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【番外編2】出会いから二十年後ぐらいの二人
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家族となって初めての二人きりの夜、それはいつもと変わらない日常だというのに、少しだけ気持ちを浮き足立たせていた。
書類上の関係が変化した……ただそれだけの事実が、自分にとっていかに重いことだったかを感じさせる。
「睦月さん」
呼べば、チラリと視線だけこちらに向けてくる。
「やっと、名実ともに家族ですね」
ソファーに沈む彼の隣に身体を滑り込ませれば、クッと喉で笑う睦月さんの吐息が耳をくすぐる。目元に笑いじわが浮かぶのを間近で見て、そんな表情の変化一つが愛おしくて胸がうずく。
年を重ねるごとに増す迫力は、相も変わらずその筋の人間じみている。落ち着きのあるゆったりとした動きは人を威圧することこそなくなったが、代わりに人としての重みがにじみ出て、どこか圧倒される。けれど年を重ねただけ顔に表れる人柄は、厳めしい顔つきの割にどこか優しげだ。こわいというより頼りがいのある印象を抱く者が多いだろう。
「……お前と、家族になれる日が来るとは、思わなかったな」
「本当に大変でしたよ。散々拒否してくれる人がいましたからね」
皮肉を漏らせば、隣で楽しげに喉を鳴らす老成した男から、笑みが返される。
「いつ、お前に捨てられるかと思いながらここまで来たが、四十も過ぎればさすがにもう、普通の幸せをお前に望むのは、オレの身勝手なんだろうな」
「そうですね。二十年付き合った最愛のパートナーに、他に女を作れと言われる俺の身になって下さい。あんまりだ」
溜息をつきながら肩をすくめれば、悪そうな笑みを浮かべた彼がすっと手を伸ばして俺の頬を撫でる。
「これだけの男ぶりだ。お前がその気になれば、今からでも若い女の一人や二人、簡単に引っかけられるだろうに、……お前は、こんな五十も半ばのジジイを選ぶのか。ひどい悪趣味だ」
「まだそんなことを言いますか」
「言うさ。一生言い続けるだろうよ」
クックと笑いながら楽しげに彼は話す。いつになく饒舌だなと思いながら、「そろそろ信じてくれても良いでしょう」とぼやけば、彼はゆるりと首を振る。
「……信じてるさ。お前に一生言い続けることが出来ると、いつの間にか思い込むぐらいには」
その言葉の意味を、一拍遅れて理解する。
この人は、「一生」オレに言い続けるつもりでいるのだと、その意味は……。
感情の塊がこみ上げ、喉をぐっと締め付けた。
「オレの思い描く未来に、いつの間にかお前の存在が当たり前にいることに気付いた。これから先、十年、二十年、いつまで生きていられるかは分からんが、死に別れるその瞬間まで、当たり前のようにお前が側にいると思い込んでいる自分に気付いた。……未だ、お前の人生をゆがめた負い目を捨てきれないくせに、だ。不甲斐ないもんだ。いい年をしてこうしてお前に不安をぶつけて甘えるだけ甘えて、もう身を引く気はなくなっている自分に気付かされる」
思いがけない言葉に息をのむ。何か言おうとして、けれど言葉にならないまま、ただ耳を傾けるしかできなかった。
「……今日結んだ縁は、お前の親父さんとオレが結んだ縁だ。だからお前からはオレと切れようたって切りようがない……などと、喜んでいる。この年になっても、欲なんて物は捨てられねぇもんなんだなぁ」
うっすらと笑みを浮かべ、つらつらと独り言のように紡がれる言葉が、じわりじわりと胸の中に染み渡る。
「誠悟、お前はすごいな。お前と出会ってからずっと、オレは信じられないぐらい幸せをもらっている。オレでは超えられない物を軽々とのり超えて、オレを引っ張ってゆく。そしてあり得ないと思っていた未来を、オレはいつの間にか信じるようになっていた。お前がオレを望み続けてくれていたから、今がある。オレが今、あり得ないほどの幸せを手にしているのは、全てお前のおかげだ。……お前は、本当にすごいな」
低い声で淡々と語られる言葉を、ただ聞いていることしか出来なかった。いつも軽々しく言葉を繰り出す調子の良い俺の口は、今は何一つふさわしい言葉を見つけられず、震えるばかりだ。柄にもなく喉を詰まらせ、首を振るぐらいしか出来なくなっている。
静かに笑う初老の男を抱き寄せて、震える声をしぼりだし「ずるい人だ」とその耳元でなじった。
この人は、そんな言葉ひとつで、俺を簡単に幸せにするのだ。
さっきまで、この人の人生をようやく絡め取ったのだと、喜びに震えていた。そんな胸にくすぶっていた昏い喜びが、今はひどく遠い。代わりにそれを覆い隠すほどの温かい幸せがオレを包む。
「誠悟、ありがとう。言葉では言い現せられないほど、お前には感謝している」
くぐもった声が胸元を震わせる。抱き寄せる身体が、信頼を預けるように寄りかかってくる。背中に回された手が俺を抱きしめ返してくる。
年々増える白髪交じりのその髪をそっと撫でた。以前ほどの艶はもうないが、そうなってもなお自分の隣にいてくれるというこの人の存在を、強く感じた。
愛おしいという感情は、どこからあふれるのだろう。なぜ男を好きになったのか、どこが好きなのか、何が愛おしいのか、それすらも、もう分からなくなっている。ただ、この人がここにいて、情を自身に傾けてくれることが、ただ幸せで、ただ愛おしい。
いつ手元からこぼれてしまうか分からない不安のまま、執着じみた愛情に突き動かされてここまで来た。
無様にあがき続けた二十年だった。上手くいかない日々に悔やみ続けた二十年だった。そんな後悔にまみれたこれまでの日々を思い返し、きっと、それで良かったのだと、初めて思い至る。
彼は終わりに向かって進むばかりで、俺は彼を自分の元に留めることに必死だった。
安定は余裕を生む。余裕は不安を生む。
必死に脇目も振らず求めているときには雑音でしかないことでも、余裕があれば悩ましい出来事になり得るのだ。例えばそう、男同士で生きていく未来……などもそのひとつになり得るだろう。
俺は彼を引き留めることに必死で、彼との未来に不安を覚える余裕など与えられなかった。
苦しさと焦燥感にまみれたそれらの日々が、幸運だったと、今になって気付くのだ。
今なら分かる。
彼が俺との未来に恐れを抱いていたという事実が、俺に睦月さんを必死に追いかけさせた。結果、俺から逃げ道を奪っていた。逃げるという考えすら浮かばなければ、必要性も当然感じていなかった。
もし彼が俺との関係に前向きであり、俺を信頼していたのなら、恐らく俺はその関係に傲っていただろう。幸せを得て安定し、退屈し、やっかいな未来に煩わしさを覚え、逃げていただろう。
安定に傲った挙げ句、彼から距離をとったり、女に浮気する自分が、容易に想像できた。
そして、その結果、俺は彼を失う羽目になっていたはずだ。その先にあるのは、退屈で面白みのない、幸せなどどこにもない、平穏な日常だなんて、思い描きもせず。
そんな「もしも」を想像しただけでぞっとする。
この二十年、俺は未来を信じてくれない彼の様子に苦しんだ。いつも終わりを見据えて、そのうち別れるのが当然という姿勢が崩れない彼に、いつも不安をかき立てられた。なぜ信じてくれないのかと恨みがましく思ったことさえあった。
信じられるわけがない。彼の不信は当然だ。彼は、俺という人間を俺以上に知っていたのだ。二十代、三十代の俺では、彼の生涯のパートナーに、なり得なかった。
そんな自分の本質に気付かず、ひたすらに、俺を見てくれ、俺を信じてくれと足掻き続けていた日々に、無駄は何一つなかったのだと、今なら思える。
そんな無様な二十年だったからこそ、きっと俺はこの人を手放さずにすんだのだ。がむしゃらに欲しがるばかりでいたからこそ、この人は俺を見捨てることができなかった。
それは苦しくて、幸運に恵まれた二十年だった。
「オレが、お前に返せる物が、あるだろうか」
身体を預けてくるこの人が苦笑するのを、腕の中のかすかな揺れで感じ取る。
言葉を返そうとして口を開いたが、けれど何の声も出せないまま口を閉じた。
喉が軋んで震えていた。
今声を出せば、情けなく震えてしまうだろう。いい年して泣きそうになっているのを知られてなるものかと、今更くだらないプライドを振りかざし、何度も唾液を飲み込んでから、ようやく普通を装って声を絞り出した。
「俺の幸せこそ、あなたが与えてくれた物です。日々の充実も、人を愛する喜びも、未来への渇望も、全てあなたが教えてくれた」
楽に生きるだけなら、きっとあなたがいない方がずっと楽だった。けれど、それはきっと、ひどく退屈で何の面白みもない人生になっただろう。誰もが羨んで、どこから見ても幸せで、なのに内実はくだらないことで退屈を紛らわして、物で満たすばかりで心が満たされない日々。人が愛だ充実だと人生を謳歌するのを、横目で見て馬鹿馬鹿しいと鼻で笑っている自分。睦月さんのいない生活とは、きっとそういうことだ。
この人と出会ってからの俺は、退屈とは無縁だ。いつも必死で、苦しくて辛くて、思い通りに行かないことばかりで、幸せで、毎日が充実して、愛おしさにあふれていた。この人が与えてくれた幸せは、本当に得がたい物だった。
あなたも、同じように思ってくれているのだろうか。俺との日々が、他では得がたい幸せであると。
「すごくないですか? お互いが相手から与えられた物で幸せになっているなんて。あなたと俺は、最高のパートナーって事だと思いませんか?」
答えを促すように腕の中の人の顔をのぞき込めば、厳めしい顔をしたその人は、ふいと身をよじるように顔を背け、歪むような笑みを浮かべた。
「……そうか」
わずかに震える語尾に、彼の精一杯の肯定を感じ取る。それが例えようもなく嬉しくて、まぶたの奥が熱くなるのを感じながら、歪んだ彼の笑みにつられて俺も笑う。
「そうですよ」
「……すごいな」
「ええ、すごいことです」
ふっと彼の表情が緩んだ。俺の腕の中には柔らかな笑みをたたえたその人がいて、それが嬉しくて俺もまた笑みを深める。そのまま互いに緩く抱き寄せあい、二人でクスクスと笑いながらキスをした。
数日後、後継者を気取った俺と会社で顔を合わせた時、この人はどんな顔をするだろう。少しは驚いた顔をしてくれるだろうか。最後にはなんだかんだ言いながらも、喜んでくれるだろうか。
これからまた、この人に鍛えられながら過ごす毎日が始まる。きっと思い通りに行かないことばかりとなるだろう。けれどその歯がゆさも苛立ちも、最後にはこの人と共に乗り越えてゆく心地よさに帰結し、俺を楽しませてくれることだろう。
思い描くそんな毎日は、なんと面白く幸せなことだろう。
きっと俺は、これからも、あなたとともに歩いて行けるこの幸運を噛みしめながら、生きていくのだろう。
書類上の関係が変化した……ただそれだけの事実が、自分にとっていかに重いことだったかを感じさせる。
「睦月さん」
呼べば、チラリと視線だけこちらに向けてくる。
「やっと、名実ともに家族ですね」
ソファーに沈む彼の隣に身体を滑り込ませれば、クッと喉で笑う睦月さんの吐息が耳をくすぐる。目元に笑いじわが浮かぶのを間近で見て、そんな表情の変化一つが愛おしくて胸がうずく。
年を重ねるごとに増す迫力は、相も変わらずその筋の人間じみている。落ち着きのあるゆったりとした動きは人を威圧することこそなくなったが、代わりに人としての重みがにじみ出て、どこか圧倒される。けれど年を重ねただけ顔に表れる人柄は、厳めしい顔つきの割にどこか優しげだ。こわいというより頼りがいのある印象を抱く者が多いだろう。
「……お前と、家族になれる日が来るとは、思わなかったな」
「本当に大変でしたよ。散々拒否してくれる人がいましたからね」
皮肉を漏らせば、隣で楽しげに喉を鳴らす老成した男から、笑みが返される。
「いつ、お前に捨てられるかと思いながらここまで来たが、四十も過ぎればさすがにもう、普通の幸せをお前に望むのは、オレの身勝手なんだろうな」
「そうですね。二十年付き合った最愛のパートナーに、他に女を作れと言われる俺の身になって下さい。あんまりだ」
溜息をつきながら肩をすくめれば、悪そうな笑みを浮かべた彼がすっと手を伸ばして俺の頬を撫でる。
「これだけの男ぶりだ。お前がその気になれば、今からでも若い女の一人や二人、簡単に引っかけられるだろうに、……お前は、こんな五十も半ばのジジイを選ぶのか。ひどい悪趣味だ」
「まだそんなことを言いますか」
「言うさ。一生言い続けるだろうよ」
クックと笑いながら楽しげに彼は話す。いつになく饒舌だなと思いながら、「そろそろ信じてくれても良いでしょう」とぼやけば、彼はゆるりと首を振る。
「……信じてるさ。お前に一生言い続けることが出来ると、いつの間にか思い込むぐらいには」
その言葉の意味を、一拍遅れて理解する。
この人は、「一生」オレに言い続けるつもりでいるのだと、その意味は……。
感情の塊がこみ上げ、喉をぐっと締め付けた。
「オレの思い描く未来に、いつの間にかお前の存在が当たり前にいることに気付いた。これから先、十年、二十年、いつまで生きていられるかは分からんが、死に別れるその瞬間まで、当たり前のようにお前が側にいると思い込んでいる自分に気付いた。……未だ、お前の人生をゆがめた負い目を捨てきれないくせに、だ。不甲斐ないもんだ。いい年をしてこうしてお前に不安をぶつけて甘えるだけ甘えて、もう身を引く気はなくなっている自分に気付かされる」
思いがけない言葉に息をのむ。何か言おうとして、けれど言葉にならないまま、ただ耳を傾けるしかできなかった。
「……今日結んだ縁は、お前の親父さんとオレが結んだ縁だ。だからお前からはオレと切れようたって切りようがない……などと、喜んでいる。この年になっても、欲なんて物は捨てられねぇもんなんだなぁ」
うっすらと笑みを浮かべ、つらつらと独り言のように紡がれる言葉が、じわりじわりと胸の中に染み渡る。
「誠悟、お前はすごいな。お前と出会ってからずっと、オレは信じられないぐらい幸せをもらっている。オレでは超えられない物を軽々とのり超えて、オレを引っ張ってゆく。そしてあり得ないと思っていた未来を、オレはいつの間にか信じるようになっていた。お前がオレを望み続けてくれていたから、今がある。オレが今、あり得ないほどの幸せを手にしているのは、全てお前のおかげだ。……お前は、本当にすごいな」
低い声で淡々と語られる言葉を、ただ聞いていることしか出来なかった。いつも軽々しく言葉を繰り出す調子の良い俺の口は、今は何一つふさわしい言葉を見つけられず、震えるばかりだ。柄にもなく喉を詰まらせ、首を振るぐらいしか出来なくなっている。
静かに笑う初老の男を抱き寄せて、震える声をしぼりだし「ずるい人だ」とその耳元でなじった。
この人は、そんな言葉ひとつで、俺を簡単に幸せにするのだ。
さっきまで、この人の人生をようやく絡め取ったのだと、喜びに震えていた。そんな胸にくすぶっていた昏い喜びが、今はひどく遠い。代わりにそれを覆い隠すほどの温かい幸せがオレを包む。
「誠悟、ありがとう。言葉では言い現せられないほど、お前には感謝している」
くぐもった声が胸元を震わせる。抱き寄せる身体が、信頼を預けるように寄りかかってくる。背中に回された手が俺を抱きしめ返してくる。
年々増える白髪交じりのその髪をそっと撫でた。以前ほどの艶はもうないが、そうなってもなお自分の隣にいてくれるというこの人の存在を、強く感じた。
愛おしいという感情は、どこからあふれるのだろう。なぜ男を好きになったのか、どこが好きなのか、何が愛おしいのか、それすらも、もう分からなくなっている。ただ、この人がここにいて、情を自身に傾けてくれることが、ただ幸せで、ただ愛おしい。
いつ手元からこぼれてしまうか分からない不安のまま、執着じみた愛情に突き動かされてここまで来た。
無様にあがき続けた二十年だった。上手くいかない日々に悔やみ続けた二十年だった。そんな後悔にまみれたこれまでの日々を思い返し、きっと、それで良かったのだと、初めて思い至る。
彼は終わりに向かって進むばかりで、俺は彼を自分の元に留めることに必死だった。
安定は余裕を生む。余裕は不安を生む。
必死に脇目も振らず求めているときには雑音でしかないことでも、余裕があれば悩ましい出来事になり得るのだ。例えばそう、男同士で生きていく未来……などもそのひとつになり得るだろう。
俺は彼を引き留めることに必死で、彼との未来に不安を覚える余裕など与えられなかった。
苦しさと焦燥感にまみれたそれらの日々が、幸運だったと、今になって気付くのだ。
今なら分かる。
彼が俺との未来に恐れを抱いていたという事実が、俺に睦月さんを必死に追いかけさせた。結果、俺から逃げ道を奪っていた。逃げるという考えすら浮かばなければ、必要性も当然感じていなかった。
もし彼が俺との関係に前向きであり、俺を信頼していたのなら、恐らく俺はその関係に傲っていただろう。幸せを得て安定し、退屈し、やっかいな未来に煩わしさを覚え、逃げていただろう。
安定に傲った挙げ句、彼から距離をとったり、女に浮気する自分が、容易に想像できた。
そして、その結果、俺は彼を失う羽目になっていたはずだ。その先にあるのは、退屈で面白みのない、幸せなどどこにもない、平穏な日常だなんて、思い描きもせず。
そんな「もしも」を想像しただけでぞっとする。
この二十年、俺は未来を信じてくれない彼の様子に苦しんだ。いつも終わりを見据えて、そのうち別れるのが当然という姿勢が崩れない彼に、いつも不安をかき立てられた。なぜ信じてくれないのかと恨みがましく思ったことさえあった。
信じられるわけがない。彼の不信は当然だ。彼は、俺という人間を俺以上に知っていたのだ。二十代、三十代の俺では、彼の生涯のパートナーに、なり得なかった。
そんな自分の本質に気付かず、ひたすらに、俺を見てくれ、俺を信じてくれと足掻き続けていた日々に、無駄は何一つなかったのだと、今なら思える。
そんな無様な二十年だったからこそ、きっと俺はこの人を手放さずにすんだのだ。がむしゃらに欲しがるばかりでいたからこそ、この人は俺を見捨てることができなかった。
それは苦しくて、幸運に恵まれた二十年だった。
「オレが、お前に返せる物が、あるだろうか」
身体を預けてくるこの人が苦笑するのを、腕の中のかすかな揺れで感じ取る。
言葉を返そうとして口を開いたが、けれど何の声も出せないまま口を閉じた。
喉が軋んで震えていた。
今声を出せば、情けなく震えてしまうだろう。いい年して泣きそうになっているのを知られてなるものかと、今更くだらないプライドを振りかざし、何度も唾液を飲み込んでから、ようやく普通を装って声を絞り出した。
「俺の幸せこそ、あなたが与えてくれた物です。日々の充実も、人を愛する喜びも、未来への渇望も、全てあなたが教えてくれた」
楽に生きるだけなら、きっとあなたがいない方がずっと楽だった。けれど、それはきっと、ひどく退屈で何の面白みもない人生になっただろう。誰もが羨んで、どこから見ても幸せで、なのに内実はくだらないことで退屈を紛らわして、物で満たすばかりで心が満たされない日々。人が愛だ充実だと人生を謳歌するのを、横目で見て馬鹿馬鹿しいと鼻で笑っている自分。睦月さんのいない生活とは、きっとそういうことだ。
この人と出会ってからの俺は、退屈とは無縁だ。いつも必死で、苦しくて辛くて、思い通りに行かないことばかりで、幸せで、毎日が充実して、愛おしさにあふれていた。この人が与えてくれた幸せは、本当に得がたい物だった。
あなたも、同じように思ってくれているのだろうか。俺との日々が、他では得がたい幸せであると。
「すごくないですか? お互いが相手から与えられた物で幸せになっているなんて。あなたと俺は、最高のパートナーって事だと思いませんか?」
答えを促すように腕の中の人の顔をのぞき込めば、厳めしい顔をしたその人は、ふいと身をよじるように顔を背け、歪むような笑みを浮かべた。
「……そうか」
わずかに震える語尾に、彼の精一杯の肯定を感じ取る。それが例えようもなく嬉しくて、まぶたの奥が熱くなるのを感じながら、歪んだ彼の笑みにつられて俺も笑う。
「そうですよ」
「……すごいな」
「ええ、すごいことです」
ふっと彼の表情が緩んだ。俺の腕の中には柔らかな笑みをたたえたその人がいて、それが嬉しくて俺もまた笑みを深める。そのまま互いに緩く抱き寄せあい、二人でクスクスと笑いながらキスをした。
数日後、後継者を気取った俺と会社で顔を合わせた時、この人はどんな顔をするだろう。少しは驚いた顔をしてくれるだろうか。最後にはなんだかんだ言いながらも、喜んでくれるだろうか。
これからまた、この人に鍛えられながら過ごす毎日が始まる。きっと思い通りに行かないことばかりとなるだろう。けれどその歯がゆさも苛立ちも、最後にはこの人と共に乗り越えてゆく心地よさに帰結し、俺を楽しませてくれることだろう。
思い描くそんな毎日は、なんと面白く幸せなことだろう。
きっと俺は、これからも、あなたとともに歩いて行けるこの幸運を噛みしめながら、生きていくのだろう。
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