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 ライトは今日は私服だった。
 ギャザーのついたずいぶんとふわふわした服を着ている。
 以前より少し髪の毛が伸びていて、少し日焼けしていた。
 だけど間違いなく、彼女に違いなかった。
 心臓がどきどきと、少しずつ、だんだん大きな音を立て始めた。
 自分のほほを強く握る。痛みで顔をしかめてしまった。
 夢、じゃあないんだ。

「いきなり何をしているの」
「ご、ごめん」
「ちょっと。聞こえているなら先に返事してよ!」

 彼女は怒ったような表情を作り睨んでくる。
 申し訳なくてどう謝ったらいいだろうと考えていたら、すぐにころころと笑い出した。

「そんな悲しそうな顔をされたらこっちが申し訳なくなるよ」
「ごめん、そんなつもりじゃないんだけど」

 彼女に心臓の音がきこえているんじゃないだろうか?
 そんな不安を感じながらなんとか言葉を返した。
 うまくどもらずに言えたことにほっとする。
 今日起きてから、言葉を発したのは今のが初めてなのだ。

「どうして……ここに?」
「気が向いたら来るって言ったじゃん」

 確かに言っていた気がする。
 でもそんなに簡単にこちらに来れるものなのだろうか。
 それともやっぱり彼女はぼくが見ている幻覚なのだろうか。

「実はさあ。先月だっけ? この世界のこと夢を見ていたんじゃ無いかって疑っていたんだよね。だってわたしだけが見えない世界で、そこではわたしは本の住人なんてあまりにもおかしいから」
「……本じゃ無くて演劇の脚本」
「そう、その脚本。それでやっぱり前のが夢だったのかどうか確かめようと思ってさ。また電車に乗って見たの。それで降りたらトヨジがいてさ。ああ、やっぱり夢じゃ無かったんだなって」
「それはええと。向こうで電車に乗れば、いつでもこちらに来れるってこと?」
「そうなるのかな」

 たまたまつながった彼女が住む平行世界は一回きりでは無かったらしい。
 彼女といつでも会えることが嬉しくて、ほほが緩みそうなのを抑えるのに内心必死だった。 
 ライトはというとぼくから視線を外して周囲をきょろきょろと見回している。

「今日はショウと一緒じゃ無いんだね」

 ああ、そうか。彼女はぼくたちを友達同士だと思っているんだ。

「今日は、友達と遊びに行っていると思う」
「サッカー部だっけ? トヨジは演劇の勉強か。明日から夏休みなのに偉いね」

 彼女がぼくのことを勘違いしていることを思いだした。

「か、勘違いだよ。ぼくは演劇が好きなだけ。この間の台本は、本当はちょっと痛い出来事の産物なんだ」

 しどろもどろながらになりつつもそれは彼女の勘違いで、単なる趣味であることを説明した。
 元々人に見せるつもりも無く、あの日たまたま松川君に見つかったのだ
 慣れない説明をなんとか終える。
 ライトは黙っていた。
 ぼくが将来の映画監督とかでなくてがっかりしたのかもしれない。

「トヨジの話はおもしろいよ。わたし本もほとんど読まないし他の脚本なんか読んだこと無いけど、トヨジのはおもしろかった」

 唐突にそんなことを言った。

「え? そ、そうかな」
「うん。ショウも同じ事を思ったと思う。今度はまたちゃんと読ませてもらっていいかな」
「それは、まあ……」
「本当? 約束ね」

 大きな目を細めて、彼女はうれしくて仕方が無いって気持ちがあふれるように声をたてて笑った。
 それだけで暑さが和らぎ、殺風景なこの古びた街が華やぐような明るい笑み。
 ああ、どうして彼女のほほ笑みは魅力的なんだろう。
 もちろんぼくが想像できる限りの魅力的な表情を設定した。
 だけど彼女は夢や妄想では無くて、実在する個人だというのに。

「そういやさ。トヨジはあれから何をしていたの」

 さっきまで笑っていたかと思えば、ころりと話が変わる。

「たいしたことは、して、ないけど」

 いきなり尋ねられて、しどろもどろ答えた。

「わたしの方もたいしたこと無かったなあ。あ、テストはどうだった。通信簿はかえって来ているんでしょ?」
「ぼ、ぼくはそんなに成績良くないから」
「ははは、わたしもだ。あ、そうだ。この間大きな火災あったじゃん。それってこっちでもあったのか気になっていたんだ」

 彼女は話題がぽんぽん飛ぶので、元々会話についていくのが苦手なぼくには答えるのが難しかった。
 きちんと受け答えできなくて、嫌な思いをさせてしまっているのではと心配になる。
 元々説明下手な上にしゃべると頭がだんだん真っ白になっていくから、本当にちゃんと話を出来ているか不安だった。
 ぼくの内心など気にせず、彼女はなんだか楽しそうにいろいろな話をする。
 近所の猫がどうとか。
 よくいくケーキ屋の味が変わっただとか。
 最近見つけた小物がとても気に入っているだとか。
 はじめのうちはこの間のように二つの世界の共通点とかを意識していたようだけど、途中からはどうでも良くなっていったようだ。
 ぼくはほとんど頷いてばかりだったけど、人と話すときに生じるいつもの気まずい緊張感が不思議とない。
 ふと気付けば日が紅くなりはじめていた。

「あ、もうこんな時間なんだ」

 スマホで時間を見ながら彼女は初めて気がついたように大きな声をあげた。
 本当にそうだ。
 学校の何もしない休み時間はあれほど時間がたつのが遅いのに、彼女と話すとどうしてこんなに時間が経つのが早いのだろう。

「トヨジは今日用事とか無かったの?」
「今日は別に……」

 普段からぼくはそんなに用事があるわけではない。

「そうなんだ。わたしの方はあるんだ」

 ぼくの自意識過剰でなければ、本当に残念そうな様子だ。

「今日は夜、ママが外に食事に連れて行ってくれる約束をしてくれていて。まさか本当にこっちにこれるとは思わなかったから」
「そんな……気にしなくてもいいよ」

 もう一度会えただけで、彼女がこことは違う世界で確かに実在しているだけで充分だった。

「トヨジ、また来るね。今度来たときはトヨジの脚本をちゃんと読ませてね」
「え? う、うん。いつでも待っているよ」

 また来てくれるのなら、その日朝からでもずっと彼女を待つ。
 彼女と過ごすのが、夏休みで一番有意義なことに間違いない。

「じゃあ今度はショウも誘っておいでよ。あ、そうだ。今まではトヨジが駅に偶然いたけど今度は日にちを決めておいた方が良いよね」

 彼女は鞄からスマホを出すと、しばらくそれをいじったり眺めたりしてから四日後を指定した。
 ぼくに問題があるはずも無く、彼女はまた来るねと笑顔を振りまきながら、やってきた一両だけの電車に乗り込む。
 そして前と同じように電車が見えなくなるまで、ぼくは見送った。
 電車が見えなくなると、さっきまでの彼女が本当にいたのか不安になる。
 やっぱり彼女は実在する人間だとはまだ信じられない気持ちがある。だってぼく相手に沈黙することなく会話を楽しみ、それでいてぼくに会うためにまた来てくれるだなんて。
 ほほを触ると、体温が指先から伝わる。
 胸に手を当てると、普段より少し早い心臓の音が感じられた。
 じゃあやっぱり夢でもなくて、ぼくは死んでしまったわけでもないんだ。
 ずっと話していたいなんて気持ちを、ぼくが持っているなんて思わなかった。実在のライトは、ぼくが作り出したライトより天真爛漫で、なんだか天使のようだ。
 気分がすごく高揚しているのを感じた。
 ずっと不調だったけど、今ならいい話が思いつきそうだ。
 思い切り楽しい喜劇がいい。
 スキップでもしようかという足取りで、ぼくは誰もいないマンションへと駆けだした。
 
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