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第8章「優しい拷問」
126話
しおりを挟む静かな部屋に乾いた破裂音が響き渡る。
気付けば、私はユリウスの頬に平手打ちを放っていた。
ユリウスは軽くよろめき、チョコレートブラウニーが入ったテイクアウト用の箱を床に落とす。
「…あね…うえ…?」
打たれた頬を押さえながら顔を上げたユリウスの瞳は戸惑いに揺れていた。いつものシトリンの瞳。そんな彼を見て、カーッと身体中の血液が逆上し、頭がふつふつと沸騰していくのを覚えた。
私は眉を吊り上げ、感情の赴くままに叫ぶ。
「どうして燃やしたのよ…!!あれはビアンカが私に選んでくれたものなのよっ!?」
彼にとっては下品なワンピースでも、私にとってはビアンカが私に選んでくれた大切なワンピースなのだ。それなのに彼は燃やした!昔からそうだ。彼は私から大切なものを奪っていく。何度も何度も何度も…!!
ユリウスは私を底なしに甘やかして優しくしてから、絶望の淵に突き落とす。これが彼のやり口だ。この身をもって思い知っていたはずなのに、また彼の優しさに絆されて……あぁ…!彼に対してだけでなく自分にも怒りが湧いてくる。
「姉上、違います。あれは…」
「違わないわよ…!!」
謝る訳でもなく言い訳を始めようとするユリウスに、再び平手打ちを与えようと右手を振り落とそうとした。
だが、右手は中途半端な位置で止まってしまった。彼に右手首を掴まれてしまったのだ。
「くっ…」
咄嗟に振りほどこうとする私に、ユリウスは冷たく無機質な声を浴びせた。
「無駄ですよ。貴女は女性で僕は男。力の差は歴然です。」
「うるさい!」
彼の冷静な声音が癪に障る。
私は空いている左手を振り上げたが、呆気なくユリウスに手首を取られてしまい、両手の自由が利かなくなってしまった。
怒りで我を忘れている私の行動など、彼には手に取るようにわかるのだろう。
「貴女は本当に…昔から変わりませんね。自分の立場を全く分かろうとしない。」
ユリウスは呆れたように、何処か苛立ったかのように溜息を吐いた。
「なんの力も持たない、ただのお嬢様である貴女の生死を握っているのは僕なんですよ?その気になればいつだって僕は貴女を殺せます。」
私の手首を握る彼の手にぐっと力がこもり、私は小さく悲鳴を上げた。そんな私を見て「ほらね。」とユリウスは薄ら笑いを浮かべる。
「貴女は僕を怒らせないよう、媚びを売っておけばいいんですよ。」
その言葉に憤怒に狂気めいた殺気が宿り、考えるよりも先に身体が勝手に動いた。私は上体を後方に反らし、彼の額目掛けて強烈な頭突きをお見舞した。
「―っ」
ゴンッ!!と鈍い音が頭の中に響き、目の前に火花が散る。だが不思議と痛みは感じなかった。
「うっ」
頭突きの衝撃で私の手首から彼の手が剥がれた。
ユリウスは額を押さえ、後方によろめく。私はふらついているユリウスの胸ぐらを両手で掴み、乱暴に引き寄せた。
「変わっていないのは貴方の方でしょ!この似非紳士っ!!!」
ぐっと彼に顔を近づけ、鼓膜が破けるほどの大声で私は怒鳴りつけた。見開かれた彼のシトリンの瞳に写る私の目は血走っている。
「気に入らないことがある度にそうやって威圧的な態度で相手を黙らせて、自分の思い通りにしようとして…!一体何様のつもりなの!?今の貴方は昔と違って、私をどうこうできる立場じゃないでしょ…!?」
次から次へと支離滅裂な言葉が勝手に口から飛び出す。
私の頭は怒りで熱く燃え滾り、完全に理性が焼き切れていた。
「それにっ貴方は私に自分の立場を分かっていないと言うけれど、何も説明されていないこの状態でどう理解しろというのよっ!なんで貴方はいっつも自分勝手なの?!大切なことは言ってくれなくて、はぐらかして、怒ってばっかで、私をこんな所に閉じ込めて…!!話しても私が理解できないと思った?馬鹿にしないで…!!」
怒りと憎しみと、悔しさで目尻に涙が滲む。私は思いっきり息を吸い込み、下腹部に力を込めた。
「私は!貴方に媚びを売って生き長らえたいと思うほど、この世界に執着してないわよっ!!!」
「…。」
「こんな、ただ苦しいだけの世界も、私を苦しめる貴方も、頭のおかしい聖女も…!みんな!みんな…大っ嫌いっ!!!」
「……。」
私の声を最後に再び静寂が訪れる。聞こえてくるのは私の荒い息遣いだけ。
長い長い重苦しい沈黙。
永遠に続くのではないかと思った沈黙を先に破ったのはユリウスの方だった。
「…姉上…」
何かに縋るような声で私を呼ぶ。その声に一瞬肩を震わせたが、私は彼の身体を突き飛ばし、鋭く睨みつけた。
「…。」
互いの視線が交じり合う。だがユリウスは何かを考え込むかのように視線を伏せた。
「…この世界は未完成です。」
「…………は?」
急に何を言い出すかと思えば…。どうやらこの男は謝罪する気がないらしい。それどころか自分には何も落ち度はないと思っている。
一瞬、呆気に取られたが、再びふつふつと怒りが湧いてくる。
この男はまた変なことを言って誤魔化すつもりなのだ…!!
「いい加減に…っ」
「姉上。」
私の言葉を遮ったユリウスは、視線を上げて私をじっと見据えた。その静かな瞳からは感情を読み取ることが出来ない。
「もう少しなんです。もう少しで貴女の望む世界に変わりますから。」
「…何を…言っているの…?」
意味がわからず怪訝な顔つきになる。そんな私にユリウスはゆるりと微笑んだ。
「だから…もう少しだけ待っていて下さい。」
最後にそう言ってユリウスは姿を消した。青い粒子が空気を舞い、すうっと空気に溶けていく。
「……。」
頭の中にユリウスが最後に放った言葉が木霊する。
「どういう意味なの…?」
私の問いに答える者は誰もいない。
ただ、床に転がっているチョコレートブラウニーが入った箱だけが私を静かに見上げていた。
*****
次の日。
ユリウスは私の元に訪れることはなかった。
次の日も次の日も…ユリウスは私の前に現れることはなかった。
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