蜜柑色の希望

蠍原 蠍

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蜜柑色の彼と色褪せた世界

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  プラットホームに流れる淀んだ空気は、初春だというのに冷たくて身を凍えさせる。僕は背筋をブルリと身を震わせて、寒さを紛らわせるように腕を摩った。
 見渡して、そんなに汚れてはいない駅と静かに整列して電車を待っている人々を一瞥すると、今日という日の中で一番心を穏やかで居させてくれる。
 唸るような地響きと共に僕は時間通りに来た列車の様子に、本当に日本では列車が時間通りに来るのだなと何回目になるかわからない驚きに目を瞬かせて、人混みの流れに従い列車へと乗り込んだ。
 椅子はみっしりと人で埋まっていたので、僕は扉の近くの場所に立つ事に決めて、電車が程なくして発車して、流れる窓の外の街並みを何となしに眺めて、やはり住んでいたアメリカとは全く違うなと、それ以上でも以下でも無い感想をぼんやりと持ちながら窓の外を眺めた。
 ふと、外で煌めく夜景の光が、昼に出会った蜜柑色の頭髪を持つ青年を思い出させて、僕は思わず眉に力が入る。
 思い返すとまた腹が立って仕方なくなってきたので、小さく息を吐いてその感情をやり過ごす。
 
 激情に任せて叫んでしまったその後、教室に戻った僕は、できる限り自分の左隣も見ないようにしようと心に決めて、あの蜜柑色を目にしないようにしてやろうと心に誓っていた。だが、それにも関わらず、彼はチャイムが鳴ると同時に勢いよく教室のドアを開き、まるでフリスビーを追いかける犬のように転がり込んできて、とても大きな声で「セーフだ!」と叫んだので、その勢いに思わず僕は彼を目に入れてしまう。
 周りも驚いた様子を見せて、でも直ぐに彼に「早く座りなぁ」と笑う女子生徒や「先生くんぞ」と呆れたようにしかし楽しげに口元を緩ませる男子生徒に彼は軽くおう、と返して僕の隣の席に腰掛けた。
 その様子と先程の僕が出て行った時も彼が気にかけられていた様子も相まって、随分の人望があるんだなと思い知らされて、その事実はあまり面白くはなくてフン、と鼻を鳴らした。
 
 その後、直ぐにクラスの担任である眼鏡を掛けた生真面目そうな担任がやって来て、自己紹介や学校での生活の事を説明されてた後には、早々にその日は帰宅するように伝えられた為、クラスメイト達が楽しげに話す中、僕はそそくさと誰よりも早くに教室の外へと向かった。
 廊下に出る一瞬に、目の端に捉えた彼は大人数のクラスメイトに囲まれて笑っているのが見えた。
 気にしないようにしようと思う程、彼を見ないように意識してしまっているのだと、その時気がついて、薄暗い気持ちが心を満たし、明日はそうはならないように気をつけようと、軽く唇を噛み締める。
 
 そんな事を電車内で思い返しているうちに、伸ばされた背筋が様々な事が重なった疲れで若干、丸くなり、僕は電車の壁に寄りかかった。
 何時もならば、そのような育ちが悪い行為をする事は無かっただろうが、今はとても直す気になれず寄りかかってしまった。
 僕はこれから毎日を、この日本で送ることができるのかと、不安が心の内に渦巻き身体を駆け巡ったが、そうするしかないのだから不安に思っても仕方ないのだと、雑に自分自身に言い聞かせ渦巻く不安を何とか鎮めようと、息を吐く。
 そんな中、電車の窓に写る自分の顔は、昼間、あのトイレの鏡で見た時と同じような、霧雨が降る曇り空のような顔をしていた。酷い顔だ。僕、黒瀬光がこんな顔をしているのは自分の人生の中で無いに等しい事だったし、輝く事こそが、楽しむ事こそが、音楽に直結すると幼い頃から思っていたからできる限り、そうなれるようにと過ごしてきた。
 でも、今は違う。
 口角は垂れ下がり、目は虚。音楽が無いピアノを無くした僕になんて一欠片の輝きも無い、まるで死んだサメのような目だ。
 僕は力無く項垂れて、揺れる電車に身を任せる。
 そんな時に思い出したのは、素晴らしい音楽家、巨匠サディ・ヴァイアンから表された幼い頃に貰った言葉だ。
『こんなにも幼いのに目を瞑ればそこには老熟したピアニストが存在する…私の前に、ピアノという翼を持った天使が現れた』そんな言葉を巨匠がそう言ってくれた時は、天使なんて気恥ずかしいし大袈裟だななんて思ったのだけれど、でも確かに尊敬する巨匠からそんな言葉を貰えたのは嬉しかった。
 でも僕はその言葉は今は間違いだったのだと、強く思った。
 天使ならば、羽根を無くしたとしても人間として生きていく事ができるだろう。僕にとって音楽は、自分自身の全てを構築しているものだったのだ。
 この顔も体も心も、そして手も、全て音楽を奏でるための物だったのにそれを無くした僕はただの抜け殻だと、思った。
 悲しいとか辛いとかそういう気持ちではなく、ただただぽっかりと自分の本体が無くなってしまったような、無気力感が襲う。
 ぼんやりとただ流れる景色を見ていると、アナウンスされる駅名に、我に帰った。
 祖父と祖母の家がある、自分の自宅の最寄り駅の名称だ。僕は今まで持った事はなかった指定された肩がけのバックを背負い直して、背筋を伸ばす。
 少しずつ、速度が遅くなる列車の揺れを感じ降りる心構えを持った。
 
 ◇
 
 神奈川県横浜市にある、閑静な住宅街。そこの一等地に鎮座する一軒家が、祖父母の家であり、これから僕の自宅になる家であった。
 僕が帰ると、祖父は居間で新聞を読み、祖母は早くも夕飯の支度を整えて僕を待っていた様子だった為、さっさと帰ってからの身支度を整えて夕食を頂いた後は用意された自分の部屋へと真っ直ぐに向かい、ベッドの上へと腰掛け、今日一日中強張らせていた肩の力が自ずと抜けた。
 祖父と祖母は父方の血縁者であり、母方の血縁者とは違い、音楽に携わって生計を立ててきた人達ではないと言うのは幼い頃に聞かされていた話だった。
 僕の父、黒瀬大和は有名なピアニストであり厳粛でありながら情熱が内に潜み、燃える高原のような演奏をする実力も申し分のない、ピアニストなのだが、そのピアニストを輩出したと思えないほど、この家には音楽を感じさせる欠片が無かった。
 数日前に空港まで迎えに来てくれた祖父母に、最初にこの家に連れて来られた時は口には出さずとも内心で驚いたものだったが、今は音楽やピアノを感じさせるものが無い方が僕としても都合が良かった為、特にその事には触れずに祖父と祖母にお世話になります、と伝えた。すると、目元は厳粛な父とよく似た面影のある祖父の瞳に僕が写ると同時に軽く頷き、祖母は「よろしくね、光さん」と口数は少なかったものの迎えてくれたのは記憶に新しい事だった。
 元々、祖父も祖母もとても口数が少ない人達のようで、二人ともあまり喋る事はしなかったが、それは父も同じだったし自分もそこまで喋る方では無かったから、とやかく喋り掛けられるよりかは良かった。
 今、音楽の事や病気の事をとやかく言われるのはきつかったから、その事に触れられないのは僕としては助かっていた。
 一年程前は、病気を治そうと同じピアニストである母に様々な病院に連れまわされて、神経科脳外科、心療内科、果ては精神科まで毎日のように連れて行かれていたのは、病気を治す為だと思っていても、辛い事であった。だから日本でも同じように、祖父祖母に病院に行くように言われたら気が滅入りそうだった為、そこは本当によかった。
 しかし、それはもう音楽家として祖父母には全く期待されていない事を意味しており、そもそも日本に行くように言われた時点で既に僕は見限られていたのに、更に突き放されたような途方もない気持ちにさせられた。
 
(どうしてこんな事になってしまったんだろう)
 
 自ずと湧き上がるその疑問の答えなど、誰よりも身に染みて分かっているのに何度もその問いを繰り返してしまうのは僕の弱さだろう。
 僕はその原因となった時のことを脳裏に思い返す。
 あの時、人生をドン底に落としたその病気が発病したのは、遡る事二年前の事だ。
 
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