ!才能もない、魔力もない、唯一の取り柄が母親譲りの顔だけだった私が、いくら声を上げたとしても何も変わらないでしょ!?寧ろ、あの人の不興を買って寿命を縮めるのがオチだわ!だから私は、今の自分ができる最大限の努力をしていた!最善の選択肢を選んできた!それなのに…!」
「選んでない。」
鋭く飛んできた少女の冷たい一言に、私の口は塞がれる。
まるで頭に冷水をぶっかけられたように唖然とする私に、少女の言葉がトドメの如く飛んできた。
「貴女はただ周りが用意した選択肢を選んでいただけ。」
「ーーー」
「そんなの自分で選んだなんて言わないわ。」
「ーッ、」
300年前、血が滲むような努力をしていた光景が、頭の中で粉々に砕け散る。
身体からダラリと力が抜け、私は深く項垂れた。
少女との間に沈黙が流れる。その沈黙に、私はポツリと言葉を落とした。
「…じゃあ私はどうすれば良かったのよ。」
「さぁね。でも、こんな所で過去のことをグダグダ考えても仕方がないってことは、貴女でも分かっているはずよ。」
「…。」
「過去に戻ることも、やり直すことも出来ない。今の貴女に出来ることは、過去を受け入れて前に進むことだけ。」
「簡単に、言わないで。」
受け入れられない。許せない。許せるわけがない。あの人の記憶を見てからは、その気持ちは強まっている。
もし…もしも、あの記憶を、あの人を受け入れてしまったら、あの時の感じた怒りは何処に行く。
痛み、憎しみ、悲しみ、虚しさ…そしてモニカの気持ちは、何処に行ってしまうのだ。
「何処にも行かないわよ。」
ぴくりと肩が震える。
また、この少女は…
「受け入れられないなら背負っていくしかないわ。」
簡単に言って…
「それがどんなに重くても。」
綺麗事なんてもううんざりだ。人間の根っこは、そう簡単に変わらない。
「そうね。けれど貴方たち人間は様々な刺激を受けながら自己を完成させていく生き物なのよ。『自分は変われない』『出来損ないのまま』そうやって思い込んでいたら、いつまで経っても成長できないわ。」
それぐらい、貴女に言われなくても分かっている。全部、全部、本当は分かっている。自分も悪かったことだって、ちゃんと。
だから変わろうとした。あの人に会いに行った。話をしようとした。窓を割って外に出てきた。
けれど、その度に、彼の存在に打ちのめされた。
もう、立てない。
再び沈黙が訪れる。
しばらく無言が続いた後、少女が深いため息を溢した。
「…せっかく生まれ変わったのに、また貴女はここに骨を埋めるのね。」
呆れたような、失望したような、諦めてしまったような…少女はそんな力が抜けた声で話し始めた。
「300年前。ここで死んだあの人と侍女の亡骸は運ばれていったけど、貴女のことは人々の記憶から消えていたから、身元不明の死体を気味悪がって誰も連れて行かなかった。置き去りにされた貴女の身体は何年、何十年、何百年と誰にも見つかることなく腐敗していき、身体は淡い青色に染まり、その色が全身にまわると今度は徐々に膨れ上がって、その時から腐敗汁がーーー」
「やめて!!!」
悲鳴に近い叫び声を上げた私は、両耳を塞ぎながら深く俯いた。
自分の身体が、どのように朽ちていったのかなんて知りたくない。
全てを遠ざけようとする私の頭上から、何度目になるのか分からない少女のため息が降ってきた。
「貴女が今しようとしていることは、300年前と同じ最期を遂げるってことよ。」
嫌だ。
また同じように死ぬなんて。
私は死にたくない。
まだ生きていたい。
「どうして?」
どうしてって…どうしてなのだろう。
どうして私は、こんな苦しいことしかない世界でも、生きたいと思ってしまうのだろうか。
「それはきっと、世界が苦しいだけじゃないって知っているから。」
知っている?私が?
……。
…は?
…さっきから…いや、ずっと前から何なんだ。この花は。
「…植物風情が、知ったような口を利かないで。」
なにも知らないくせに、偉そうにして。
あの人と同じだ。
目の前にいる存在が酷く腹立たしくて、憎たらしい。早く消えて欲しい。
「エリザベータ。」
名前を呼ばれ、冷たい感触が両頬に触れた瞬間、私の顔が無理やりグイッっと上を向いた。
「ーっ、」
見開いた瞳に、少女の顔が目一杯に映り込む。鼻先が触れ合ってしまいそうなほど近くに、少女の顔があったのだ。
反射的に文句を言おうと開いた口は、少女の有無を言わせぬ真っ直ぐな瞳に怯み、情けなく閉じられた。
「私には、自我はあっても心はない。感情も言葉も所詮はあなた達の真似事。…これが、どういう意味なのか分かる?」
両頬に添えられた少女の手にぐっと力が入る。
戸惑う頭で少女が求める答えを考えてみるも、何一つ浮かばず、ただ少女の瞳を見つめることしかできない。そんな私に舌打ちをした少女は、あろうことか頭突きをしてきた。
「ーった、」
「最初から貴女の答えなんか期待したいないわ。」
「…それならどうして頭突きするのよ。」
初めから期待をしていないのであれば、不満をぶつけるようなマネをする必要はない。
傲慢な態度をする少女を、ゼロ距離で睨めば、少女は私から額と手を剥がし、そっぽを向いた。その仕草はまるで、どっかの誰かさんのよう。
少しムッとした私は、先程の少女と同じように彼女の頬を両手で挟み、無理やりこちらに向かせた。
「ちょっ、なに、」
不満の声を上げる少女の顔を見て、私は思わず息を呑む。
「なんて顔をしているの。」
その表情が、可哀想なほどに悲しげだったから。
少女は心がないと言っていたが、心のない花が、こんな人間臭い表情をするだろうか。
300年もの長い年月を過ごしているならば、心だって…
「私に心なんてない。言ったでしょ。所詮、真似事だって。」
またもや私の考えを読んできた少女は、間髪を入れずに否定してきた。その表情は、先程と打って変わって人形のように冷たい。
「でも…」
脳裏に浮かぶ夢の中の少女は、泣き出してしまいそうな震えた声で私に言ってきた。
私を見捨てないでって、私を助けてよって…
けれど少女は、首を小さく振ってそれを否定する。
「人の血液には様々な情報が刻まれているの。私はただ、あなた達の血液から情報を得て話しているだけ。」
「あなた、達…?」
「そう。私は、ここで死んでいったアルベルト様、侍女、エリザベータ。あなた達3人から自我をつくった。そして―――」
自身の頬に添えられた私の手を剥がした少女は、その手をぎゅっと握ってきた。
「大部分は、貴女の肉体からよ。」
私の目を見据える瞳に、呼吸が止まる。
少女の言葉をすぐに飲み込むことはできなかったが、私は時間をかけて少しづつ咀嚼していった。
私は少女を、あの人の一部だと思っていた。だから少女に対しても嫌悪感を覚えたし、少女自身もあの人の為に動いているものだと思っていた。
けれどそれは、私の思い違いだった。少女に対するこの気持ちはきっと…同族嫌悪のようなもの。あの人にそっくりな少女の表情や仕草、話し方など見ていると、自分の負の側面を見ているようで嫌だったのだ。
「私が、あの人の為に動いている訳がないでしょ。」
むすっと不機嫌そうに、少女は私を睨んでいた。
「あの人、私を咲かせたくせに「失せろ、亡霊。」って言うのよ。そのくせ今度は、貴女を隠して欲しいって言うし。ほんと、身勝手な生き物。」
「私を…隠す…?」
訝しげに眉を寄せると、少女はジトッとした目つきで私を見た後、私の背後に聳え立つ屋敷を見上げた。
「あの人に脅されて、私はずっとこの屋敷を外から見られないように隠していたの。」
以前、ここに訪れた時に屋敷がなかったのは、少女の力が働いていたからだったのか。驚きはするが、納得はできる。けれど、それよりも物騒な単語の方が気になった。
「脅されていたの?」
「そうよ。言うこときかなかったら燃やすって。」
その時のことを思い出したのか、少女は苦々しく吐き捨てるように言った。
それにしても『燃やす』なんて、あの人が言いそうなセリフだ。300年前からちっとも変わっていない。
心底呆れる頭に、新たな疑問が次々に浮かび始めた。
屋敷を隠す理由は何となくわかる。3階の毒だらけの温室を誰にも見せたくなかったのだろう。
だが私を隠す理由は?
そもそも、魔力保持者である彼が、わざわざ少女に頼むこと自体おかしい。自分でやればいいだけの話なのだから。それに彼の性格から考えてみても、他人に任せるとは思えない。
「自分でできないから、仕方なく私に頼んだの。」
「え」
彼ほどの魔力保持者ができない魔法なんてあるのだろうか。
もしくは、それほどまでに高度な魔法だったのか…
「もっと単純な理由よ。」
私から手を離した少女は、近くに咲いていた一輪のカモミールを摘み取り、こちらに差し出した。
「今のあの人が、魔力保持者じゃないから。」
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