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第3章「後退」
49話
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嗅ぎなれない消毒の香りが鼻腔を擽る。そのツンとした独特の香りに刺激され、私は重い瞼を開いた。
「…?」
ぼんやりとした視界に入り込むのは、上等な白い天井。自分の部屋では無いことが明らかであるが、微睡みから覚めたばかりの頭ではそれを理解するまで時間がかかる。
「気が付いたかい?」
すぐ側から声が聞こえてきた。声がした方へ視線を向ければ、初老の男性が椅子に腰掛け、私を心配そうに見下ろしていた。
この顔は知っている。皇族のお抱えの医者、皇宮医だ。
この時、自分がベッドの上で寝ていたことに気付いた。
「…ここは?」
ベッドからむくりと起き上がりながら、今まで発したことのない、しゃがれ声に驚いた。相当、喉がイカれているようだ。
「ここは、皇宮の医務室だよ。煙を多く吸い込み過ぎた君は、中庭で倒れていたんだ。」
ガンガン痛む頭を手で支える。
中庭…。その言葉に引っ張られるように思い出すのは、青い炎に焼かれる聖女の姿。
「…っ!」
思い出した。
そうだ、私は牢屋を飛び出して中庭に向かったんだ。そして、そこには炎に包まれる聖女と、それを見上げるアルベルトが…。
「せ、聖女マリーはどうなったんですか!?アル、陛下は…」
「静かに。聖女の名を口にしては、いけないよ。」
男の凄みのある声に、私は思わず押し黙る。その静かな威圧感に、ただならぬものを感じた。
「いいかい、聖女は初めから居なかったんだ。」
「…は、はぁ?」
―コイツは一体何を言ってんだ?
信じられないものを見るかのように、私は無言のまま男を見つめた。
「私たちは、悪い夢を見ていたんだよ。もう時期、この悪夢も私たちの中から完全に消える。それまで、君はここで大人しく寝ているんだ。」
「ま、待ってください。さっきから貴方は何を言って…分かるように説明して下さい。」
男が何を言っているのか、まるで理解ができない。理解できないのに、全身が嫌にざわめく。心臓は大きく鼓動を訴え、実際に耳にまで届いてしまいそうだった。
そんな私の様子を見た男は目を伏せ、静かに語り出す。
――そして、その言葉に耳を疑った。
男の話によると、アルベルトは、旅行から帰ってきた聖女を火刑台に縛り付けて、火を放ったそうだ。
その後、聖女の身体は、業火で滅却されたように骨一つ残さずに消滅され、それを確認したアルベルトは、皇宮に居る者にこう言った。
「聖女は初めから居なかった。この忌々しい記憶と歴史は消し去る。」と。
アルベルトはその言葉どおりに、自身の“青の魔力”を使い、ノルデン帝国全体に大規模な魔法をかけた。
魔法をかけられた帝国は、聖女の痕跡を完全に消滅させ、民衆は静かに聖女の記憶を失うという。
民衆から完全に聖女の記憶が消えれば、前と同じく聖女はおとぎ話の中の存在となるのだ。
そして、アルベルトは寝るまを惜しんで、傾いた財政の立て直しに尽力を注いでいる。
話し終えた男は水差しを取ってくると言って、傍を離れた。
一人残された私は、掛け布団を握り締める。
―ふざけるなっ!!!
心の底から湧き上がる憤怒の炎に、身体がわなわなと震え出す。私は怒りに目を見開き、唇をかみ締めた。
聖女の記憶を消す?初めから聖女は居なかった?
民衆を馬鹿にするのもいい加減にしろっ!
自分が聖女に惑わされたという事実を、便利な魔法を使って揉み消そうとしているだけじゃないか。
なんて、身勝手で不誠実な男なんだっ!!
今さら、正気に戻ったって遅いんだ!お嬢様はもうこの世に居ない。
そこで、ハッとする。
聖女の存在が消えれば、お嬢様の存在も消えてしまうのではないだろうか。
正気に戻ったアルベルトなら、お嬢様が冤罪だったことに気付いたはず。まさか、アルベルトはそのことも揉み消そとしているのでは?自分が聖女に言われるまま、無実のお嬢様を処刑してしまったという事実も全て、無かったことに…
怒りで目の前が真っ赤になる。許せない許せない許せない許せないっ!
アイツは邪魔者が消えた世界で、自分だけがのうのうと生きていくつもりなんだっ!!!
そんな奴、生かしておけない。
皇宮医は聖女のことを悪夢だと言っていたが、1番の悪夢はアルベルトがのうのうと生きていることだ!
私はすぐさまアルベルトを殺しに行こうとベッドから降り立つ。
「―あっ、」
そして、一歩も踏み出せないまま、その場に崩れ落ちた。
足に力が入らない。思い通りにならない自身の身体に舌打ちをする。
―くそっ!動け、動けよっ!
「何をやっているんだ!?」
水差しを持ってきた皇宮医が戻ってきてしまった。
皇宮医は床に倒れ込む私に駆け寄り、すぐさま身体を支える。
「安静にしていないと駄目じゃないか。」
そう言う男の目が淡く光り始めると、私の身体が中を浮き、そのままゆっくりとベッドの上へと戻された。
男は魔法を使ったのだと、遅れて気づく。
「君の身体は大量に煙を吸った上に、1週間も飲まず食わずだったせいで、もうボロボロなんだ。頼むから、大人しく寝ていてくれ。」
医者に厳しい声音でそう言われてしまったら、何も言い返せない。私は俯き、唇を噛んだ。
「今は色々と混乱していると思うけど、時期に陛下の魔法が効いてくるはずだ。そうすれば、もう大丈夫だよ。」
魔法が効くまで大人しく寝てろだって?冗談じゃない!
アルベルトの魔法が効いてしまえば、聖女の事を忘れてしまう!それだけでなく、お嬢様の事も、私が何のために皇宮に忍び込んだのか、その目的全てが…っ!
そんなのは駄目だ。
私しか居ないんだ。
お嬢様の無念を晴らせるのは、私しか…
黙り込む私に皇宮医は見当違いのとこを言ってくる。
「分かってくれたようで嬉しいよ、モニカ。」
「勘違いしてんじゃねーよ、ハゲ。」と言ってやりたかったが、皇宮医がしがない侍女である私の名前を知っていたことに驚いた。
「何で私の名前を…」
「あぁ、君は皇宮では有名人だからね。」
「有名人?」
…まさか、私がアルベルトを殺そうとしているのがバレたのだろうか。背中に嫌な汗が流れる。いや、バレているのなら私は今頃、冷たい牢屋の中だろう。
ふと、床に倒れ込むアルベルトを思い出す。
―そうだ!私はアルベルトに毒を盛ったことになっているんだった。
顔を青くする私を他所に、皇宮医は何故かくつくつと笑い出す。
「陛下にあんなお茶を出すなんて、君は心臓に毛でも生えているのかい?」
「…は?」
「陛下も仰っていたよ。「こんなにも不味い茶を飲んだのは生まれて初めてだ。」ってね。」
「…。」
私はすっと真顔になった。
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