上 下
23 / 30

第2の選択

しおりを挟む
これは翡翠が夜這いに来る数時間前の話だ。
俺は翠の部屋を訪ねていた。
「今日、木葉とダリアは?」
いつも翠にべったりな木葉が居なくて俺は内心ホッとする。今回翠を訪ねたのは、翡翠についてのデリケートな話題なだけに、彼女には席を外しててもらえると助かるのだ。
まあ、その代わりと言っては何だが、鷹雄の奴が先にテーブルでコーヒーを飲んでいる。
「部屋にいるよ、ずっとね。献上の日取りが決まってからこもりがちでね。可哀想だから放っておいてる」
「ダリアなら最近うちに戻ったよ。いやー、俺の事が恋しくなっちゃったのかなぁ~」
やけに自慢気な鷹雄はさておき、翠からコーヒーを手渡され、俺はソファーでそのカップに口をつける。
「いいのか?」
「いいさ、どうせ木葉は紅玉と違って聞き分けがないから言っても無駄だし、俺も無理強いはしたくないからね」
翠は俺の隣に腰掛け、目の前のガラステーブルに自分のカップを置く。
「うちの翡翠もよく引きこもったもんだけど、どこも同じなんだな」
俺はその時の様子を遠い日の事のように思い出す。
「年頃だからね」
翠も俺と同じ心境なのか遠い目をして何かを懐かしんでいた。
「あぁ」
「それで考えると紅玉は物分かりのいい娘だったから、逆に無理をさせたんじゃないかな。悪い事をしてしまったよ。本当に罪な事をした」  
紅玉を亡くしてからの翠は、どことなく元気が無い。俺と話していても、俺越しに窓の外を眺めている。
「翡翠の調子はどう?鷹雄の催眠療法てやつは効いてるの?」
翠にはあらかじめ俺から翡翠の様子は伝えており、彼はかねてから彼女の事を気にかけてくれていた。
「うん、まあ、向こうから俺に寄ってきてくれているし、あの時の事はすっかり忘れているんじゃあないかな」
根本的な話、翡翠はあの事件を忘れているだけで、起こってしまった事実を変えてやれないのがとても悔しい。
「翡翠は献上品を続けるって言ってるんだろ?どうするつもりなんだ?本当にやらせるのか?」
翠は翡翠の事をとても心配していた。
「本人がやるってきかないんだ、やらせてやるしかないだろ?」
「でも翡翠は処女じゃないだろ?」
鷹雄がテーブルにカップを置いたまま俺達の方にやって来て地べたにあぐらをかく。
「そこらへんは血糊でも仕込んで何とか凌ぐさ」
「王を謀るなんて怖いね~」
『う~』と鷹雄は大袈裟に身震いをして見せた。
「弟な」
「本人が処女のつもりでいるなら血糊のくだりで疑問に思うんじゃないの?」
翠に痛いところをつかれたが、翡翠は元来素直な生物だ、適当な事を言って身繕ろえば何とかなるだろう。
「そこらへんも大丈夫だ。うまくやるけど……」
「けど?」
俺が語尾を濁すと、こちらを凝視する2人の疑問符がハモった。
「俺の本心としては、翡翠を自分の物にして連れ去りたいんだ」
それが自分勝手な無理な願いだとは解っていたが、俺はやっぱりまだ納得がいかない。
「じゃあヤっちゃえば?なんてったって翡翠は自分がどうして今の状況になったかまるで覚えちゃいないんだから、ヤっちゃってさ、翡翠に処女を喪失したと思わせて献上品を諦めさせる、とか?」
「翡翠は王の側室や正室になりたがってるのに無理に犯してその夢を潰すなんて酷だろ。それにセキレイに犯人と同じ事をさせるって言うのか?」
お気楽ご気楽に鷹雄があらぬ提案をし、それを翠が咎める。
「いやいや、無理にとは言ってないじゃん。翡翠だって口ではお綺麗な建前を言ってるけど、体に直接聞いたら本当はどうしたいか正直に話すかもよ?まずはさ、翡翠がお前を受け入れてくれるか指南で試したら?決して無理強いはしないで、向こうから欲しがるのを待って、よければ合意の上で既成事実を成立させんだよ」
『これだ!』と鷹雄は小鼻を膨らませて得意気な顔をした。
成る程、既成事実か……試してみる価値はあるか。
提案者が鷹雄というところは引っ掛かるが、意外にも翠の言葉もまた俺の背中を押してくれた。
「大事なのは翡翠の意思だ。もし翡翠がお前を選ぶのなら、お前は全力で彼女を守ってあげて。俺達も出来る限りのサポートはするから」
「ああ、悪いな」
「いいさ。献上品とか、調教師とか、そんなものはどうでもいいんだ。大事な人の幸せを見つけてあげて」
そんな風に俺を勇気づけてくれた友人は、もとはと言えばこんな柔軟な人間ではなかった。
あれだけ規律や規則を重んじていた翠がこうも変わるなんて、やっぱり紅玉の影響なのだと思う。
翠は色々と後悔しているのかもしれない。

その夜、夕食の時からやけにしおらしい翡翠を見て、虫の知らせを聞いた俺は寝る前に苦手なコンタクトを装置した。
翡翠の奴、やにそわそわしてよそよそしかったな。
今夜あたり自分から指南の伺いをたてに来るんじゃないかと思っていると、ビンゴ、飛んで火に入る夏の虫。翡翠がそろそろと俺のベッドに上がり込んで来た。
翡翠の奴、俺がコンタクトをしているとも知らずに、馬鹿だな……カワッ!   
翡翠が怒るので暗くても電気はつけられないが、コンタクトのおかげでうっすら物の輪郭は捉えられる。翡翠が耳まで赤くして目を潤ませているのだって十分見えた。
コンタクト様々だな、おい。
俺は一歩引いて翡翠と向き合い、彼女の出方を見ていたが、気が付くと、いつの間にか俺の方が余裕のない事になっていた。
翡翠が欲しい。
せめて、翡翠の更新された記憶の最初の男になりたい。
それから誰にも翡翠を触らせない。
誰の目にもつかない所に翡翠を隠したい。
もう誰かに翡翠を奪われたくない。
翡翠を自分だけの物にしたい。
俺が翡翠の面倒をみる。
俺が翡翠を幸せにする。
俺が──
でも、これらは全て俺だけの一方的な願望で、翡翠の気持ちや意思なんか全く無視したものだった。

翡翠は俺の事をどう思っているんだろう?

俺は翡翠の気持ちが知りたいのに素直に聞けなくて、持ち前の意地悪で彼女の口を割ろうとした。
悪い癖だ。
好きな子をいじめる小学生と一緒。
翡翠を快楽に溺れさせて自分の欲しい言葉を吐かせようとしている。
そんなもの虚しいだけなのに、それでも俺はそんな茶番にしがみついてしまって……みっともない。
文字通り翡翠が自分から俺を受け入れるように仕組み、俺は彼女が流されるのを虎視眈々と狙う。
浅ましいというか、浅はかというか、でも仕方がない。どうしても翡翠が欲しいんだから。
翡翠も欲しがればいい。
翡翠さえ望んでくれれば、俺はお前を──

けれど翡翠はそれを望まなかった。

やっぱり翡翠は絶対に俺の物にはならない。
改めてそう悟ると、俺は絶望で目の前が真っ暗になった。
翡翠の奴、俺に触られて、本当は嫌だったんじゃあないか、好感触だと思っていただけに、居たたまれない。
もしそうなら、俺は嫌がる翡翠に強姦魔と同じような事をしようとしていた。
翡翠はただ、純粋に正室を目指して指南を受けていただけなのに、俺は指南のつもりなんかなくて、単純に翡翠を愛そうとしてた。
──それが、多分翡翠の重荷になってたんだ。
でも翡翠は優しいから、俺に『嫌じゃなかった』と言ってくれて、盛り上がってしまった俺を慰め、やり場のない欲望を飲み込んでくれた。

欲望を吐き出して冷静になってみると、どうしてこれ程までに翡翠が頑ななのか、俺は思い付いてしまう。

もしかしたら翡翠は、風斗に助けられて以降、あいつの事を好きになってしまったんじゃあないか?

…………
何で今まで思い付かなかったんだろう?
他に理由はあるかもしれないが、翡翠の、風斗への愛が彼女を突き動かしているんじゃあないか?
そう考えると翡翠が俺に触れられるのを嫌がっていないように見えたのは、俺が風斗の兄だからじゃないのか?
え、えぇっ!?
いや、え?えぇっ、えーーーーーーーーっ!!
俺は人生最大の衝撃を受ける。
そうか、これなら翡翠の態度にも合点がいく。
普段の風斗はとても優しいし、紳士だし、鞭や蝋燭を持たなければ単なるスーパーイケメンだ。おまけに富も権力も何でも持っている。翡翠が惚れたって不思議はない。
あいつは何も言わないが、風斗の為に偽りの貞操を死守しているのかも……
健気な翡翠ならあり得る。
何で気付かなかったんだろう……
でも、そうか、それはそれでいい事じゃないか。献上品にしてみたら好都合だ。生理的に無理な相手の所に嫁ぐもの程耐え難い事はないんだから。
そうだ、これはいい事なんだ。翡翠が正室になれれば、あいつは恋を成就させる事が出来る。
でもどうだろう、逆に俺がどんなに翡翠を愛していても、俺じゃああいつを幸せに出来ないんだ。

胸が苦しい。

こんな事、気付かなければ良かった。

俺が翡翠に真相を聞けないまま木葉献上の前日の朝を迎える。
木葉は儀式の準備の為、1人だけ乗馬の練習を休んでいた。
俺は調教師の講習会に参加し、窓際で講習を受けながら、グラウンドで乗馬をする献上品の中から翡翠を探しだす。
いたいた、あのどんくさそうなのが翡翠だな。
コンタクトをしていなくても、遠くから所作を見ただけであれがうちの子だとすぐに解った。
乗馬というより、馬に乗せられてる感が酷いな。あれはリズム感が無いからなぁ。
馬に振り回され、1人だけコースアウトする翡翠を見て、俺は何故か心が温かくなる。
動物×翡翠、萌えるっ!
是非、ハムスター×翡翠を見て見たいな。
俺が講習会そっちのけで窓の外に夢中になっていると、馬相手に四苦八苦している翡翠に、白馬に股がった誰かが猛突進して行くのが見えた。
「っぶな!!」
粛々とした室内に俺の声が響く。                                                                                                                            他の調教師達が驚いて俺を刮目するなか、白馬の人物が翡翠とのすれ違い様に彼女の馬の尻を蹴飛ばした。
蹴飛ばされた翡翠の馬は、一度大きく前足を宙でばたつかせた後、翡翠を振り落とそうとするようなおかしな動きで跳び跳ねる。
振り落とされぬよう必死で馬の首にしがみつく翡翠を見た時、俺は居てもたってもいられず会議室を飛び出していた。

「翡翠っ!!」
俺がグラウンドに駆けつけると、翡翠は既に落馬して頭を打っていた。
意識はあるが、その場にうずくまる翡翠の上体を起こすと、その額から一筋の血が垂れた。
「翡翠っ!?大変だ、怪我をしてる。翡翠、すぐに大きい病院に連れて行ってやるからな!!」
「うぅ……セキレイさん、講習会じゃ……」
翡翠は低く呻いて額を押さえたが、俺はその汚れた手を掴む。
「翡翠、触っちゃ駄目だ。講習会なんかどうでもいい、お前は頭を打ったんだ、大きい病院で精密検査をしてもらわなきゃ」
「鷹雄さ……んは?」
「婦人科医のヤブ医者は駄目だ。さあ、掴まれ」
俺は首の後ろに翡翠の腕を回させ、お姫様抱っこで立ち上がると、目の前に大きな影が立ちはだかった。
俺が顔を上げると、そこにいたのは白馬に股がった瑪瑙だった。逆光のせいで彼女の後ろから後光が射し、神々しいまでのオーラを放っていたが、こいつは翡翠を落馬させた張本人だ。俺は彼女を見上げるように睨み付ける。
瑪瑙は高い位置でポニーテールを結い、凜とした姿で凛々しくも猛々しく俺ら2人を馬上から見下ろしていた。
「セキレイさん、落馬したくらいで大袈裟だよ。よくある事でしょ?」
ニッと瑪瑙が意地悪な笑みを浮かべ、俺はその胸糞のわるさに吐き気がする。
女狐が。
「よくある事だって?翡翠は頭を打ったんだぞ!!打ち所が悪かったら、どうなっていたか」
俺は瑪瑙のふてぶてしい態度にはらわたが煮えくり返り、声を荒らげて激昂する。
「だから?献上品なんて探せばいくらでもいるじゃん。その子じゃなくたって、誰かしらみつかる。献上品ってそんなものでしょ?」
瑪瑙の薄情な物言いが尚更俺を苛立たせ、俺は怒りの歯止めが利かなくなりそうだった。
瑪瑙は、何を言わんとしているのか?
俺への当てこすりか?
それにしたってやり過ぎだ。
「ふざけるな!俺は献上品を消耗品みたいになんか思っていない!お前の時だって、俺は──」
『大切に思っていた』だなんて、今更そんな事を言ったところで、俺と瑪瑙の関係性は破綻している。もう遅いのだ、何もかも。
「セキレイさん……」
不安そうに俺を見上げた翡翠の顔を血液が伝い、俺は瑪瑙の脇をすり抜ける。
「瑪瑙、今度翡翠に何かしたら、お前でも許さないからな」
俺が捨て台詞を吐くと、後ろから瑪瑙が退屈そうに声を漏らした。
「なーんだ、バレてたんだ、次はうまくやらなきゃ」
「……」
多分次は無いだろう。もし次があったとしたら、俺はきっと瑪瑙を殺す。
俺は、緊急事態という事で特別に翡翠の外出許可をもらい、黒いセダンで彼女を街の総合病院へと連れ出した。翡翠は病院で額を何針か縫い、精密検査を受けたが、命に別状は無く、数時間で解放された。
「さて、帰るか」
俺が病院の駐車場で車のエンジンをかけると、助手席に座っていた翡翠が窓の外を見ながらこう言った。
「セキレイさんとお出掛け、楽しかったなぁ」
あ……
そうか、翡翠は献上品になってから、城の敷地内から外へ出た事がなかった。
「翡翠、デートするか」
単なる思いつきだったが、翡翠を喜ばせたくてついそんな言葉が口をついて出た。
「えっ?セキレイさんとデート!?」
翡翠が吃驚して勢い良く俺の方を振り向く。
「イヤ?」
翡翠は、本当は風斗とデートをしたいのかもしれない。そう思ったら、デート相手が俺で申し訳ない気がして卑屈な気持ちになった。
「ほら、課外授業っていうか、王と接するにあたって何かの役にたつだろ?」
やばい、言い訳が早口になった。翡翠の奴、不審に思ったか?
「したい!セキレイさんとデート!」
『セキレイさんと』と言って大喜びしてくれた翡翠があまりにも可愛くて、気が付くと俺は、ギアではなく彼女の手を握っていた。
それを見た翡翠は照れくさそうに『本当に恋人同士みたいですね』とハニカミ笑いをした。
ほんと、かわいすぎだろ。
「翡翠、何処に行きたい?何がしたい?まだ半日あるんだ、好きな事をしよう」
俺がそんな風に言うと、翡翠は目を輝かせてあれやこれやと悩み込んだ。
「どうしようかな、何があるのかな?見ないうちに外が変わっちゃってて、えーとえーと……悩んでる時間も勿体ないですよね?でも、セキレイさんとお出掛けってだけでもただただ楽しいんです」
どうして翡翠はこうも嬉しい事を言ってくれるんだ?
俺の顔が自然と緩む。
「じゃあ、そろそろ昼だし、何か食べたい物はあるか?」
「そうですね……うーん……私の食べたい物は全部セキレイさんが作ってくれるからなぁ……」
翡翠は探偵みたいに顎に手を当てて熟考していたかと思うと、突然『たこ焼きだ!』と閃いた。
翡翠は優しい子だ。
自分の食べたい物を聞かれて、俺の好物を答えるなんて、健気な子だ。

俺は翡翠の事をやっぱり好きだなと思った。

たこ焼き屋が見つからなかったので、俺は車に翡翠を残してスーパーにたこ焼きやお菓子、飲み物を買いに出た。
一応翡翠には『ここで待ってろ』と声をかけ、車を降りたが、買い物中、もし翡翠が逃げ出していたらと不安になり、急いで車に戻る。
遠くから車内を確認すると助手席に翡翠の姿が無くて、俺は猛ダッシュで助手席側のドアを開けた。
「翡翠っ!?」
「どうしたんですか?」
ドアの向こうには、足下に落としたスマホを取ろうと身を屈めた翡翠がちゃんと座っていて、俺は肩の力が抜ける。
翡翠が俺から逃げる訳ないか。
でも、翡翠が何処かに行ってしまいそうな消失感は依然としてなくらなかった。
「いや、いっぱい食料を買ってきたから、見晴らしのいい所で食べよう。翡翠、ピクニックだぞ」
『ピクニック』という言葉を聞いた翡翠は子供のようにはしゃいで、とにかく楽しそうで俺も嬉しかった。
どうせなら海で食べたいという翡翠のリクエストもあり、俺らは近くの海浜公園に来た。
翡翠は、俺が車を停めるなり、助手席を飛び出して砂浜に駆けて行く。
「しょうがない奴だな」
と口では言いつつも、翡翠が夢中で砂浜を探索する姿を見て、冷たい海風にさらされながらも俺の心はほっこりする。
「翡翠、俺から離れるなよ」
やれやれと俺は食料と傘を持って翡翠の後を追う。
「じゃあ早くこっちに来て下さい!」
そう言われると、どっちがどっちに付いて歩いているのか解らなくなった。
「こら、翡翠、献上品が日焼けしたら台無しだろ、日傘じゃないけど、この陰に入れ」
しゃがんで何かを探している翡翠の背中に、俺は持っていた黒の傘で日陰を作ってやる。
今日は日差しが強いから、1日で肌がこんがり焼けてしまうだろう。献上品云々もそうだが、翡翠は色白で皮膚が薄いから、真っ赤に火傷しても可哀想だ。
「すみません、セキレイさん。自分が献上品である事をすっかり忘れてました」
振り返ってこちらを見上げた翡翠は、どこか寂しそうで、無理して笑っているように見えた。
せっかく今は自由を楽しんでいるというのに、翡翠に悪い事をしたなと、俺は反省する。
「いや、そうだな、課外授業だなんて言ったが、今は献上品とか、調教師とか、そんな物は全て忘れて楽しもう」
そうだった、俺が言い出したんだった、デートをしようって。今の2人は一時の恋人同士だ。
翡翠もそう思ってくれているのかな?
「そうです。これはデートですから、セキレイさんは私の保護者じゃなくて、彼氏なんですよ。だから……」
翡翠はまた俯いて何かを探しながら、ボソッと──

「一時だけ私を愛して下さい」

──と呟いた。
でも翡翠は気付いていない、俺はずっと翡翠の事が好きだったし、これからもずっと変わらず翡翠を愛し続ける事を──
これはごっこ遊びだと解っていたけれど、それでも俺はそれに溺れられずにはいられなかった。
俺は傘も食料も投げ出し、耳まで赤くした翡翠の背中を抱き締め、一時だけ許された恋人役に没頭する。
「じゃあお前も、今だけは俺の恋人のつもりでいろよ?」
翡翠は黙ってコクリと頷いた。
「恋人ごっこをしている間は俺の事だけを見て、俺を風斗だと思ってちゃんと愛するんだ、いいな?」
それを聞いた翡翠は一瞬頭を上げたが、また直ぐに頷く。そして逆に尋ねてくる。
「セキレイさんも、私を瑪瑙さんだと思って、愛して下さいね」
翡翠の声が心なしか震えているように聞こえたが、空耳か?
「俺はお前をお前だと思って愛するよ。ずっとね」
俺は自分に嘘をつけなくてつい本心を語ると、翡翠が驚いてこちらを振り返り、俺は彼女を困らせたくなくて冗談ぽく肩を竦めて見せた。
いけない、これはあくまで『一時』だけのかりそめの恋人同士だった。こうして翡翠と触れ合っていると、真実と錯覚してしまいそうになる。
こんな事で翡翠を困らせたくない、役に徹しなければ。
──そう思うのに、俺はしがらみを忘れて堂々と翡翠に愛を語れるのが嬉しかった。
圧し殺していた俺の翡翠への愛が、少しだけ報われるような気がしていたのだ。
「じゃあ、私も、セキレイさんをセキレイさんとして愛します」
『一時だけ』と言外に含まれているような気はしたが、それでも俺の胸は十分過ぎる程に熱くなった。
「じゃあ、翡翠、そこの段差にでも座ってたこ焼きでも食べるか」
俺は食料と、飛ばされた傘を拾い、翡翠に向き合って立った。
「ちょっと待って下さい」
と翡翠は両手いっぱいに色とりどりのシーグラスを集め、それを余っていたレジ袋に入れる。
「最後に、やっとシーグラスを集める事が出来て良かったです」
『最後』ふとした言葉に現実を見てしまうのが本当に辛かった。
「そう言えば、シーグラスを探しに家出した事があったっけな?」
「家出だなんて、やめて下さいよ」
翡翠は心外そうに頬を膨らませる。
「今なら足枷も手綱もないんだ、逃げようと思えば逃げられるぞ?」
冷やかしのつもりで俺が言うと、翡翠は悲しそうな顔をして──
「私はずっとセキレイさんのそばにいたいのに、逃げるわけないじゃないですか」
と恨めしく話した。
これもごっこ遊びの余興か?
翡翠は単に恋人役を演じているだけなのだろうが、解らなくなる。
だって翡翠の瞳が俺だけを見て、揺れて、潤むんだから、勘違いしてしまう。
でも今は、翡翠は俺だけの物だ。
今だけは──
「翡翠、おいで」
俺は階段状になったコンクリートの段差に翡翠を座らせ、その後ろから覆い被さる様に腰掛ける。
「翡翠、今だけはずっと一緒だよ」
俺が後ろから翡翠を抱き締めると、彼女は肩を揺らして笑った。
「変な日本語ですね」
「まあな」
そんな状態で俺ら2人は二人羽織みたいにしてたこ焼きを食べさせ合った。
はたから見たらバカップルだろうなと思える事も、俺達2人にはとても新鮮で、尊い事のように思えた。

たこ焼きを食べ終え、俺が恋人らしい事を模索していて思いついたのは、ツーショット写真だった。
そう言えば、翡翠と写真を撮った記憶が無い。
翡翠単体で撮った寝顔の画像は何枚かスマホに保存してあるが、2人並んでは無い。
俺はおもむろにスマホを掲げ、何の気なしにカメラのシャッターを切ると、翡翠が驚いて不満を垂れた。
「セキレイさん!何で不意打ちでそういう事するんですか!今の絶対に不細工になった!」
「身構えるより自然でいいんじゃないか?俺はどんな顔したお前でも好きだけどな」
例え恋人ごっこでも、いつも喉の奥で飲み込んでいた想いを口に出来るのは気持ちが良かった。大義名分を得た俺の想いは、今になって浮かばれだす。
ただ、翡翠は顔を真っ赤にして照れているけれど。
「セ、セキレイさんて普段無神経で朴念人なのに、こ、恋人にはそんな歯の浮いた事が言えるんですね」
「え?うん、まあ、そうか、そうかもな。思った事は口にするかもな」   
というか、気のせいか、今、悪口言われたか?
「そう、なんだ……そっか……瑪瑙さんにも、こういう事を言ってたんだ……」
とたんに翡翠の声に元気が無くなり、俺がその顔を覗き込むと、彼女は泣きそうな顔をして唇を噛み締めていた。
ごっこ遊びなのに、何でそんな顔するんだよ。
少しは焼きもちを妬いてくれているのか?
本当に、勘違いしそうになる。
なんだってこう、お前という奴は、俺の男心をくすぐるのか、悪い子だ。
俺はごっこ遊びにも関わらず、堪らずに翡翠をこちらに向かせその唇を奪う。
翡翠の唇はいつもよりも冷たくて、震えていたが、指南でするキスよりもずっと味わい深く感じた。
翡翠は特に抵抗はしなかっかけれど、離れてから『外なのに指南もするんですね』と言って、俺は『指南じゃないよ』と答えた。
「あ……の、セキレイさんて意外と女性を転がすタイプなんですね。野暮なタイプかと思ったら、ジゴロでびっくりしました」
翡翠は恥ずかしそうに俺から顔を背け、歯切れ悪くその場を取り繕う。
何だか妙な空気が流れ、俺はやりすぎたかなと反省した。
「あの……今のって……」
「ん?」
「あ、いえ」
「?」
翡翠は何かを言いかけたが、それ以上その事には触れなかった。
「砂浜を見ていると、故郷の砂漠を思い出します。こことは全然気候が違いますけど、なんだか懐かしいなぁ」
翡翠は妙な空気を払拭するように話題を変えた。
「……帰りたいと思うか?」
俺が翡翠を買ったあの日から、翡翠は2度と故郷の地を踏むことは叶わないが、聞かずにはいられなかった。
「そりゃあ故郷ですから、今、どうなっているのかな?とか、気になりますよね。没落した国だったけど、せめて北部国の統治で少しは民の暮らしが豊かになればなって思っているし、私が北部国王の正室になる事で、故郷に錦を飾れたら、殺された家族も浮かばれるのかななんて」
「そうか……」
俺が思うよりもずっと、翡翠はその華奢な体に重責を背負っていて、誰よりも周りのしあわせを願っているのだなと思った。
つくづく凄い子だ。
翡翠は俺よりずっと年下だが、利己的な俺と違ってよく物を考えていて、尊敬の念すら感じる。
「セキレイさんは今後どうするんですか?」
「うーん、それな」
いくら恋人ごっことは言え『お前と一緒になりたい』なんて、翡翠の胸の内を聞いた後ではとても言えない。
俺だって、生半可な気持ちで翡翠を愛している訳ではないが、彼女の覚悟をまざまざと見せつけられると、俺は自分勝手な愛情は押し付けられなかった。
「お前が晴れて献上されたら、俺は調教師を辞めて……」

他の誰かと結婚するのだろうか?

ふとそんな事が頭に浮かんだが、翡翠という人間を知ってしまった後では、他の誰かを好きになれる気がしなかった。
「まあ、その時に考えるさ」
俺が軽く微笑んではぐらかすと、翡翠はとても真面目な声で俺に誓う。
「そうですか……セキレイさん、生意気な事を言いますけど、私が必ずあなたを一国の王にしてみせますから、待っていて下さい」
「……ああ、ありがとう」

でもな、翡翠、俺の本当の願いは、お前とずっと一緒にいる事なんだけどな。

「ねぇ、セキレイさん、海に入りませんか?」
「はぁっ!?」
おもむろに翡翠が突拍子もない事を言い、俺は声がひっくり返った。
「いや、北国の北部国で海水浴とか、自殺行為だろ」
今だって、いくらピーカンとは言え2人くっついていないと凍えそうな程風が冷たい。
「足だけですよ」
翡翠は嫌がる俺を無視して俺の靴や靴下を脱がしにかかった。
「嫌だよ」
と言いつつも、俺はあっという間に裸足に剥かれ、同じく裸足になった翡翠に手を引かれて重い腰を上げる。
「うわぁ、砂……」
足の指の間に入り込む砂のザリザリ感がゾッとする。
「軟弱ですね、セキレイさん」
「俺は潔癖症で寒がりなんだよ」
翡翠に笑われ、俺は子供みたいにヘソを曲げた。
俺はそのまま翡翠に波打ち際まで連れて行かれ、捲っていたズボンの裾をさざ波で汚してしまい、テンションがだだ下がりする。
「あーあ、セキレイさん、潔癖症なのに」
翡翠は俺の不幸を嬉しそうに指を指して笑い、俺はカチンときて彼女の手を引き返した。
「えっ!セキレイさっ!!」
「ちょっ、翡翠!」
翡翠は抜かるんだ砂に足を取られ、俺目掛けて倒れ込み、結局、2人してしりもちを着いてずぶ濡れになってしまった。
「本当に、お前って奴は、手を焼く子供だな」
俺は翡翠の首根っこを掴んで強制的に車まで連行した。
軽く翡翠の砂を落としてやり、車に積んでいたタオルでその体を拭いていく。
「まったく手のかかる子供だよ、お前は」
俺が多少手荒に翡翠の背中を拭きあげると、彼女は縮こまって腰を低くした。
「すみません、セキレイさん。大人になる前に、こうしてセキレイさんに遊んでほしかったんです」
俺はその言葉に手を止める。
思えば、翡翠は他の子供に比べて大人びた子供で、子供らしい事をあまりしてこなかったように思う。同年代の子供達が外で活発に遊んでいる時も、翡翠は献上品として教育を受け、子供らしい遊びを満足に出来なかったのだ、海でテンションが上がっても仕方がない。
それに翡翠にしてみたら、これが子供でいられる最後の時間なのかもしれない。
「仕方のない奴だな」
俺は後部座席に乗り込み、翡翠を車内に引っ張り上げた。
車内はエンジンをかけて間もなかった為にまだ寒々しい。
俺達は自然と身を寄せあって座った。
「他にやり残した事はあるか?」
額の抜糸程度なら鷹雄にも出来るから、多分、これが翡翠にとって最後の機会になるだろう。
「あります!あります、けど……」
翡翠は元気に手を上げて、ちょっと躊躇いがちにその手を下ろした。
「けど?」
俺が隣から翡翠の顔を覗き込むと、彼女はゆでダコみたいに赤面して手の甲で口元を隠す。
何をそう恥ずかしがっているのか。
でも恥ずかしがる翡翠に意地悪したくて俺は彼女のその手を掴み取る。
「何?」
こうする事で翡翠が更に恥ずかしがるのは計算済みで、俺はその冷たくなった指先にハァと熱い吐息を吹き掛けた。
「ぞ、ゾワゾワします」
翡翠は背筋を伸ばし、ぶるぶると身震いする。
「それで?」
「あ、はい、あの、ですから、献上される前に、ちゃんとした恋愛をしてみたかったな、なんて……」
テヘヘと翡翠はもじもじしながら片方の手で膝に『の』の字を書いた。
「恋愛か……」
暗黙の了解だが、献上品は原則として恋愛御法度だ。しかしそこは年頃の女の子、やっぱりそういう事に興味はあるのだ。
「そうです。私、誰ともちゃんと付き合った事がなくて、今の恋人ごっこじゃなくて、ちゃんと誰かと付き合ってみたいんです」
『誰かと』そんな言葉を聞くと、俺じゃなくてもいいように聞こえる。
ちょっとショック、いや、かなりショック。
「俺でいいのか?」
ハーッとこれみよがしにため息をつくと、翡翠は慌てて訂正した。
「セキレイさんがいいんです!セキレイさんじゃないと……」
翡翠はまた赤面して俯き、蚊の鳴くような声で喋り出す。
「セキレイさん、城に帰るまで、私と──」
「いいや、俺に言わせろ」
ここで俺が言わなければ男がすたる。
俺は翡翠の両手を合わせて握り締め、彼女をじっと見詰めると、ずっとしまい込んでいた想いを口にした。

「翡翠、愛してるよ」

そう言って翡翠を抱き締めると、俺の肩で彼女が『私もです』と言った気がした。
「えへへ、あと数時間だけ、セキレイさんは私の恋人ですね」
翡翠は照れくさそうに笑ったが、その腕はしっかりと俺の背中に回されていて、たった数時間の関係とは言え、彼女が自分の物になったんだなあとちょっとした実感が沸いた。
本当なら、このまま翡翠を抱いて永遠に放したくないのだが……
「お前だって、今は俺だけの物だ」
俺が翡翠にキスをしようと顔を傾けると、逆に彼女の方から口を寄せてきた。俺はその小さな唇を吸ったり、舐めたり、舌でこじ開けてその歯列をなぞったり、存分に『恋人』の唇を堪能する。すると翡翠は苦しそうに眉をハの字にするので、俺はそこから首へと口づけを移動させた。

本当なら、ここに俺の証を残すのに。

俺は痕の残らないギリギリの強さで翡翠の首筋を吸う。
「セキレイさん、これはごっこでも、指南のキスでもないですよね?」
「これがごっこのキスに思えるか?」
「よく、わかんないです」
「だろうな」
俺が翡翠にキスする時は、いつだって愛情いっぱいにしていたから、わからなくて当然だ。
「凄いな、本当に、びっくりだ。あのセキレイさんが私の恋人だなんて、信じられない」
翡翠は抑えきれない想いをぶつけるように俺の懐に入り込み、猫みたいに存分に甘えだす。
「へぇ~、あのセキレイさんが……不思議だなぁ」
翡翠はオレの膝に顔を寄せ、その感触を楽しんでいる。
「さっきまでは私の保護者で、調教師で、歳の離れた大人だったのに、今は対等に恋人同士なんだ、凄いなぁ」
翡翠は堪えきれずにムフフと変な笑いを漏らした。
「こっちこそ変な気分だよ。ずっと子供だと思ってたのが、今だけ恋人で、献上品でもないんだから」
正直、夢みたいだ。
「今だけ、私達は献上品でも、調教師でもなく、単なる男と女なんですね」
「恋人同士って言っても、プラトニックだけどな」
そうだ、今の俺達は正真正銘の恋人同士だが、献上品と調教師という定めに変わりはないのだ。故に、精神的な繋がりしか持てない。
例えば、こうして俺が翡翠の胸元に手を滑らせたとして──
あるいは、こうやって俺が翡翠のパンツに手を差し入れたとして──
又は、翡翠と互い違いにお互いを高め合ったとしても、俺達に『その先』は無い。
俺達は恋人同士なのに『恋人の様に』振る舞う事しか許されない。
今、こうして翡翠とお互いを刺激し合うのは、愛を確かめ合っているというより、報われない愛を慰め合っているという方に近い。
「ハァ……セキレイさん……」
俺の愛撫に翻弄され、甘い吐息を漏らして翡翠が欲情しようと、俺らに『その先』は無い。
ただ俺達は、その先を想像して2人で快感の頂上に昇りつめるだけだ。
終着点のない虚しい行為だが、献上品と調教師のカップルが出来るのは、所詮ここまでなのだ。

お互いに欲望を吐き出してスッキリ、と思いきや、そこはやはり単なる慰め合い、最後まで到達する達成感を得ていないせいか、まだどこか不満というか、煮え切らないものがある。
けれどこれが、プラトニックな関係なのだろう。精神的な繋がりだけだが、翡翠と2人でいると穏やかな気持ちになった。
翡翠も、そう思ってくれているんだろうか?
「翡翠?」
翡翠は疲れたのか、俺の膝を枕に眠っていた。
俺はそろそろ次のデートスポットに移動しようかと考えていたが、彼女を起こすのが忍びなくて自分のジャケットを掛けてやる。
「う~ん……」
翡翠は、乱れた髪が目尻に張り付いて煩わしいのか、険しい顔でその辺りを掻き、俺が指で髪を寄せてやると、彼女は気持ちのいい顔をして寝息をたてた。
「かわいいなしかし」

暫くこのままでもいいか。

日が沈み、そろそろ城へ戻らなければまずい刻限となり、俺が翡翠を起こすと、彼女は知らぬ間に寝入ってしまった自分を激しく罰した。
「うわー!せっかくのセキレイさんとのデートなのに寝ちゃうなんて、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿~!!」
翡翠はベタに自分の頭を両手でぶっている。
「こらこら、いいじゃないか、疲れてたんだよな?安心して眠くなっちゃったんだよな?俺は恋人の寝顔が見れて幸せだったよ」
俺が運転席に移動し、ハンドルを握ると、翡翠も助手席に移り、悔しそうにぶぅたれた。
「寝顔なんて帰ってからでも見れるじゃないですか」
「恋人の寝顔は今だけだろ?帰ったら、献上品の寝顔になるんだから」
「言い方が違うだけで、おんなじものじゃないですか」
「そうだな」

おんなじだよ。何も変わらない。
違うのは、考え方だけなんだ。

帰りの道中、俺は片手でずっと翡翠の手を握り、許されるだけゆっくり車を走らせ、城の駐車場に戻って来た。
「着いちゃいましたね……」
翡翠は窓の外を見て意気消沈する。
「ん……」
俺はハンドルをきる為に翡翠から手を放した。
呆気ない。
これが俺達の別れ。
何の実感もなくやってきた。
また献上品と調教師の関係が再構築される。
俺が駐車を済ませ、エンジンを切っても、2人はしばし動き出せなかった。
車内が重く切ない空気に見舞われていると、向こうから白いセダンが徐行して来て、目の前で停まる。
「あれ?翠の車だな。こんな時間に何処へ行くんだ?」
不審に思い、俺が翡翠と共に車から降りると、白いセダンの運転席から翠が降りて来た。
「セキレイ、翡翠、良かった、最期にちゃんと挨拶をしたかったんだ」
そう言った翠の向こう側、助手席に毛布を被った何かが蠢いていて、俺はハッとする。
「翠、お前っ!?」

「うん、俺と木葉はここを出て行くよ」

寂しそうに、でも晴れ晴れとした顔で言った翠を、俺は羨ましいと思った。
助手席で毛布を被って隠れていたのは木葉だったのだ。
まさか、あの、歩くミスタールールブックが禁忌を犯すなんて、俺は俄には信じられなかった。
「お前、本気なのかっ!?」
俺は小声で声をあげる。
「本気だよ。もうこれ以上、誰かを不幸にするのは耐えられないんだ」
翠の言葉はグサリと俺の胸を貫き、その痛みを刻み込んだ。
けれど翠は曲がりなりにも俺の友人、いや、親友だ、危ない目にはあってほしくない。
「解ってるのか?これは犯罪だぞ?見つかったら、2人共どうなるか──」
「いいの!王様のオモチャになるくらいなら、死んだ方がましだもん!」
俺が翠に詰め寄ると、あの毛布の中から木葉の声がした。
「私、翠以外の誰かと一緒になるつもりなんかない!」
「──だそうだ」
翠は苦笑いして肩を竦める。
「翠、お前、木葉の事を──」
『愛してしまったのか?』と俺が言外に含むと、翠はチラッと横目で木葉を確認し、声をひそめた。
「そうじゃないんだ。そうじゃないんだよ、セキレイ。木葉の事は大切に思っているけれど、そんなんじゃないんだ。俺は指南している時ですら、1度だって木葉をそんな目で見た事はない。俺はただ、木葉に自由に生きる選択肢を与えてあげたいんだ」
「翠、お前は……」
多分翠は、死なせてしまった紅玉を今でも心から愛していて、その罪滅ぼしで木葉を逃がそうとしているのだろう。
「もう、第2の紅玉を生み出したくないんだ。お前にも解るだろう?セキレイ」
「それは……」

凄くよく解るよ。
何年も前に、俺は翠と同じ事をしたのだから。

俺は失敗したけれど、翠と木葉には何とか逃げおおせてほしい。
「セキレイ、今まで世話になった。これが最期の別れになるかもしれないけれど、お前はお前で、翡翠の最良の人生を探ってあげて」
翠はポンッと俺の肩を軽く叩き、運転席に戻ろうとした。
「翠、待て」
俺が翠を呼び止めると、彼はそれを振り切る様に首を振る。
「セキレイ、反対してもいいけど、どうか見逃してくれ」
翠はそのまま運転席に着こうとしたが、俺は彼の腕を取ってそれを引き留めた。
「翠、俺、お前の車に憧れてたんだ、最後に交換してくれないか?」
翠の白いセダンじゃあ暗闇では目立ち過ぎる。俺の黒い車なら、闇に潜んで夜のうちに遠くまで逃げられるだろう。
「セキレイ……」
翠は俺に背を向けたまま目元を拭うような仕草をしたが、あの鉄の男が涙なんか流すはずがないんだ。
目にゴミでも入ったかな?
俺はクスクスと笑って後ろから翠の肩をポンポンッと軽く叩いた。
「セキレイ、お前の車の方が高価なくせに……すまないな。恩にきるよ」
翠はフッと笑って自分の車から木葉と毛布だけを下ろし、俺の車に乗り換える。この時木葉は毛布を被ったまま俺に深々と一礼し、翡翠にはがっしりと抱きついて熱い抱擁を交わした。そして木葉は翡翠に『翡翠も逃げ出していいんだよ?』と優しく囁いたが、翡翠は何も言わず首を横に振っていた。

翡翠はこの2人を見て何を感じ、何を思っただろう?

正直、俺の心は揺れていた。
翠が羨ましい。
俺も翠みたいに翡翠を連れ去れたらと思った。
俺は、遠退いていく翠達の乗った車を見送りながら、ふと、調教師にあるまじき言葉を発する。
「……なあ、翡翠、俺達もこのまま何処かへ……」
『逃げないか?』と言おうとして、翡翠にそれを遮られた。
「セキレイさん、あと少しだけ、私の事、よろしくお願いします」
深々と俺に頭を下げた翡翠の覚悟を、俺には否定する事が出来なかった。

翡翠の心は誰にも覆せない。

数日して、欠員が出た穴を埋めるように俺達の隣の部屋に新しい調教師と、まだ年端もいかない献上品がやって来た。
本当に、いとも容易く献上品の交代要因がやって来て、未来の正室や側室候補の頭数に入れられる。
一方の翠はというと、北部国全域と、その息のかかった地域全土に国事犯として指名手配され、今も尚捜索されている。当然、翠は見つかったら、王の物を盗んだ罪で死刑にされるのだ。木葉も、翠と共謀した事が明るみになれば、王を謀ったものとして殺される。2人共、良くて絞首刑か電気椅子、裁判官の機嫌次第では生きたまま豚の餌にされるだろう。
翠はそんな危険を侵しても、木葉の幸せを追及したのだ。
でも解らないでもない。王位継承権のある俺は死刑にはならないが、翠と同じ立場だったとしても、瑪瑙の時みたいに翡翠と駆け落ちしたはずだ。
ただ、翡翠がそれを望まないのだから仕方がない。
自分の想いだけで無理強いするのは善くない事だ。

日中、翡翠に夜伽の所作を習わせていると、隣に越してきた新米調教師と献上品が挨拶にやって来た。
「どうも、はじめまして、こんにちわ。新しく調教師になりました弥生です」
そう言って戸口で俺と翡翠に会釈したのは、翠に感じの似た好青年だった。
調教師は容姿端麗が第一条件であり(要は女性に対する免疫があるかどうか)彼も垂れ目ながらその例外ではなく、俺達の目を引く。
「どうも、よろしく。俺はセキレイ、こっちは翡翠」
「はじめまして、翡翠です。よろしくお願いします」
俺が翡翠を紹介すると、彼女は愛想よく微笑んで2、3度軽く会釈した。
「へぇ、翡翠さんね、噂通りの美人さんだ。案内してくれた使用人の方が大層翡翠さんを誉めてまして、お会いするのを楽しみにしていたんです」
「え!そうなんですか、そんな大層な者じゃないので恐縮です」
翡翠は文字通り恐縮していたが、俺は少し鼻が高い。まるで自分が誉められたようで嬉しかった。
「あの、それで、後ろにいる子は献上品の子ですよね?」
「そうなんですよ。すみませんね、この子、まだ人慣れしていないものですから」
そう言って弥生は後ろに隠れていた少女を俺達の前へと誘うが、彼女は弥生の腰に引っ付いたまま顔を隠してフジツボ状態になっている。
「こらこらこのみ、ちゃんとご挨拶して」
弥生は困った顔をしてこのみという少女の肩をさすったが、彼女はがんとしてそれを拒む。
年の頃は十くらいか、まるでここへ来たばかりの翡翠を見ているようだ。
俺の胸はじんと熱くなり、同時に寂しさも訪れた。
「ふふ、可愛いですね。今度、落ち着いたらここに遊びに来て下さい」
「ええ、是非お邪魔させて下さい」  
「このみちゃん、今度私が動物クッキーを焼くから、またここに遊びに来てね」
そう言って中腰でこのみに手を差し伸べた翡翠は、いつぞやのユリにどことなく雰囲気が似ていて、俺は翡翠の成長を感じた。
「お姉ちゃん、お菓子作れるの?」
くりくりとした目が特徴的なこのみが弥生の陰から顔を出し、翡翠は目を細める。
「そうだよ、今度一緒におっぱいプリン作ろっか?」
「やだぁ、お姉ちゃんたら……」
このみは再度顔を隠して照れていたが、決してイヤそうではなかった。
あんなに人見知りでコミュ障だった翡翠が、今はちゃんと『お姉ちゃん』をしている。

本当に、翡翠は立派になったもんだ。

俺は調教師として翡翠を誇らしく思う反面、自分だけが置いてきぼりにされたような喪失感を感じた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

漫画の寝取り竿役に転生して真面目に生きようとしたのに、なぜかエッチな巨乳ヒロインがぐいぐい攻めてくるんだけど?

みずがめ
恋愛
目が覚めたら読んだことのあるエロ漫画の最低寝取り野郎になっていた。 なんでよりによってこんな悪役に転生してしまったんだ。最初はそう落ち込んだが、よく考えれば若いチートボディを手に入れて学生時代をやり直せる。 身体の持ち主が悪人なら意識を乗っ取ったことに心を痛める必要はない。俺がヒロインを寝取りさえしなければ、主人公は精神崩壊することなくハッピーエンドを迎えるだろう。 一時の快楽に身を委ねて他人の人生を狂わせるだなんて、そんな責任を負いたくはない。ここが現実である以上、NTRする気にはなれなかった。メインヒロインとは適切な距離を保っていこう。俺自身がお天道様の下で青春を送るために、そう固く決意した。 ……なのになぜ、俺はヒロインに誘惑されているんだ? ※他サイトでも掲載しています。 ※表紙や作中イラストは、AIイラストレーターのおしつじさん(https://twitter.com/your_shitsuji)に外注契約を通して作成していただきました。おしつじさんのAIイラストはすべて商用利用が認められたものを使用しており、また「小説活動に関する利用許諾」を許可していただいています。

妻がエロくて死にそうです

菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。 美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。 こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。 それは…… 限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常

エッチな下着屋さんで、〇〇を苛められちゃう女の子のお話

まゆら
恋愛
投稿を閲覧いただき、ありがとうございます(*ˊᵕˋ*) 『色気がない』と浮気された女の子が、見返したくて大人っぽい下着を買いに来たら、売っているのはエッチな下着で。店員さんにいっぱい気持ち良くされちゃうお話です。

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

【R18】カッコウは夜、羽ばたく 〜従姉と従弟の托卵秘事〜

船橋ひろみ
恋愛
【エロシーンには※印がついています】 お急ぎの方や濃厚なエロシーンが見たい方はタイトルに「※」がついている話をどうぞ。読者の皆様のお気に入りのお楽しみシーンを見つけてくださいね。 表紙、挿絵はAIイラストをベースに私が加工しています。著作権は私に帰属します。 【ストーリー】 見覚えのあるレインコート。鎌ヶ谷翔太の胸が高鳴る。 会社を半休で抜け出した平日午後。雨がそぼ降る駅で待ち合わせたのは、従姉の人妻、藤沢あかねだった。 手をつないで歩きだす二人には、翔太は恋人と、あかねは夫との、それぞれ愛の暮らしと違う『もう一つの愛の暮らし』がある。 親族同士の結ばれないが離れがたい、二人だけのひそやかな関係。そして、会うたびにさらけだす『むき出しの欲望』は、お互いをますます離れがたくする。 いつまで二人だけの関係を続けられるか、という不安と、従姉への抑えきれない愛情を抱えながら、翔太はあかねを抱き寄せる…… 托卵人妻と従弟の青年の、抜け出すことができない愛の関係を描いた物語。 ◆登場人物 ・ 鎌ヶ谷翔太(26) パルサーソリューションズ勤務の営業マン ・ 藤沢あかね(29) 三和ケミカル勤務の経営企画員 ・ 八幡栞  (28) パルサーソリューションズ勤務の業務管理部員。翔太の彼女 ・ 藤沢茂  (34) シャインメディカル医療機器勤務の経理マン。あかねの夫。

【R18舐め姦】変態パラダイス!こんな逆ハーレムはいらない!!

目裕翔
恋愛
唾液が淫液【媚薬】の淫魔や、愛が重めで残念なイケメンの変態から、全身をしつこく舐めまわされ、何度イッても辞めて貰えない、気の毒な女の子のお話です 全身舐め、乳首舐め、クンニ、分身の術(敏感な箇所同時舐め)、溺愛、ヤンデレ   クンニが特に多めで、愛撫がしつこいです 唾液が媚薬の淫魔から、身体中舐め回され 1点だけでも悶絶レベルの快感を、分身を使い 集団で敏感な箇所を同時に舐められ続け涎と涙をこぼしながら、誰も助けが来ない異空間で、言葉にならない喘ぎ声をあげ続ける そんな感じの歪んだお話になります。 嫌悪感を感じた方は、ご注意下さい。 18禁で刺激の強い内容になっていますので、閲覧注意

クラスで一人だけ男子な僕のズボンが盗まれたので仕方無くチ○ポ丸出しで居たら何故か女子がたくさん集まって来た

pelonsan
恋愛
 ここは私立嵐爛学校(しりつらんらんがっこう)、略して乱交、もとい嵐校(らんこう) ━━。  僕の名前は 竿乃 玉之介(さおの たまのすけ)。  昨日この嵐校に転校してきた至極普通の二年生。  去年まで女子校だったらしくクラスメイトが女子ばかりで不安だったんだけど、皆優しく迎えてくれて ほっとしていた矢先の翌日…… ※表紙画像は自由使用可能なAI画像生成サイトで制作したものを加工しました。

性処理係ちゃんの1日 ♡星安学園の肉便器♡

高井りな
恋愛
ここ、星安学園は山奥にある由緒正しき男子校である。 ただ特例として毎年一人、特待生枠で女子生徒が入学できる。しかも、学費は全て免除。山奥なので学生はみんな寮生活なのだが生活費も全て免除。 そんな夢のような条件に惹かれた岬ありさだったがそれが間違いだったことに気づく。 ……星安学園の女子特待生枠は表向きの建前で、実際は学園全体の性処理係だ。 ひたすら主人公の女の子が犯され続けます。基本ずっと嫌がっていますが悲壮感はそんなにないアホエロです。無理だと思ったらすぐにブラウザバックお願いします。

処理中です...