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三十三話 謀殺
しおりを挟む天正三年(西暦1575)五月 家康からの長篠城後詰めの派遣依頼の使いは、何度となく繰り返し、信長の元へと送られてきていた。
長篠城が包囲されて、既に約一月。
徳川家の総兵力 八千。かたや、勝頼のひきいる武田軍は一万五千。
この時、城を包囲された家康には、信長を頼る以外、生き残る術は無かった。
再三の後詰めの要請に、信長は、5月の半ばになってようやくその重い腰を上げた。
家康からの再三の要請に対して、後詰めの兵をすぐに出陣させなかったのには訳があった。
今から一ケ月ほど前、武田が動いてすぐのこと、信長は重治だけを呼び出し、今後の対策を綿密に立てていた。
「信長様。この戦いは、武田家との戦いという意味とは別に、我が織田家の強さを他の諸大名たちに見せつけ、我が織田家に刃向かう事は、無駄である事をこの国全ての大名に印象づける大事な戦いであります」
「……うむ」
重治が、理論立てながら慎重に選ぶ言葉を信長もまた、真剣に受け止めていた。
「幸いな事に、今度の戦いにおいては、雑賀衆の協力の約束を取り付けております」
「それは、まことか!?」
重治のその言葉に驚いたのは、信長だけでなかった。
そばに控えている小姓の蘭丸でさえも、半信半疑ながらその驚きを露わにしていた。
重治の口から出された雑賀衆の名は、本願寺との戦いで、常に敵方として織田家の前に立ちふさがり、信長に煮え湯を飲ませ続けていた苦々しい名前であった。
そんな敵対していた雑賀衆を味方に付けてしまったと、重治は言う。
重治に仕える忍びと雑賀の当主、孫一との関係がたとえあったとしても、味方にするなど想像にも出来る事ではなかった。
「重治様、まことに雑賀衆が我らの味方に!?」
興奮した蘭丸は、思わず言葉を発していた。
その言葉には、今まで重治を敵対視していた蘭丸の角のある言葉とはまるで違い、尊敬さえ感じられるほどのものに変わっていた。
「雑賀が味方してくれるなら、秀吉様の編み出した退却戦で用いた三段攻撃が可能。我が織田家の圧勝は間違いありません」
雑賀衆は、鉄砲傭兵集団である。
その集団が、味方に付けば、今まで以上の大量の鉄砲による攻撃が可能となる。
蘭丸は、興奮を隠せず、そう言葉を続けていた。
しかし、蘭丸の口から語らた、鉄砲での三段攻撃の策を秀吉に授けたのが重治本人だとは、信長が真実を語らない以上、蘭丸が知る術はない。
重治は、少し照れた笑いをしたあと、織田家の武田軍に対する対処を語り始めた。
「雑賀衆をまとめ引き連れて、孫一殿が、来月になれば来られる手はずが出来ております。それまでは、無用な出陣を控えて頂きたいのです」
「うむ、わかった」
信長は、重治の言葉に一切の疑いを持たず、そう答えた。
それは、これまでの重治の行動に対する結果への全幅の信頼の証しであった。
信長が織田家の主だった諸将を集め、軍事評定を開いたその日、岐阜の街には、一種異様な出で立ちの集団が続々と入り、集まってきていた。
その集団の風体は、どうみてもマタギそのもので、背には鉄砲を担ぎ、目をギラギラとさせている。
岐阜の街は、大きな戦いを控えて、異様な緊張漂う空気が充満していくようであった。
その一種異様な出で立ちの集団が、岐阜の街に現れる前夜、重治の屋敷に怪しい動きで近づく者がいた。
そして、その怪しき一つの影は、誰にも気づかれることなく、重治の屋敷の塀を楽々と飛び越え屋敷の中へと忍びこんでいった。
この日の月は、厚い雲に覆われ、月明かりは遮られ、足元さえ見えないそんな闇夜のような日であった。
そんな闇夜の中でも、その忍びこんだ影は、全く躊躇することなく、自分の目的の場所へと迷うことなく近づいた。
影は、その目的の場所に近づくと、更に、慎重にゆっくりとその目的の部屋へと近づいていった。
『バァーン』影の近づく部屋の障子が突然開け放たれた。
その瞬間、たじろぐことなく、その影は大きく後ろへと飛び退いた。
「何者!!」
「……」
その者は、何も応えない。
「なにようがあって、忍びこんだ!!」
無言の全く殺気を放たないその影の者に、才蔵は再び言葉を浴びせた。
「……」
「どうした!曲者か!?」
異常に気づいて最初に飛び出してきたのが、才蔵の住まう離れに一番近い部屋の山崎新平であった。
「……」
影の者が、たとえ殺気を放っていなくても、屋敷の者、誰一人に気づかれることなく侵入してきた相手である、相当な手練れである事に間違いない。
才蔵は、手に持った刀の柄に、ゆっくりと手をやった。
「どうした!?」
新平に続いて、伊蔵に重治、末松も慌てて離れのある裏庭へ現れた。
「……ふぅ」
曲者と覚しき影の者が、小さくため息をはいた。
その時、才蔵の背後が明るくなった。
才蔵の妻、魅録が灯りを持って出て、才蔵のすぐ横にたった。
魅録の手に持たれた灯りが、曲者を照らし、すの姿を浮かべあげた。
「あ、あ、あにうえぇ~」
静かな深夜の岐阜の街に魅録の叫びが響き渡った。
なんと、灯りに照らし出された曲者は、魅録の兄であり、雑賀衆を束ねる長でもある雑賀孫一であった。
「兄上、い、いったい、どういうおつもりですか‥‥」
魅録が強い口調で怒鳴りつけ、兄の孫一を睨みつけた。
「‥‥おお、我が妹、魅録よ、久しいな。‥‥あ、兄としてはだな‥‥、未だ、めでたい知らせの来ないのを心配してだなぁ……」
「だから、忍びこんだと!?……才蔵様、この曲者は、兄上ではありません。切り捨ててしまって結構です!!」
「な、何を、妹よ。あ、兄は悲しいぞ!!」
芝居がかったセリフのように言葉を並べた孫一は、袖を目にあてて大袈裟に泣くまねをした。
「し、知りません」
そういうと魅録は、孫一を睨みつけたあと、部屋の奥へと入っていってしまったのである。
「重治殿、面目ない。お騒がせ致しました」
妹、魅録に対する態度とはうって変わって、孫一は急に真面目な表情に変わり挨拶をした。
こんなドタバタ劇が、繰り広げられた翌朝早く、重治から信長に知らせが送られた。
重治からの知らせを受けた信長は、すぐに主だった諸将を集め、軍事評定を開く旨を蘭丸に告げた。
信長の命を受けた蘭丸は、すぐさま評定開催の準備に取りかかっていった。
集まった者達の中に、この評定の意味のわからぬ者は誰一人としていない。
これまで何度も辛酸を舐めさせられた武田家に、今こそ目にもの見せる機会と、信長の出陣を諸将達は今か今かと待ちわびていたのである。
「皆も知しっておるであろうが、今、徳川の長篠城が武田軍に包囲されておる。家康の後詰めの要請に応じて、わし自らが出陣いたす」
「うぉおぅー」
かくして評定に集められた重臣たちの前、信長の口から徳川の後詰めとしての出陣が告げられた。
そんな評定から三日後の五月十六日、武田騎馬軍に対する準備を万全に整えた、織田軍三万は、居城である岐阜城から出陣を開始した。
もちろん、その三万に追従する織田の正規軍とは、まるで装いの違う二千五百の雑賀衆鉄砲隊の姿もあった。
三河の国に入った信長は、長篠城の手前、設楽原に陣をしく事を選択。
大量の鉄砲を有することを利用するため、三重の土塁を築き馬防柵を作り上げ、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術をとれるこの場所を選んだのである。
織田軍、設楽原着陣にあわせ、家康も八千の兵を率いて居城岡崎を出陣して織田軍と合流した。
設楽原に陣をしいた織田・徳川連合軍に対して、武田陣営では、激しい軍議が繰り広げられていた。
信玄の代からの重鎮、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊らは、信長自らの出陣の報告を受けて、撤退を強く進言していた。
しかし信玄の後継として、武田家をまとめる立場の勝頼は、この時、信玄に仕えていた重鎮からの信を未だ得ておらず、対立は深まっていった。
勝頼は、対立した重鎮たちの進言を受け入れることなく断固として戦いを主張し続けた。
かくして激しい軍議の結果、新たな当主、勝頼の意見が通ることとなり、織田・徳川連合軍との決戦がここに決定する。
勝頼は、長篠城を牽制するため、三千の兵を残し、一万二千の兵をもって設楽原に進軍を開始した。
徳川軍が合流して戦力的にも絶対的に優位にたった織田軍で、主要な武将を集めての軍議が開かれていた。
「このまま、長篠城を見殺すわけにはまいりません。たとえ、織田軍の力を借りられなくても……」
「たわけ。忠次!かってな行動は許さぬ。よいな!」
信長は、徳川家の重臣、酒井忠次を強く叱責した。
長篠城は、武田侵攻から一月の間、落城することなく、何とか守り抜いてはきていたが、それも既に、限界を迎えていた。
その知らせを受けていた酒井忠次が、この軍議において長篠城を包囲する武田軍を強襲する事を提案したのである。
織田軍の戦術は、この陣をしいた設楽原で武田軍を待ち受ける事に決まっている。
ここにきての戦術変更は、有り得なかったのである。
少し話しからは脇道に外れるのだが、長篠合戦を迎えている、今の織田信長の状況を簡単に説明させてもらう。
既に信玄がいない武田家。そして近畿をほぼ制圧下に置いている織田家。そんな両家とでは、圧倒的に力関係がはっきりとしていた。
武田家には織田領を攻め込むだけの力は既になく、信長が、その気にさえなれば、織田家単独の力にて、一気に滅ぼす事さえ可能なほどであった。
信長と家康の同盟を交わされたときの約定に、信長は東に、家康は西に、互いに勢力を伸ばさない不可侵の約束が成されていた。
その不可侵の約束は、ずっと守られ続け、これまで信長は東への侵攻を一切していない。
この長篠の合戦においても信長のとった戦術は、決して武田軍をうち負かすために重きを置いたものではなかった。
直接ぶつかることなく、甲斐の国に撤退してくれれば、信長の後詰めとしての面子はたった。
早い話、信長にすれば、少しでも犠牲が少なければ良かったのである。
軍議が終了した夜遅く、忠次の陣に、前触れなく重治が突如として現れた。
「これは竹中様。こんな夜更けに、なにようでございますか!?」
忠次は警戒した。
主である家康の変化を感じている者として織田家の守護神である重治の来訪は、忠次にとって予想外のことである。
「‥‥忠次様、昼間に提案された策。どれほどの時で、準備できますか?」
「??」
重治は、淡々と話しを続ける。
「信長様より、昼間の忠次様の策を実行せよとの命を受けてまいりました」
「ま、まことでございまするか!?」
重治は、忠次に、にっこりと微笑んで一つ頷いた。
長篠城を救うための後詰めである。
長篠城を見捨てて武田軍を打ち破っても、本末転倒。全く意味を成さない。
信長の性格からして大を生かす為に小を見殺すことなど出来はしない。
軍議の時の叱責は、諜報活動をする武田の忍びに対してのカモフラージュにすぎなかった。
信長は、最も信頼する人間、重治に、長篠城解放を託したのである。
忠次にしてみれば予想外も予想外。織田家のほうから手をさしのべられたのである。
「し、しばらくお待ちを、‥‥す、すぐに準備を……」
忠次は、そばにいる与力達に詳細な指示を出すと、共に自らが駆け出していた。
準備の整え終えた忠次率いる東三河衆に、織田家の金森長近などの与力を加えた四千の兵は、五月の二十日、早朝、日のあがる前に、密かに豊川を渡河、尾根伝いに鳶ヶ巣山砦の背後に回り込んだ。
そして日の出と共に、長篠城包囲の要となっていた鳶ヶ巣山砦を強襲。
長篠城を包囲する三千の武田軍を一掃する事に成功した。
この忠次の強襲が成功することによって、勝頼の率いる武田軍は、後方にある長篠城を抑えられ挟み込まれる事となる。
勝頼は、撤退の道さえ、絶たれることとなったのである
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