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第8章「優しい拷問」
127話
しおりを挟む「…ご馳走様でした。」
静かな部屋に私の食後の挨拶だけが響く。
夕食を全て平らげて、空っぽになっている銀製のお皿を見て私はため息をついた。
「……。」
毎日せっせと食事や洗濯物を運んでいたユリウスが私の元に訪れなくなってから4日が過ぎた。
若草色のワンピースを燃やした、あの日以来、ユリウスは私の前に姿を見せない。
だが、食事はこうして毎日3食決まった時間にダイニングテーブルの上に現れる。仕組みは分からないが、きっとユリウスの魔法だろう。食事だけでなく、室内はもちろんのことベッドのシーツもいつの間にか綺麗になっているし、洗濯物もカゴに入れておけば次の日には新しい物が補充されている。
この通り、ユリウスが居なくても、特に生活に困ったことはない。相変わらずの最上級の衣食住だ。その上、私の平穏を常に脅かしていたユリウスが居ないのだ。ここに私を苦しめるものは何一つない。まさに天国。
それなのに…今の私は心身ともに、前にも増して疲弊していた。何故か何もしていないはずなのに、酷く疲れるのだ。そんな私の日中の過ごし方は、殆どソファーでぐったりと座っている。
どうして私は、こんなにも弱っているのだろう。
そういえば…昔、何かの書物で『人間は10日前後、誰とも会話をしないと気が狂う。』という記述を読んだことがある。その時の私は「そんな馬鹿な。」と鼻で笑っていたが……実際に自分が置かれている今の状況では笑えない。最上級の衣食住が充実しているというのに、たった4日でこんなにも憔悴しきっているのだから。
―…情けない…。
何故、ユリウスは私の前に姿を現さないのか。何処をどう考えても、原因は4日前の私の言動だろう。あの日の私は、感情の赴くままに暴言を吐き散らかし、暴力を奮った。思い出す度に喉を掻きむしりたいほどの後悔が込み上げてくる。どうして私はいつもいつも…と、この4日間は後悔と自己嫌悪を繰り返していた。
私はユリウスの機嫌を損ねてしまった。今までも彼の気分を害してはいたが、きっとあの日超えてはいけない一線を超えてしまったのだろう。
再びため息をつく。
一体いつまでこんな生活が続くのだろうか。
これから先も衣食住が保証される確証はどこにもない。もしかしたら明日から食事が止まってしまう可能性だって考えられる。
もし、本当にそうなってしまったら?外にも出られない今の状況で、彼からの支援が止まってしまったら?
誰でもわかる。
―――餓死するほか道はない。
「―うっ」
次から次へと不安が頭の中で膨らみ、ついに耐えられなくなってしまった私はダイニングテーブルに両肘をつき、頭を抱えた。
怖い。
ひたすらに怖い。
1人が堪らなく怖い。
「ユーリ…」
その名前を口に出したのは無意識だった。
だが、1度口にしてしまえば、その名前は堰を切ったように口からポロポロと零れてしまった。
「ユーリ、ユーリ、ユーリ、ユーリ…」
「はい。」
「ユー………え、」
突然、頭上から降ってきた声に驚いた私は顔を上げると、ここには居ないはずのユリウスが不思議そうに私を見下ろしていた。
「……あ…え…ユーリ…?」
私はポカンと口を開けたまま、震える指で彼を指さす。するとユリウスは「ん?」と首を傾げた。
「そうですけど…まさか、たった4日で僕の顔を忘れてしまったのですか?」
「………。」
「え、嘘ですよね?姉上。」
「………………。」
「姉上?」
ユリウスは左手をダイニングテーブルに付き、右手をこちらに伸ばす。
彼の指が私の頬に触れる寸前、はっと我に返った私は椅子から勢いよく立ち上がった。その勢いのあまり椅子がガタン!と音を立てて後方に倒れるが、今の私には気にならなかった。
「今まで何をしていたのよ。」
低く唸るような声でそう言いながら、テーブルの向かいに居るユリウスにつかつかと歩み寄る。だがユリウスは1歩、また1歩…と後退りしてしまうので、なかなか距離は縮まらない。
「…あ、あの…姉上?」
戸惑いにシトリンの瞳を揺らしながら、ユリウスはジリジリと後退る。だが、部屋の空間は無限ではない。直ぐに彼の背中は壁にぶつかった。はっと息を呑んだユリウスは、反射的に逃走を図ろうとするが、そんなことはお見通しだ。せっかく壁まで追い込んだのに、ここで逃がすつもりはない。
―ドンッ!!と壁を叩く鈍い音が部屋に響く。
「―っ、」
小さく声を上げたのは私ではなくユリウスだ。
私は両手を壁に付き、彼が逃げられないよう自身の腕の中に閉じ込めた。
私とユリウスの身長は殆ど変わらない為、少し顔を上げるだけで互いの吐息が絡むほどの距離にユリウスの顔がある。
「答えなさいよ。この4日間、どこで何をしていたのか。」
大きく目を見開いているユリウスを睨みつけながら、一言一言、しっかり、はっきり言葉を発する。
「…あの…その…姉上、ちか…近いです。…もう少し離れ…」
「そうやって誤魔化そうとしないで。」
「あ、いや…そういうつもりじゃ…」
「だったら、どういうつもりなのよ。」
「…えっと…」
視線をさまよわせ、いつになく吃るユリウスに苛立ちが募る。そんな私の苛立ちに気が付いたユリウスは控えめに質問してきた。
「…あの…どうしてそんなにも怒っているのですか?」
「どうして…どうしてですって…!?」
私の質問に答えず、逆に質問してきたユリウスにカチンときた。益々眼光が鋭くなる私に、ユリウスは慌てて口を開く。
「あ、昨日お出しした豚肉のトマト煮込み…美味しくなかったですか…?」
「…は?いや、お肉が口の中で蕩けるみたいで美味しかったけど!」
「では、やはりデザートのティラミスの方がお口に合いませんでしたか?すみません、初めて作ったもので……」
「ティラミスも甘さ控えめで美味しかったけど!…というか、あれって貴方の手料理だったの…!?」
ここにきて、とんでもない事実が発覚した。
―私には公爵家の者が炊事場に立つ必要なんてないとか言っていたくせに!
そんな私の心境など知るはずのないユリウスは「えぇ、まぁ…」などと言って照れたような表情をしている。その顔を見て、私は一気に脱力してしまった。
「…そうじゃ…なくて…」
私は壁に両手をついたまま俯く。
「私はただ……」
……ただ?
私はそこで口をつぐむ。
先程まで怒りで大荒れだった私の心は、唐突に惨めな気持ちで一杯になった。
つい数分前の自分は、酷く憔悴していた。たかが4日間、彼が私の元に訪れなかっただけで。だが、ユリウスは何も変わらない。
「……どうせ、私の気持ちなんて貴方には分からないわよ。」
神からの加護だといわれる青の魔力を持つ彼と、なんの力もない私とでは根本から違う。これ以上、彼から答えを求めようとすれば、自分が惨めな想いをしていくだ。
そもそも彼が外で何をしてようか、私には関係ない事だ。私の質問自体、無意味なこと。例え、彼が恋人であろう聖女との逢瀬を楽しんでいたとしても、私には関係ない。
そう、関係ないのだ。
「……。」
しばらく無言の間が続いたが、ユリウスは私の様子を伺いながら、ゆっくりと口を開いた。
「…寂しかったのですか?」
…寂しい…?
馬鹿なことを言わないで欲しい。私が感じていたものは恐怖だ。
彼の気まぐれで食事の提供が途絶えてしまえば、私は餓死してしまう。そんな死に対する怯え。だから、寂しいだなんて、そんな可愛いものではない。
可愛いものでは……
「……。」
何故、私の口からは否定の言葉が出てこないのだろう。
声に出して「違う。」というだけなのだ。決して難しいことではない。それなのに…。
…あぁ、そうだ。きっと、この非日常空間のせいで、頭がおかしくなっているのだ。こんなにも簡単なことが言えないのだから。
「…姉上、ストックホルム症候群という言葉をご存知ですか?」
当然、聞き覚えのない単語が聞こえてきた。私が口を開く前にユリウスは言葉を紡ぐ。
「誘拐や監禁などの被害者が、加害者に対して過度の好意的な感情を抱いてしまう現象です。」
ストックホルム症候群。
まさに私が置かれている状況と一致する。
彼の言う通り、私はその症候群に陥っているのかもしれない。
心の中に奇妙な安堵感がじんわりと広がる。
あぁ、きっとそうだ。そうでないと、全ての辻褄が合わなくなってしまう。寂しいだなんて、有り得ないのだから。
「…そう、理解しているのに…」
ポツリと独り言のように呟くユリウス。ふと顔を上げれば、
「喜んでしまっている僕は、本当にどうしようもないですね。」
そこには、自らを嘲るように力なく笑うユリウスが居た。
その姿があまりにも痛々しくて、目が離せなかった。
「…どうやら、気分転換が必要みたいですね。…僕も、貴女も。」
そう言ったユリウスの瞳が青の絵の具を滲ませたようにサファイアの瞳へと変わり、そして静かに煌めいた。
「えっ?」
壁と足枷が突然、淡い光に包まれた。
驚き、思わず1歩後ろに下がった次の瞬間、今まで右足首を戒めていた足枷がキィン…!と高い音を立てながら弾け飛んだ。
「―っ」
反射的に腕で顔を覆ったが、鎖の破片がこちらに飛んでくることはなかった。弾けた鎖は金色の粒子となりしばらく空中を舞った後、音もなくスゥーと空気に溶けんでしまった。
突然、自由になった私の足。だが、喜びよりも戸惑いの方が大きい。そして、いつの間にか足枷に慣れていた私は、右足が軽くなったことに違和感も感じていた。
唖然と自身の足を見下ろしている私にユリウスは手を差し伸べる。
「よろしければ、僕と一緒にお散歩でもいかがですか?」
そう言う彼の表情はいつになく不安げなものだった。そして、ユリウスの背後には先程まで無かったはずの扉が現れていた。足枷の方ばかりに気を取られていたが、あの扉も先程の魔法で作り出したのだろう。元々この部屋にあったものなのか、はたまた彼が今新しく作り出したものなのかは分からないが……。
私は差し出されたユリウスの手をじっと見つめる。
彼がアルベルト様だとわかる前までは、幾度となくこの手を取ってきた。なんの抵抗もなく。だってユリウスは私の義弟だったから。
だが、今は?
この手を取る理由は?
今まで私は彼の中途半端な優しさに絆されて、騙されてきた。だから、この手を取るべきではない。そう理性が私に訴える。
「……。」
だが、気付いた時には、私はユリウスの手のひらに自分の手を重ねていた。
どうして?と理性がまた私に訴える。
どうして…。
強いていえば、お散歩という言葉がとても魅力的に聞こえてきたから。
…いや、それも所詮は言い訳に過ぎないのかもしれない。
「…ありがとう、ございます。」
私の手をまるで割れ物かのように優しく握るユリウスの表情には安堵の中に何か別の感情が複雑に入り交じり、少し歪な微笑みだった。
その顔を見て、彼は近いうちに世界から消えてしまうかもしれない、そんな予感が脳裏を過った。
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