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セキレイと瑪瑙

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瑪瑙を最初に見掛けたのは、やはり南部国の奴隷市だった。

俺はまだ調教師になりたての駆け出しで、年齢も思春期の多感な時期。奴隷市で一際群衆が集まるケージに好奇心をかられ、人混みをかき分けた。

そこに、瑪瑙という少女はいた。

瑪瑙はその店の目玉商品として一番目立つ所に置かれ、人々に背を向け、丸くなっていた。
(痩せているな。まだ10~12くらいか?)
栄養不足だが、背格好や体つきから、年齢は10~12歳くらいだと解った。絹糸の様な髪が腰まで伸び、砂漠の熱風でサワサワと流れる様子は、小汚ない布を纏った姿であっても、どこか清涼感を感じた。俺とは違う方角からやって来た客も、彼女の容姿の片鱗を見て足を止め、目を奪われる。またその一連の出来事も俺の興味を掻き立てる要因となっていた。
(こっちを振り向かないかな?)
そんな思いで奴隷商人から彼女の名前を聞き出し、呼び掛けてみる。
「瑪瑙」
ほんの少しだけ、瑪瑙の首が此方を向き、チラッと見えた瞳が驚く程冷たい青色をしていて、40度を越える気温において、俺はその美しさに鳥肌が立つ。
「瑪瑙!瑪瑙!」
気が付くと俺は、夢中でその名を口にしていた。

今にして思うと、俺はその頃から瑪瑙に心を掌握されていたのかもしれない。

俺の呼び掛けに瑪瑙が振り返った。
カルチャーショックだった。
あの美しい瞳に目を奪われがちだが、瑪瑙の容姿はそれに見合っただけの端整なものだった。アーモンドアイなのに凛とした目元は、目尻にピンクのアイシャドウでもいれたかの様に艶っぽくて、血でも滴りそうなくらい紅い唇は白すぎる肌に良く映え、子供ながらに妖艶、彼女のケージの前に人だかりが出来るのにも納得ができた。他にも、シャープな鼻筋、顎のライン、細く美しいカーブを持つ首から背骨のラインに至るまで、黄金比率の様な洗練されたシルエットをしていて、神に愛されるとはこの事かと思った。
しかしそのたぐいまれなる容姿をも凌駕するくらい、瑪瑙は超がつく程臆病だった。それはもう、可哀想な程に。誰かがケージに手を伸ばしただけでパニックになり、ガタガタと物凄い音で金網を揺らし、置かれた場所からケージごと落下した。
調教師としては扱いづらい物件だったが、若かった俺は勢いに任せ、瑪瑙を購入した。国からは余りある程予算を貰っていたが、足りない分を自腹で賄ってやっと買えた。
その時の俺と言ったら、いい買い物が出来たとおおうでを振って国に帰ったものだが、今思えば、王へ見合った献上品を探し出したというよりも、自分好みの原石を見つけたという感覚に近かったと思う。まずそこから間違っていたのだが、青かった俺には、その数年後にやってくる誘惑の恐ろしさを想像すら出来なかった。

綺麗な子だな。
城の自室に戻り、間近で彼女を見て改めてそう思った。
「俺はセキレイ。君は今日から王への献上品として俺に調教される事になる」
よろしくね、とケージ越しに俺が手を出すと──
「イタタタタタタタタタタタタタ」
──思い切り噛まれ、俺は5針も縫う大怪我をした。

安易に連れて来た瑪瑙と始めた新生活は、決して容易なものではなかった。
とにかく何をするにも噛まれたし、言葉を発しない瑪瑙には俺の言葉が通じていない様に思えた。
俺は調教師としての自信をめっきり失い前後不覚になっていた。
それでも瑪瑙可愛さに調教そっちのけで愛情だけは注いできた。いけないとは思いつつもベタベタに甘やかして寵愛した。
そうしているうちに瑪瑙は俺の布団で眠る程懐いてくれて、俺は尚更彼女が可愛くなる。他人には絶対に気を許さない瑪瑙が、自分にだけは天使の様な寝顔を晒し、それがまた俺の独占欲を掻き立て、俺は彼女を束縛するようになる。その時から、瑪瑙の面倒を見ていて、将来、娘を嫁に出してやる父親の心境というものが理解出来た。

しかしそんな幸せの中、事件は起こった。

瑪瑙が『女性』になった。
周りよりずっと遅くなったが、瑪瑙に月のものがやってきて初めて、俺は彼女を『女性』だと認識した。
この頃になってもまだ、俺は一番教えておかなければならなかった性教育に全く触れてさえもいなかった。翠や鷹雄はとっくに子供達に教えていたのだが、俺は瑪瑙と王との営みを連想するのが嫌で故意に避けていた。あわよくば瑪瑙にはずっと自分だけの子供でいてほしかったのだ。
しかしこうなってはもう性教育を避けてばかりもいられなくなり、俺は子供向けの『コウノトリ』の絵本を図書館から借り、瑪瑙に読ませた。

けれど瑪瑙は全部知っていた。知った上で俺を誘ってきた。
彼女は熱っぽい視線で俺を挑発し、恥じらいながらも積極的にキスをしてきたかと思うと、今度は上手い具合に人の体をまさぐり始め、俺は欲情よりも驚嘆した。
昨日までの、あの臆病で純粋だった瑪瑙はどこへ行った?
瑪瑙の体は華奢でありながらもしなやかで美しい肉付きをしていて、軟らかくて触り心地がいい分どこに触れてもセクハラになりそうで、俺は両手を上げて彼女から離れる。
いつからこうなった?
気がつけば、瑪瑙はいつ側室や正室に選ばれてもおかしくない年齢にまで成熟していた。知識だって、調教師である俺を凌ぐ程豊富だった。
一体どこでこんな不埒な事を覚えたんだ!?
こんな事、教えた覚えはない。
俺はその知識にすら嫉妬して瑪瑙を問い詰めた。
すると瑪瑙は俺の心を弄ぶ様に赤裸々に語る。

『鷹雄さんから指南してもらいました』

──気が狂うかと思った。
性教育の『指南』なんて、要は実地訓練みたいなものだ。それをここまで手塩に掛けて純粋培養してきた箱入り娘が、あのふざけた医者モドキからその『指南』を受けたなんて、受け入れられなかった。
『どこまでやった!?』
『お前が誘ったのか!?』
『それでお前は良かったのか?』
俺はつい感情的になり、そんな風に瑪瑙をなじると、彼女の頬を思い切りひっぱたき、裸に剥いて貞操の無事を無理矢理確認した。酷いやり方をしたせいで瑪瑙は泣いていたけれど、俺はどうにも彼女を許せなかったのだ。
勿論、鷹雄の事はそれ以上にぶち殺してやりたかったが、瑪瑙の飼い主である自分がきちんと『指南』してやらなかったのが一番の原因なのだ、数発殴ったところで翠に止められ、自分でも少し反省した。

しかし時間が経てば経つ程、鷹雄と瑪瑙との間に何があったのか気になり苦しくなった。罰と称して彼女を部屋に監禁したりもした。そのせいで瑪瑙との間には気まずい空気が流れ、まともに話せない日が続いた。

どうしてこんなに許せないのか?

自分でも大人気ないのは解っていた。けれど理屈ではなく、まるで自分の物が汚された様で嫌だったのだ。

この調子でどうする?瑪瑙はいずれ王へ献上する、王の女なんだぞ?瑪瑙は俺の家族や、友人や、恋人なんかじゃあない、ただの犬なんだ、勘違いしては駄目だ。
──勘違い?
──何が?

自問自答するうち、俺は瑪瑙の事をどう思っていたのかやっと気が付いた。
俺は瑪瑙の事を恋人か何かと勘違いし、そのせいで瑪瑙もその様に勘違いしたのだ。

この感情を愛だと認めるのが怖かった。

相手は王への献上品。いかなる場合でも、手を出せば王への反逆とみなされ罰せられる。それは瑪瑙もしかり、不浄の烙印を押され、処断される。
駄目だ。俺は調教師だぞ、瑪瑙を立派に育て上げ、王へ献上するんだ、浮わついてなんかいられるか。
しかし瑪瑙への愛を意識してからは葛藤の日々だった。瑪瑙は俺の忍耐を知ってか知らずか、雷が鳴ると当たり前のようにベッドに潜り込んできては体をすり寄せてくる。俺を誘っているのか、試しているのか、俺は彼女を子供部屋に閉じ込めたが、あまりに雷を怖がるので可哀想になり、悩んだ挙げ句、結局、瑪瑙の手を後ろ手に縛って一緒の床に着く。
──しかし俺は途中から、寧ろこれはいけないプレイなのではないかと思い始め、朝まで悶々と過ごした。瑪瑙の拘束を解く時、その手首にロープの痕がくっきりと残っているのを見てしまい、逆に俺の征服欲に火が着く始末。
縛るべきは自分自身だったのかもしれない。
それもこれも、俺が調教師になったその日からずっと、性に触れる事を自分自身で律してきたからだ。
性を意識した途端、長らく我慢していた反動が大波の如く俺を苦しめた。

そこで俺は、当時、紅玉を調教していた翠に相談してみる。
翠に『どうやって禁欲しているのか』と尋ねると、彼は不思議そうな顔をして、逆に『何で溜まっているのか』と聞き返された。
そして真顔で『指南する際に発散されるだろ?』と言われ、俺は更に苦悩の深みへとハマる。
だから、指南(前戯)をしてしまったら、止まれなくなるだろ。
翠に『いかにして寸止めで止められるのか』と尋ねたところ『紅玉を想えばこそじゃない?俺は紅玉に幸せな暮らしを送ってほしいからいかがわしい指南もするし、その為の我慢もする。全ては紅玉の為だよ』と言われ、愛故に抱きたくなる俺にしてみたら参考にならなかった。しかし考えてみると、愛故にこうして悩んでいるのもまた事実な訳で、その相反する想いの間で揺れる事となる。
そして更に翠は──
『それに俺、淡白だから』
と眩しい笑顔を見せた。

次に、とても癪だったが参考までに鷹雄の意見も聞いてみた。鷹雄は希代のプレイボーイだった為、さぞや為になる話をしてくれるものと期待していた。
──のだが……
『我慢?何で?やればいいじゃん。せっかく自分好みに育てた愛娘を王にとられたくないんでしょ?ならGoだ。ライバルも減るしな~』と軽々しく言われ、彼がちゃらんぽらんで、俺達がライバル同士で凌ぎを削っていた事を思い出す。そこで俺は『だったらお前は自分の献上品に手を出すのか?』と食い下がると『勿論勿論。我慢なんか体と心に悪いじゃん。さすがにダリアには手を出さないけど、ユリの成長を心待ちにしてる』などと悪びれるでもなく言ってのけた。
確かに、ユリは献上品と言っても、正室や側室候補ではないイレギュラーな存在で、それも容認される。けれど、だからと言って、そんな、堪え性もない。
俺がげんなりしていると、鷹雄から街で女を漁るように勧められたが、瑪瑙を抱きたくてムラムラしているのに他の女相手ではそんな気分にすらなれなかった。

俺がどうしたものかと考えてあぐねいていると、唐突に瑪瑙が献上される日が決まった。
俺は勝手に、瑪瑙の献上の儀はまだ先だとたかをくくっていたが、たまたま瑪瑙の姿を見掛けた王が彼女を見そめ、俺の元に使いを出したのだ。

俺は動揺した。

そんな、まだ早い。瑪瑙はまだまだ未熟な子供だ。王の相手だなんて、とても役不足だ。
しかし本心を言えば、単に他の誰かに瑪瑙を触ってほしくなかったのだ。
王からお声がかかるとは千載一遇の願ってもない大チャンスなのに、俺は二の足を踏む。瑪瑙本人がどうとか言うよりも、俺の心の準備が全く出来ていなかった。
つい最近自分の心に気付いたばかりなのに、こんなの、早すぎる。心がついていかない。何年も毎日衣食住を共にしてきたんだ、瑪瑙を失ってしまったら、俺は空っぽになる。
もはや俺にとって瑪瑙は、褒美の権力を投げうってでも手元に置いておきたい、かけがえのない宝物になっていた。どうしても手放したくなかった。
だから俺は、瑪瑙はまだ未熟で王を満足させるには時期尚早だと献上の儀延期を王に打診したが、乗り気になってしまった王からそれを却下され、苦し紛れに口から出任せた『瑪瑙の月のものが明けるまでもう暫し時間を下さい』という嘆願を通した。
猶予は1週間。1週間で瑪瑙への想いに見切りをつけなければと思った。

部屋で瑪瑙に自身が献上される旨を話すと、彼女はギャン泣きして嫌がった。彼女自身、側室、ともすれば正室になって王の子供を産み、生涯何不自由ない暮らしを送る為ここまで頑張ってきたのに、いざその日が近付くと、全力で拒絶した。
「嫌だ!私は王のオモチャになんかなりたくない!ずっとセキレイさんと一緒にいたい」
「瑪瑙、俺だって苦しいよ。でもこうなっては誰にも止められない。お前が王を拒めば、お前の調教師である俺がお前を処断しなければならなくなる。そんな事、俺には出来ない」
俺は駄々をこねる瑪瑙を宥めたが、彼女はそれでも納得しない。
「ならいっそ殺して下さい。セキレイさんと引き離されるなら死んだ方がましです」
「だから、俺はそんな事したくないんだって」
「セキレイさんは私の気持ちを知っているのでしょう?それにセキレイさんだって、私の事……」
瑪瑙の気持ちは本気であると薄々気付いていた。瑪瑙もまた俺の気持ちに気付いていた。
「好きだよ。愛してる。でも──」
言霊というのは力があるのか、こうして実際に口にすると瑪瑙への愛が溢れて止まらなくなる。すると同時に、こんな時になって、翠の『紅玉の幸せを想えばこそじゃない?』という言葉が胸に刺さった。
「お前を王にくれてやるのは、お前の幸せを想えばこそなんだよ」
今なら、翠の言葉の真意が理解出来る。
瑪瑙も、心に響いたのか急にしおらしくなって覚悟を決めた。
「ごめんなさい。私は自分の事しか考えていませんでした。私も、セキレイさんの事を本当に愛しているから、セキレイさんの幸せを想えばこそ、王様にこの身を捧げ、何としても側室、あわよくば正室に上げてもらいます」
その言葉を聞いて、俺はホッとするよりも、絶望的な虚無感に襲われた。

それでもやっぱり、俺は瑪瑙を他の誰にもやりたくなかったからだ。

献上の儀までの1週間、瑪瑙は甘えたがったが、俺は離れがたくなるのを恐れて距離をおいていた。勿論、最後くらい……と瑪瑙に触れたくなったが、今、彼女に触れてしまったら歯止めがきかなくなりそうで怖くて、耐えた。

こうして煮え切らないまま献上の儀当日がやってきた。
その日は朝から夕刻まで瑪瑙の体の準備をして、本番直前には俺が選んだ白い和装の夜着を着せた。
やっぱりこれが一番よく似合う。とても綺麗だ。うっすら瑪瑙の白い肌が透けて凄く扇情的だ。
俺の胸は熱く高鳴り出す。
落ち着け、これは俺の物じゃない。王への献上品だ。俺が手を出していいものじゃない。
俺はそのように自分に言い聞かせ、ぐっと堪えた。
瑪瑙の髪は、王に押し倒された際にあんばい良く乱れるよう軽くまとめ上げ、最後に首筋にうっすら香水を振ると、俺はその首から鎖骨までのしなやかな曲線美にゴクリと生唾を飲む。
王は今日、このすぐ後に、この鎖骨から先にあるものを見て、触れて、舐めて、愛撫して、俺がここまで美しく育て上げた瑪瑙を堪能するのだ。
──そう思うと熱くなる情欲とは裏腹に、凄まじいまでの嫉妬がマグマの如く沸々と沸き上がり、胸がどうにかなりそうだった。
瑪瑙を買ったあの日から今ここに至るまで、彼女は俺の物だったのに。俺に懐いて、俺の事が好きで、両思いなのに。
俺は自分で大切に育てた瑪瑙を滅茶苦茶に壊してやりたかった。
そんな事を考えると急に彼女が惜しくなって、俺は我を忘れ部屋のベッドに瑪瑙を押し倒し、覆い被さって噛みつく様なキスをし、せっかく着付けた夜着を獣みたいにまさぐってはだけさせてしまう。瑪瑙の髪もあんばい良く乱れ、どサドな俺は、いたいけな彼女を無理矢理犯している様な倒錯的な錯覚に陥る。そうなるとせっかくこれまで我慢してきた理性が吹き飛び、俺は恥ずかしがる瑪瑙の両膝に強引に割って入り、王すらまだ見ぬ内腿に吸い付き、自分のマークを残してしまった。
「セ、セキレイさんっ!」
キスマークを見た瑪瑙に慌てて止められ、俺はやっと我に返ったが、彼女の柔肌に薔薇の花弁の様にくっきりとしたキスマークが残り、これは俺の物だと主張していた。
本当に危ないところだった。瑪瑙が止めなければ、俺は間違いなく最後までやっていた。
欲求不満にも程がある。
俺は、鷹雄に言われた通り街で女を漁るなり買うなりすれば良かったと反省した。
「ごめん。そこはコンシーラーで隠そう」 
「……はい」
瑪瑙は顔を赤くして静かに頷く。
俺は借りてきたメイク道具からコンシーラーを取り出し、恥らう瑪瑙の両膝に手を掛ける。
「もう、何もしないから、変な事をしてお前を困らせたりしないから、安心して」
俺が優しくそう言うと、瑪瑙は自分から両膝を開いた。
「お前は最後までお利口さんだね」
『最後』その言葉が2人に重くのし掛かり、重苦しい変な空気が流れる。
「触るよ?」
そう宣言して俺が瑪瑙のきわどい部分に触れると、彼女は喘ぐ様に短く声を上げた。
「ご、ごめんなさい、セキレイさんの手が冷たくて」
俺は、顔を真っ赤にして羞恥心に堪える瑪瑙を見ると、彼女が可愛すぎてたまらなく凌辱して虐めたくなる。
やっぱり俺はどサドだ。
チラリと瑪瑙相手に羞恥プレイをする煩悩が頭に浮かび、いかんいかんとそれを振り切る。
「あぁ……ごめん、ちょっと我慢して」
瑪瑙は狼狽えて脚を閉じようとしたが、俺はそれを押さえてコンシーラーを塗る。そこはマシュマロみたいに軟らかくて、俺を誘惑してくる。自分の体の中心に血が集まる感覚がして、俺は手早く作業を終わらせた。
とにかく生殺し感が酷かった。やっと誘惑から逃れたかと思うと、今度は瑪瑙の下着に目が留まり、俺の下腹が痛いくらい熱く滾った。
「……下着も取り替えた方がいい」
瑪瑙も、きっと最後までしたかったのだろう、俺は彼女の下着に『シミ』を見つけ、そっぽを向けて煙草に火を着けた。
苦しい。
やっぱり瑪瑙は可愛い。瑪瑙を誰にもとられたくない。

この時の俺は、どんなに時間が止まれと思ったことか。

再度瑪瑙の身支度を済ませ、いよいよ瑪瑙を王の寝室に連れて行く。
エレベーターで上昇する中、緊張で震える瑪瑙を後ろから抱き締めてやると、彼女の心臓がバクバク脈打っているのが伝わってくる。
「大丈夫だから、何も怖がる事はない。お前は俺の自信作なんだから胸を張って。お前なら必ず側室になれる。うまくすれば正室にだってなれるかもしれない。心配するな、俺が付いてる」
「セキレイさん、私──」
振り返った瑪瑙は泣き出しそうな顔をしていて、辛いくらい俺の庇護欲を刺激した。
そんな顔をされたら、さらってしまいたくなる。
「瑪瑙、幸せになるんだ」
そうなる事で俺の想いはきっと報われる。瑪瑙が幸せになれれば、俺はもう、それでいい。
「セキレイさん、私は──」
瑪瑙が何かを言いかけた時、エレベーターのドアが開いた。
「行こうか」
俺が歩き出すと、瑪瑙は唇を噛み締めてその後に続く。

コンコンコン
この建物のどのドアよりも大きく、彫刻が華美な扉をノックし、中から入るように促され、俺達は観音開きのそれを開けて王の寝室に入室する。
「セキレイ、ご苦労様。瑪瑙……だったかな?よく来たね」
王の声は春の小川の様に朗らかで落ち着いていて穏やかだった。
間接照明で薄暗くなった室内はとても妖しくエロティックで、だだっ広い部屋の中心にキングサイズのベッドが置かれ、その上から吊られた天がいの内側に王のシルエットが見えた。
「瑪瑙はまだ若輩者の粗品ですが、何卒ご寵愛を。大変臆病な子故、ちょっとばかり粗相があるかもしれませんが、どうぞお手柔らかにお願い致します」
俺は深々と頭を下げ、王相手に丁重に進言する。
初めてだし、せめて痛くないよう労ってくれるといいが……
瑪瑙の粗相も気掛かりだったが、彼女の体の事が一番心配だった。当の本人も怖がって俺の後ろで震えているし、ちゃんと夜の指南をして経験を積ませておくんだったと、今になって後悔する。俺は誇り高きサディストなのに変なところで瑪瑙が可哀想になり、同情してしまった結果だ。
瑪瑙への思いやりが裏目に出たか。でも寧ろ王は、怯える瑪瑙を労って優しくしてくれるだろう。
「なぁに、初めては何の事でも、誰でも怖いものだ。怯えるのは仕方がない。少しばかりの粗相には目を瞑ろう」
王の人柄は温厚で、普段から誰にでも隔たりなく優しい人格者だ。それに王は俺と同い年の青年、そこらの狸親父とは違う。そこまで心配する必要もないだろうと思った。
「お気遣い、痛み入ります。うちの子をどうぞ可愛がってあげて下さい」
こうして言葉にして瑪瑙を王に献上すると、これまでの瑪瑙との苦楽が走馬灯の様に頭に浮かび、目の奥が熱くなる。頭を下げると涙が零れ落ちそうだった。
これが、娘を嫁に出す父親の心境か。
「じゃあ、瑪瑙、何も酷い事はしないから、こちらにおいで」
俺がやけにしんみりしていると、王が天がいの隙間から手をこ招いた。
「瑪瑙」
瑪瑙の腰に手を当てると、彼女は助けを求める様な目で俺にすがってきた。俺はそんな瑪瑙が可哀想すぎて胸が締め付けられた。
くそ……
「俺がついてるから、王にご奉仕して差し上げて」
俺が優しく宥めると、瑪瑙は牛歩しながら王の元へ行く。
彼女を優しく送り出してやるのがやっとだった。内心は心臓をアイスピックで引っ掻き回されている様な酷い気分だった。
自分の手元を離れ、王の元へ行ってしまう瑪瑙の背中がやけに小さく感じる。
「初めまして、瑪瑙」
王がニコニコと天がいから顔を出し、瑪瑙は初めて王の顔を見た。
そして瑪瑙はこう思ったはずだ。
良かった。思ったよりずっと綺麗な面立ちをしているし、優しそうだ、と。
王はムサイ男臭さの全くないお方で、むしろ中性的でアンニュイな柔らかい雰囲気を持っている。そして一般的な、王の厳格なイメージとはかけ離れ、少しユルい空気感を持つ。それは見た目にも反映しており、笑うと目が無くなり、グッと距離が縮む親近感が出る。特に主張してくる顔のパーツは無いが、一つ一つが繊細な造りをしていて、美青年だとか、美丈夫といった表現がしっくりくる品のあるイケメンだ。
──そのせいか、俺の心境と言ったら複雑だ。
悔しいけれど、王は内面も清く、優しそうだから、きっと瑪瑙は俺の事も忘れて王を好きになるだろう。

それでいい……

「え、あの、あの……は、初めまして、瑪瑙です。本日はお呼びいただき誠にありがとうございます。今宵は精一杯ご奉仕させていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
瑪瑙は俺に教え込まれたテンプレートを棒読みで口にし、頭を下げた。
瑪瑙の奴、声が震えているじゃないか。どもってギクシャクしててぎこちないし、声も小さい……でもよく言えたな、頑張った。お利口さんだ、瑪瑙。さすが俺の自慢の子だ。
親バカかもしれないが、俺は心の中で瑪瑙を褒め称えてやった。
「随分と緊張しているようだね。調教は受けたはずだが、何かと不慣れな感じだ」
「は、はいっ、セキレイさんにしっかりと調教していただいたのですが、私が何ぶんグズな質ですから……すみません」
王の一挙一動にビクビクと肩を揺らす瑪瑙を見ていると、俺は気が気ではなかった。もし万が一瑪瑙がヘマをしたら、俺は太股に常備しているナイフで彼女を処断しなければならないのだ、手に汗も握よう。
「いいよ。不慣れなら、私が教えてあげよう。さあ、ベッドにお上がり。足元に気をつけてね」
瑪瑙が王に手を引かれ、チラリと此方を振り返ったので、俺は彼女を送り出すつもりで軽く頷いた。
瑪瑙の姿が見えなくなり、俺は事前の打ち合わせ通りベッドの横に膝を着いて待機する。
そうなのだ、調教師は事の最中でもベッドのすぐそばで献上品を見張っていなければならない。これは、敵国出身の献上品や、何処の馬の骨とも解らぬ献上品が王に謀反を働いたり、逃げ出さぬ為の監視で、他には、至らぬ献上品をサポートする為に居る。何も変態的な意味合い等ではなく、形は違えど歴史上王家の初夜などに見届け人は付き物なのだ。
けれど俺には耐え難い拷問でしかない。
薄い天がいのベールは、たとえ薄暗い間接照明であっても、目を凝らすと簡単に人の表情まで見てとれてしまう。

瑪瑙が王に穿たれて悦ぶ顔なんか、見たくなかった。

「あの、王様……どうぞ私にお情けを」
これも俺に言われた通り、瑪瑙は言ってのけた。つまりは『私を犯して下さい』という意味だ。俺は自分で瑪瑙に教え込んだのに、自分で自分の耳を削ぎ落としたくなる。
「不慣れだと思ったけど、実は君ってあざといのかな?そんなに頬を染めて伏し目がちに言われたら、逆に私は堪らなくなるよ?」
『ほらね』と王が瑪瑙の手を取り、俺は咄嗟に目を反らした。
「えっ!そんなっ」
瑪瑙の狼狽した反応で、彼女が王に何を握らされたかすぐに解った。

地獄だ。

胸が潰れそうだった。
見たくもないし、聞きたくもないし、感じとりたくもないのに、俺は拒絶する事を許されない。瑪瑙が王に失礼な事をしない様、全ての感覚を研ぎ澄ませて2人の情事を見張らなければならない。愛する人が他人に犯されるのを、だ。こんなもの、寝盗られフェチにしか耐えられない所業だ。俺は修行僧で、これは何かの修行か?それにいくら決まりといえど、本人達だって嫌なはずだ。
──余程の変態でなければ。
瑪瑙だって辛いだろう。初めてを初対面の男に奪われ、その様子を俺に全て見られるのだから、彼女が一番可哀想だ。実際、瑪瑙は布越しにずっと俺に目でSOSを送っている。
手を伸ばせば助けてやれるのに!
相手が瑪瑙でなければ興奮もしたのだろうが、今の俺は到底イヤらしい気持ちにはなれない。ベッドのすぐわきで気を揉むしかなかった。
「これを握っただけでこんなに怯えて、震えてるじゃないか。本当にうぶだね。調教でセキレイに握らされなかった?」
いかがわしい事をしているのに王の声は相変わらず穏やかで優しい。せめて、瑪瑙の初めての相手がこの人で良かったのかもしれないと思った。
「あの、セキレイさんは、あんまり……少しだけ鷹雄さんに調教していただきました」
瑪瑙がおどおどと恥ずかしそうに答え、俺は今になって鷹雄への殺意がぶり返す。
マジで鷹雄、ぶっ殺す。
「鷹雄?まあ、鷹雄は医師でもあるし、経験豊富だから指南役には適任だろうね。でも希代のプレイボーイである鷹雄から教わったってわりに……ふふ、面白い子だね」
王はくすりと笑いを漏らす。
「君がスレてなくて良かったよ。私は君みたいな純粋な子が好きなんだ」
そう言って王が瑪瑙に顔を寄せると、彼女はびっくりして一瞬顔を背けそうなる。
瑪瑙!堪えろ!
俺は手に汗を握った。
「うんっ……」
瑪瑙に俺の心の声が届いたのか、彼女はグッと踏み留まり、固く目を閉じて逃げ腰で王のキスを受ける。
心臓に悪い……
俺の心拍数が異常に上昇し、バクバクの心音が耳にうるさい。
チュクチュク…… 
ヌメヌメと湿った音が室内に響き、俺はギュッと両の拳を握り締めた。
耐えろ俺、全ては瑪瑙の幸せの為だ。瑪瑙だって耐えたんだ、調教師の俺が耐えられなくてどうする?
しかし王が薄布一枚を隔てたすぐ目の前で、あの瑪瑙の柔らかくぷっくりとした極上の唇を味わっているのかと思うと、もはや卒倒しそうだった。
本番まで俺の心がもたない……
瑪瑙を応援したい気持ちと、止めに入りたい気持ちが交錯し、俺は自分の葛藤と戦った。
「君は舌まで臆病なんだね」
王に笑われ、瑪瑙は済まなそうに身を縮めた。
「す、すみません。さくらんぼの茎でよく練習したんですけど、王様がお相手ですと、緊張して思うように出来なくて……」
そう言って瑪瑙が首まで赤面すると、王は途端に失笑する。
あぁ、瑪瑙、あまり余計な事を話すな。
俺はがくりと頭を垂れて片手で顔を覆った。
「君は本当に可愛い子だね。本当、堪らないよ。調教師が付いているのにキスの練習相手がさくらんぼの茎だなんて、君は相当セキレイに大事にされてきたんだね」
王はそれこそ堪らず瑪瑙を抱き締めた。
「はい、とても感謝しています」
「凄く愛されているね」
王の口からその言葉を聞くと、俺の心臓が軽く跳ねた。瑪瑙も焦ったのか、顔がひきつっている。
「あのサディストと噂のセキレイに純粋培養されて育ったなんて、驚きだ」
王は聞こえよがしにそう言った。
そんなに有名なのか?そんなもの、ただの噂のひとり歩きだ。
とはいえ、他人から言われるとちょっとばかしショックではある。
「よし、では瑪瑙には特別に別室でとても気持ちの良い事をしてやろう」
王は閃いた様に手を叩き、戸惑う瑪瑙の手を引いてベッドから下りた。
「セキレイ、見届け人のお前も付いて来い」
「はい」
──とは言ったものの、何故、場所を変える必要があったのか、俺は嫌な予感がした。
王がベッドのヘッドボード側の壁にある電飾をどうにか弄ると、ガチャンという金属音がして、一畳程の壁の板が手前に開いた。
隠し扉というやつだ。
王の後ろに立つ瑪瑙が不安そうに俺を振り返るので、俺は王に見えぬように彼女の手を握って安心させてやる。瑪瑙の手は冷たくて、恐怖で震えていた。
可哀想に、このままここから連れ去ってしまいたい。
今ならそれは出来た。けれど王が此方を振り返ると同時に、俺は瑪瑙の手を放した。
「いいかい?この部屋に入る前に何個か注意をしておくよ?」
俺も瑪瑙も黙って王の話に耳を傾ける。
「第一に、この部屋に入っても決して驚かない事。第二に、この部屋に入ったら決められた自分の役割を全うする事。第三に、この部屋の事は決して口外しない事。いいね?」
王が一つ一つ指折り説明すると、瑪瑙が控え目に手を上げた。
「どうしました?」
「あのう、部屋に入ってからの役割とは何ですか?」
そこは俺も気になるところだった。
「ごっこ遊びの事だよ。お医者さんごっことか」
イメクラ的な?好きだね、王様。瑪瑙にナース服でも着せる気か…………悪くない。個人的にはバニーガールをだな……
「私の役柄は……?」
瑪瑙が心配そうに尋ねると、王は彼女の頭を撫でて穏やかに言う。
「君はそのままでいいよ」
「そのまま?」
「そう、私が王様役で、君は王様にてごめにされる奴隷。セキレイはその保護者で、目の前で君が犯されるのを黙って見ているって役」
って、ごっこどころかそのまま過ぎだろ。
色々と闇は深い。
「だってそうでもしないと味気ないだろう?献上品だ儀式だなんて形式的な事、つまらないじゃないか。せめて、お互いに楽しむ為に役に没頭するのも面白いと思うんだよ。私はね、普段365日24時間四六時中王様をしていなければならない。ずっと国や民を守らなければならないというプレッシャーに晒されているんだけど、たまには王様を休みたい時だってあるわけだよ」
じゃあなんでわざわざ王様役をやるんだよ?休めよ。
俺は堪らず心の中で突っ込む。
「例えごっこ遊びで私がお医者さんをやったとしても、私は医者になりきれないんだ。王様だからね。でも私に王様役をやらせたら右に出るものはいないだろう?」
そりゃね。
「私はごっこ遊びで、王様を演じているっていう事実がほしいんだ。普段王様なせいか、王様を演じている間だけは、寧ろそれがお芝居であり、演技をしているからか、自分が王様である事を唯一忘れられるんだ。解る?」
……さっぱり。王様を拗らせ過ぎ。屈折し過ぎろだろ。
瑪瑙も目が点になっている。
ただ、王の闇が異常に深いって事だけは伝わった。
「じゃあ、どうぞお先に」
「は、はい。お邪魔します」
俺達は王に招かれ中へと侵入した。
するとどうだろう、俺達は室内を見るなり揃って閉口した。
なんと、小部屋の中央には純白のシーツが敷かれたベッドが置かれ、その周りや壁にはそれにミスマッチな用途不明の拷問器具がズラリと揃っているではないか。
「ねぇ、瑪瑙、こういうのって、セキレイから教わったかな?それとも、鷹雄から指南してもらった?」
「あの、あの……すみません、本当にすみません」
瑪瑙は答えられなくてモジモジと太腿を擦り合わせた。彼女の顔は顔面蒼白で、膝が笑い、今にも泣き出しそうだった。瑪瑙なりに、これらの用途不明な器具達が禍々しい事に使われるだろう事は理解しているらしい。
「瑪瑙にはこういった事は教えていません。瑪瑙は何も知らないひよっこですし、今日が初めてですから、最初はお手柔らかにお願いいたします」
本当なら王への口出しは認められていないが、俺は見かねて王に抗議した。
これは想定外だ。瑪瑙にいきなり三角木馬やら拘束器具はハードルが高過ぎる。瑪瑙の奴だって、恐怖でチビりそうになっているじゃないか。これじゃああまりにも不憫だ。
「純粋で、何も知らないからいいんじゃないか。純真で無垢だからこそ汚したくなるんだ。セキレイ、お前なら解るだろ?」
凄くよく解る。解るけれど、犯されるのが瑪瑙だと思うから、可哀想でそうもいかないのだ。
「でも、こんな……」
鞭やら蝋燭やらナイフやら、きっと瑪瑙の体はただでは済まされない、そう思った。
「私もね、酷い事は嫌いなんだ。でもね、代々この部屋を使用してきたご先祖様達の血が騒ぐんだよ。それに、善き王でいなければならない、国や民を守らなければならないっていうしがらみの反動が私を狂気に駆り立てるんだ」
狂気、正に狂気だ。この部屋にある物も、王も、正気の沙汰とは思えない。誇り高きサディストの俺が言うんだ、相当だ。
「まず、瑪瑙みたいないたいけな少女を見ると、こうしたくなるだろ?」
そう言うと王は、どこからか取り出した銀の首輪を瑪瑙に装置し、鍵を掛け、そこに繋がる手綱を手荒に引いた。
「あぁっ!」
「瑪瑙っ!」
咄嗟に俺も瑪瑙も互いに手を伸ばしたが、王に手綱を引かれ、すんでのところでそれを阻まれる。
「す、すみません」
「いいよ、気にしないで。でもこれからもし粗相をしたら、相応のお仕置きを与えるからね」
王はそう言うと、壁に掛けてあった様々な鞭の中から乗馬用の物を手に取り、そこにあった拘束椅子を叩いて見せた。鞭のしなる音と、空気を切る音、椅子にヒットした乾いた衝撃音、どれをとっても、瑪瑙を恐怖のどん底に突き落とすのには十分過ぎた。
「じゃあ、とりあえずあの三角木馬に乗って、乗馬から始めようか」
王は、そこにあった切り立つ三角の木馬を指差して屈折なく笑った。

王は鬼畜なうえに、大変など変態だった。

「す、すみませんすみませんすみませんすみません、出来ません!ごめんなさい、本当にごめんなさい、あれには乗れません、許して下さい」
瑪瑙は散歩を嫌がる犬の様にへっぴり腰で手綱を引き返す。
「何で?」
王は相変わらずにこやかに尋ねる。
「え!何でって!?とんがってるじゃないですか!」
瑪瑙は取り乱して手振り身振りで王に抗議した。
「そうだよ。とんがってる」
「裂けてしまいます!」
「──かもしれないね」
「あ……」
王に平然と言われ、瑪瑙はついに子供の様にギャンギャン泣き出した。
「瑪瑙、瑪瑙、落ち着いて、とにかく落ち着こう」
と言ったものの、俺もこの部屋に入ってから動揺が止まらない。自分でもどうしていいか解らなかったが、とにかくパニックに陥っている瑪瑙を落ち着かせようと肩を抱くと、彼女は迷わず俺の懐に飛び込んできた。
「セキレイさん!もうイヤだ!帰りたい!出来ない!」
「瑪瑙っ!?それは──」
それは決して王の前で口にしてはいけない言葉だった。王への拒絶や逃亡は処罰の対象になり、その調教師が責任をとって罰しなければならないのだが、瑪瑙は何度も何度も王に拒絶の言葉を吐き続ける。
「すみませんすみませんすみませんすみません、出来ません、無理です、私には出来ません」
「よせ、瑪瑙」
俺は瑪瑙の肩を揺すって正気に戻る事だけを祈った。
俺はお前を処断したくない。俺にこのナイフを使わせるな。
けれど震えて嫌がる瑪瑙を王に突き返してやれる程、俺は鬼畜にはなれなかった。ただただ、駄々を捏ねて丸くなる瑪瑙の体を強く抱き締めてやる事しか今の俺には出来ない。
「イヤだな、あれに乗れだなんて冗談だよ、割けちゃうからね。けれど君は王様に逆らったから、あれに乗ってもらう」
王は楽しそうに木馬を撫でていたが、なまじ爽やかな美青年なだけに、何を考えているのか、どこまでが本気なのかまるで読めず、尚更不安を煽られる。
「ほら、瑪瑙、こっちに来るんだ」
王が笑顔で鞭を振りかざし、俺は遂に見かねてそれを片腕で受けた。
これも王への反逆になるかもしれない。
そんな事が頭を掠めたが、もう、怖がる瑪瑙を見ていられなかった。
「セキレイ、お前も王に逆らうのか?」
王は目に見えて怒った顔はしていないが、逆に微笑しているのが心臓に悪い。
「王、いや……風斗、頼む。大事な子なんだ。傷付けないでくれ」
王の本名は風斗という。見た目に沿った爽やかな名前だが、名は体を表しても、内面までは表してくれなかったらしい。内面に関して言えば、外道とか、鬼畜がふさわしいだろう。
俺は瑪瑙を抱いたまま深く頭を下げる。
ちょっとした沈黙がやたらと長く感じた。
「……やれやれ、セキレイ、お前が私に頭を下げて懇願するとはね。いいだろう、今日のところは飼い犬の非礼は見逃してあげよう。私も、瑪瑙があまりに可愛いくて自分を止められなくて、少しばかり反省しているよ。性急過ぎたようだ。ごめんね、瑪瑙」
『ただ──』と王が付け加え、俺の片耳がピクリと反応する。
「1ヶ月猶予をやろう。私の性的思考は理解したはずだ、1ヶ月で瑪瑙を仕上げてくるんだ。それが出来たら、私は瑪瑙を正室として迎えよう」

瑪瑙を正室に?

これは願ってもない世紀の大チャンスだった。瑪瑙が王の凶行に耐えられれば、奴隷だった彼女の未来は約束される。俺だって、国をもらってその国王になれる。
──ただ、俺と瑪瑙の当初の夢が叶ったところで、何かモヤモヤするというか、釈然としない。
「けれど、もしまた私を拒んだら、次はないよ。それが決まりだからね」
王は怯える瑪瑙の首輪から手綱だけを外し、それを壁に掛けた。
選択肢は無いという事か。それでも、この国の王とあろうお方が、今回見逃してくれただけでも寛大な措置だったと言えよう。
──それもこれも、王は……

「今回は特別に見逃してあげるよ、お兄さん」

俺の弟だからだ。

王(風斗)は、俺と誕生日が数ヶ月しか違わない弟だ。その弟が何故、兄の俺をさしおいて王座に着いたのかと言うと、彼は前王が正室に産ませた子で、俺は献上品出身の側室の子だからだ。つまり腹違い。だから俺にはこの大帝国を動かせる権力がない。それで、1つの小国をかけて調教師を始めたという訳だ。
しかしながら兄弟と言っても、弟が若くして王に即位した時から2人の間には目に見えて大きな格差が出来た。それまでは特に敬語も使う事なく、世間一般の兄弟と同じようにじゃれ合ったり、喧嘩したり、仲直りしたりとよろしくやっていたものだが、いつから彼が変態性を身に付けてしまったのか全く気がつかなかった。寧ろ、あんなに温厚で、淡白な方なのかと思ったが、とんでもない外道だったとは、いっそ、そんな事でしか性的欲求を満たせない風斗も不憫ではある。

でも一番の被害者は瑪瑙だ。

あれから俺は瑪瑙を部屋に連れて帰った。
瑪瑙も、当初は取り乱して泣きじゃくっていたが、出窓に座って顔を伏せていた彼女に温かいココアを飲ませてやると、少し落ち着きを取り戻し、赤くなった鼻を啜った。
「今日は……色々と大変だったな。ごめんな、俺がちゃんとああいった事を教えていなかったから、びっくりしただろう」
青い瞳を真っ赤にする瑪瑙に、何と声をかけていいものやら悩んだが、その問いかけに彼女が頷くと大粒の滴がそこから溢れ、俺は瑪瑙の正面に腰掛け、彼女の涙を片手で拭ってやった。
ワンクッションおいていたら、話は違っていたかもしれない。
「……セキレイさん、今日は逃げ出してしまってすみませんでした」
瑪瑙が弱々しい声でそんな風に言うものだから、俺は庇護欲をかき立てられ、彼女を胸に抱いた。
「ごめんな、怖かっただろう。でも、これからちゃんと勉強して上手く対処出来るようになれば、お前は王の正室になって、幸せになれるからな」
「セキレイさん、私……」
俺のシャツの胸元が温く湿った感覚がした。
「あと少しだ。あと少しでお前は幸せになれる」
めでたい事なのに、俺は悲しい様な、寂しい様な、切ない気持ちで胸がいっぱいだった。
すると瑪瑙は俺の胸を突き返し、頭を下げる。
「……セキレイさん、ごめんなさい。やっぱり私はあの人の正室にはなれません。勿論、側室にも。私はあの人のオモチャになりたくない。さっきので自覚したんです。私には無理だって」
瑪瑙が絞り出す様な声で俺に訴えかけ、俺は焦った。
「瑪瑙、駄目だ。それは許されない。お前には王の物になる以外に選択肢はない。もし断れば、また奴隷として売られ、もっと酷い目にあわされるか、王のいかん次第では消される可能性だってあるんだ。何故そんな事を言うんだ?正室になる為にずっと2人で頑張ってきたじゃあないか」
俺が瑪瑙の両肩を掴んでその体を揺すると、顔を上げた彼女と目が合う。瑪瑙はまた泣いていて、こんな時だと言うのに、俺は不謹慎にもそれを堪らなくいとおしいと思った。
「解らないんですか?」
不意に聞かれ、俺は何の事やら首を傾げる。
「え?」
「私が頑張ってきたのは正室になる為ではなくて、勉強や訓練を頑張ればあなたが喜んでくれるから……あなたの事が好きだから頑張れた。セキレイさんに言われればあの木馬にだって乗るし、拘束されて鞭でぶたれても耐えられる。でも、それを王にされて、セキレイさんにそのなぶられる姿を見られるのは我慢なりません!」
瑪瑙は関をきった様に不満をぶちまけた。
けれど、それでも俺は瑪瑙を何としても諭さなければならない。
「瑪瑙、俺だって辛いんだ。せめて王がもっと普通の方ならいざしらず、風斗は……特殊だから、俺も見ていられないんだ。でも、その先にお前の幸せがあると信じているからこそ、こうして耐えてる」
「セキレイさんは何も解ってない。私が王様の奴隷になるのが幸せだと言うのなら、私は幸せになんかなりたくない。私は王宮での生活よりも、これまであなたと過ごしてきたかけがえのない日々の方がずっと大事だし、幸せでした」
普段、瑪瑙はあまり自分の気持ちを口にしないが、今日に限ってその言葉にとても力が込められていて、俺は途中からそれに引き込まれていた。何故なら俺も──
「駄目だ。絶対に駄目だ。お前は俺しか知らないからそんな戯言を言うんだ」
瑪瑙を拒絶しながらも、俺は本当の自分の気持ちを抑え込んだ。
「私はセキレイさんの事しか知りたくない!私はセキレイさんとずっと一緒にいたい。さっきので再確認しました。やっぱりどうしてもセキレイさんの事が好きなの。他の誰とも結婚したくない!セキレイさんだって、私の事……セキレイさん、私を抱いて下さい。そうしたら私は献上品としての価値がなくなります」
瑪瑙は真っ赤になってしまった瞳で俺を見つめ、俺の頬に触れる。瑪瑙の指先は冷たくて心地良かったけれど、俺はその手を取り、瑪瑙に返してやった。
「勘違いするな。俺にとってお前は大事な献上品でしかない。俺がお前を抱いたら、いかに俺が王の兄と言えど2人ともただでは済まされない。瑪瑙、頼むから聞き分けてくれ」
俺は瑪瑙を突きはなそうと些か冷たい口調で言い放った。
本当に、お願いだから俺を惑わせないでくれ。
瑪瑙は目に見えて傷付き、その大きな瞳を揺らした。それでも何かを訴えようと2、3回口を動かしたが、出てきたのは言葉ではなく、大粒の涙だけだった。
瑪瑙を傷付けた。
俺は堪らず瑪瑙から目を背ける。
ずっと大事にしてきた物をズタズタに、台無しにする虚無感は半端なものではなかった。
「お前さえ我慢してくれれば、俺は念願だった国王になれるんだ。頼むから駄々を捏ねないでくれ」
本当は、小さな国と瑪瑙を天秤にかけても、圧倒的に瑪瑙の方が大事だったが、今の俺には彼女を正室にする事でしか幸せにしてやれないのだ。これは彼女を愛する俺にとっても苦渋の決断だったが、それ以外に最善策はない。そうするしかないのならば、自分が嫌われても、瑪瑙には最良の人生を送ってほしい。たとえそれが彼女の望まない事でも。
「……そう、でしたね。すみません。自分の事ばかり考えていましたし……自惚れていました。セキレイさんは、私の事なんか、全……然……」
話しながら瑪瑙の瞳から次々と滴が落ちていき、それに耐える様に瞬きを我慢する彼女がどうにも意地らしく、俺は堪えきれずに瑪瑙を強く抱き寄せた。こんな事をしても瑪瑙を苦しめるだけだと解っていたが、今の彼女を放ってはおけなかった。俺がこうして抱き締めておかないと、瑪瑙は──

今にも消えて失くなりそうだと思った。

「セキレイさんが私を想って良くしてくれているのに、子供みたいに駄々を捏ねてワガママを言ってすみませんでした。セキレイさんが私の幸せを考えてくれるように、私もセキレイさんには幸せになってほしいです。ですから、王様の事も、怖い事も全て受け入れます。あの木馬にだって……乗ります」
瑪瑙はそう言って無理に笑って見せて、俺から離れた。

俺と瑪瑙に残された猶予は1ヶ月、瑪瑙からの申し出もあり、その1ヶ月間、俺は瑪瑙を鷹雄に預ける事にした。前回の指南の事もあり、鷹雄へは嫌悪感を募らせていたが、最後の1ヶ月間、正直、瑪瑙とどう接していいか解らなかったし、せっかく彼女が覚悟を決めてくれたのに、調教師の俺が離れがたくなるのが怖くて彼女を手放した。しかしそれでいて鷹雄と瑪瑙が共に肩を並べているのを見たり、夜、部屋に瑪瑙が帰って来ない日々を送っていると、2人が今ナニをしているのか考えてしまい、嫉妬で気がおかしくなりそうだった。雷の夜は特に瑪瑙の人肌が恋しくて眠れず、酒に頼った。時には我慢出来ずに見晴らしのいい場所から、乗馬を教わる瑪瑙を眺める事もあった。けれどそのくせ廊下で鷹雄の後ろを歩く瑪瑙とスレ違っても、目も合わせない。
そんな事をしているうちに俺の心はどんどん疲弊していった。
今でこそこのザマだ。瑪瑙が正式に風斗の物になれば、俺は脱け殻になってしまうかもしれない。
でもこれは全て瑪瑙の幸せの為、そう自分に言い聞かせた。

そんなある日、あのちゃらんぽらんから──

『お前はそれで本当にいいのか?』

──と聞かれた。
俺は『瑪瑙が正室になって、生涯幸せに暮らしてくれればそれでいいんだ』と答え、あの鷹雄を呆れさせた。そして鷹雄は『瑪瑙は飼い主に似たのかな?あいつも同じような事言ってたよ。あんたがどっかの国王になって、生涯幸せに暮らしてくれればそれでいいってさ』と俺に教えてくれた。
『互いに、互いの幸せを祈ってるってのに、どっちも幸せじゃないって、何か報われなくね?お前ら2人共幸の薄い顔してさぁ、お互いに自分が思う幸せの押し付けっこしてるだけで、相手の本当の幸せの事なんかまるでスルーしてんじゃん?何が楽しいのかねぇ、俺は寝盗られフェチだからお前の境遇なんか好物でしかないけど、お前にその気はないんだろ?』
『ない』
俺はキッパリと答えた。
『ならさ、狼に子羊預ける様な真似すんなよ』
『調教師の中でお前が一番アブノーマルな知識が豊富だからな、瑪瑙の、今後の役に立つと思って。それに、お前はちゃらんぽらんだが、ユリがいるから絶対に一線を越えたりはしないだろ?』
鷹雄は勘に障る奴だが、それでも一応友人の1人だ、信用はしている。だから可愛い瑪瑙を託した。それに鷹雄にはしっかり者のユリがいる。
『まあ、ユリは俺の抑止力だからな。でもまあ、寂しかったら貸してやるぞ?』
『出た、寝盗られフェチ、抑止力がなくなったらお前は瑪瑙を襲うんだろうが』
『そりゃな』
当たり前のように答えた鷹雄を俺は軽く睨みつけた。
『却下だ』
『けどな、一線は越えないが、それに近いきわどい事はしてるんだぞ?例えば素◯だの、アナピーだの、相互ピーだの、◯ィルドにバ◯ブにロー◯ー、コスプレ、手錠をしたり、亀◯縛りで蝋燭を垂らしたり、鞭でぶったり、しかも基本全てハードプレイ仕様だ。知ってるか?お前がストーキングしてる乗馬の時間、実は瑪瑙にリモコン式のピーをだな──』
『アーーーーーーー!!アーーーーーーー!!アーーーーーーー!!』
俺は咄嗟に耳を塞ぎ、自分の声で鷹雄の楽しそうな言葉を遮断する。
解っちゃいるが、実際に耳にするのは聞くに耐えない。そういうのは想像の域を越えてはならない。
『お前だって解ってて俺に瑪瑙を預けたんだろ?てか何で自分で指南しないんだよ?俺は変態だが、お前はサディズムの専門家だろ?』
『専門家言うな。俺に抑止力はないからな、絶対、最後までヤってしまう自信があるんだよ』
好きな子を前に、寸止め出来る訳がない。それにこれは俺のリハビリでもある。こうして瑪瑙を鷹雄に預ける事で彼女が初夜を迎える前に、自分の心に免疫をつけられるだろうと思った。
『威張って言うなよ。別に、ヤりたいなら最後までヤればいいだろ?国が欲しいなら国を手に入れる、瑪瑙が欲しいなら瑪瑙を手に入れる、単純な事だろ?国と瑪瑙、どっちを手に入れたいんだよ?』
『瑪瑙だよ』
『ならGoだ』
鷹雄が馬鹿みたいに親指を立てて目を輝かせ、俺は本当に馬鹿みたいだと思った。
『Goじゃねーよ、俺だけの問題じゃないんだよ』
『そうさ、お前だけの問題じゃない。瑪瑙の幸せを考えるのは解るが、瑪瑙の気持ちも考えてみろ。あいつの望まない未来を与えてやってもあいつは幸せになれない。あいつ本人が幸せだと感じなければ、それは幸福とは言えないんだ。このままだと瑪瑙を不幸にするぞ?』
鷹雄の言葉が嘘みたいにガツンと俺の心に響いた。
俺は瑪瑙を不幸にしたい訳じゃあないんだ。

『自分の気持ちに正直になれ』

結局、俺の背中を押したのは、ちゃらんぽらんが言ったありきたりな言葉だった。

俺はその足で瑪瑙を迎えに行くと、有無も言わさず彼女を強引に自室へ連れ去った。
「何なんですか?」
瑪瑙をベッドに下ろすと、彼女は不機嫌そうに脚を組んでトゲのある言い方をする。
「瑪瑙……久しぶりだね」
瑪瑙は暫く見ないうちにすっかりグレていた。
それもこれも全部俺が悪い。俺が瑪瑙を不幸にしていたからだ。
「傷付けてごめん。お前から逃げ出してごめん」
俺は瑪瑙の目の前に膝まづいて、彼女を見上げる。
「今更なんなんですか?」
「お前が怒るのも無理はないし、許さなくていい。でも聞いてくれ」
一応、色々と言葉は考えていたが、本能でここまで来たせいか、実際に俺から発せられた言葉は何の味気もない、俺らしい不粋なものだった。

「俺とここから逃げよう。俺がお前を幸せにする」

それでも瑪瑙はこの上もなく喜んでくれて、俺の一世一代の『プロポーズ』を2つ返事で受け入れてくれた。
そして瑪瑙とキスを交わした時、俺は彼女を選んで本当に良かったと思った。
国なんかいらない。瑪瑙さえいてくれればそれだけでいい。俺が瑪瑙を独り占めにするんだ。


「──とまあ、俺と瑪瑙はそうして駆け落ちしたんだよ。これが1年前の話」
長々と語った挙げ句、俺は不自然に話を締めくくった。
「でも……」
翡翠は俺と瑪瑙の顛末を気にかけたが、聞いてよいものか躊躇う。
「やっぱり、何で俺だけ城に戻っているのか気になるよな?」
「はい、すみません」
謝り方が瑪瑙とそっくりだな。頑固な時と素直な時とのギャップもよく似てる。
「いいんだ。ここまで話しておいて結末を教えないとか、狡いし、罪だよな?それにこれは教訓だから、ちゃんとお前に伝えないとな」
改めてあの時の事を話すのは翡翠が初めてだ。
俺は一呼吸おいて、また口を開いた。
「もう、翌日が約束の1ヶ月後だったから、俺らはその日の夜に城を出る事にした。ユリ以外の献上品はいかなる理由があれど城の外には出ちゃ駄目なんだが、俺は警備を撹乱したり、車やバイクのタイヤをパンクさせるからと言って瑪瑙を先に逃がしたんだ。それで後から合流する手筈だった。けど、計画の途中で邪魔が入り、俺が足止めをくらっている間に瑪瑙は警備兵に見つかり、散々逃げ回った挙げ句……この城のはずれにある崖に追い込まれて……」

『瑪瑙は崖から落ちて死んだ』

そこまで言わなくても、翡翠は理解して、後はもう何も聞いてこなかった。
「瑪瑙の事は単なる脱走として片付けられ、俺は何のお咎めもなくここまでのうのうと生きてきた。こんな事になるなら、瑪瑙の事は本人が泣いて嫌がろうと無理矢理にでも王の正室にするんだったと今でも後悔している。瑪瑙を自分の物にしたい独占欲とか、瑪瑙を俺が幸せにしてやるっていう驕りが瑪瑙を殺した。俺がもっと早くに彼女と合流出来ていれば……全部俺のせいなんだ」
こうして言葉にすると、やっぱり後悔の念は今でも新鮮に俺を蝕み、胸を締めつけた。
「俺が再度調教師としてお前を引き取ったのは、自分が褒美で国を貰うのも目的だが、多分、今度こそは自分の献上品を側室にして、幸せにしたいと思ったからなのもかもな」
今度こそ、必ず。
「私の事、瑪瑙さんと重ねて見てますよね?」
翡翠がボソッと呟き、俺が『え?』と聞き返すと、彼女は『いいえ』と首を振った。
「瑪瑙さんの事、今でもとても大切に想っているんですね」
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実際、雷の夜に辛くなるのは翡翠よりも俺の方かもしれない。嫌でも瑪瑙を思い出しては、苦しくて、恋しくて、虚しくなる。だからこそ、翡翠がベッドに潜り込んで来た時は少しだけ寂しさがまぎれた。
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「……くない」
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無理しちゃって、可愛い動物だな。
俺の口元が僅かに緩んだ。
それはそうと、翡翠がこうして俺に気を許してくれたのは、俺が少しばかり心の内を見せたからだろう。成る程、鷹雄の言っていた『信頼ってのは、まずは自分が礼儀を示す事から築き上げられていくものだ。誠意を見せろ』という言葉も満更でもない。
──ただ、俺は瑪瑙の時の様な同じ轍を踏むわけにはいかない。その為にあの話を翡翠に聞かせたのだから。
「なあ、翡翠」
「はい」
翡翠は眠そうに目を細めながら応えた。
「お前は俺の事が嫌いだろ?」
当初なら、翡翠は即答で頷いただろうが、彼女は思いの外返事を模索し、そっぽを向いて俺のズボンを握り締める。
「……私は人間が嫌いです。誰の事も信用しません」
翡翠はここに至るまで、想像を絶する程の悲しみと悔しい思いをしただろう、家族を目の前で殺されたのだ、そう思うのは当然だ。そしてその憎しみのまま俺と儀式の日までの道のりを過ごしてくれれば、きっと万事上手くいく。俺の事は、家族とも、友人とも、恋人とも思わないでいてくれたら気も楽だ。お互いに情が移ってしまったら、瑪瑙の時の様に別れが辛くなるだけなのだから。
「翡翠、お前は本当にお利口さんだな。それでいいんだ。俺の事は嫌いで構わない。それに──」
俺は風斗と血を分けたサディストだから、きっとこれからの調教で俺の事を嫌いになるだろう。寧ろそうなってくれて構わない。
「それに?」
翡翠がひょっこりと頭を持ち上げ、不思議そうな顔で俺を見上げてきた。
ミーアキャット、いや、プレーリードッグか……
「いや、もう少し大人になったら、きっと俺の事がもっと嫌いになるからな」
風斗のSM好きは、翡翠には敢えて言葉を濁して伝えたので、いずれ自分がそのSMプレイに特化した調教を受けるとは露程も思っていないだろう。

可哀想に。
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