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部下・S氏の失敗
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しおりを挟むその日、先輩の一人がミスをして、課全体が今、ばたばたしていた。
作業をちらりと見るだけで、ものすごく手際が悪いのが分かる。言われるまま手伝ったりもしているが、とにかく無駄が多い。そこは後で良いだろうとか、先にあれをとかいう問題も多々ある。だがそれ以上に早い対処が望まれるこの状況で、なぜそんな普段通りの手順を踏んで、回り道としか言いようのない手間のかかるやり方をするのか、という問題だ。他に方法はいくらでもあるだろう、というか。
人の仕事に手を出すなと前から課長に言われているが、あれはあんまりだ。だから俺も多少イライラして課長に訴えた。
「課長、この前の交渉の件ですけど、山岡さんではなく俺にやらせてくれませんか?」
山岡さんが若干パニックに陥って、いっぱいいっぱいになっているのは分かっている。「俺はダメだ」という泣き言を聞いたのは一度や二度ではない。
必死にやっているのは分かるが、無駄な作業を進めては行き詰まり、その度に課長がアドバイスをして何とか山岡さんにさせている現状だ。課長が指示をすればもっと簡単に収束出来るだろうに、なぜ山岡さん主導でこんな無駄に手間のかかることをしているのか、理解出来ない。
これならいっそ俺がやった方がよっぽど早く、より適切に収束出来る。
幸いにも山岡さんは仕事を後輩にとられたと怒るような人ではない。むしろ喜ぶ。そういう人だ。仕事はそれなりに出来るし、俺も一年目はかなり世話になった。だからこそ分かるが、山岡さんはやらずに済む仕事は極力やりたくない人だ。あれだけ泣き言を聞かされたということは、絶対今現在俺が手を出してくるのを待っているはずだ。
なのに、課長は少し考えて「ダメだ」と首を横に振った。
「なぜですか」
「あれは、山岡の仕事だ。あいつがやり遂げるべきものを横から取り上げるな。お前には十分手伝ってもらった。お前はお前の仕事をすればそれで良い。山岡はオレがフォローするから問題ない」
俺が手伝ったのは課長の仕事だ。結果、課長は山岡さんにつきっきりになっている。それも気にくわない。
「山岡さんでは、取りこぼすこともあるんじゃないですか?」
「それも経験だ。最悪の事態を確実に回避させることが大事だ。その為にオレがいる」
部下を見守る上司としての顔を見て、胸の奥がきしむような痛みを訴える。同時に激しい苛立ちもこみ上げてきた。
俺に、そんなことを言ってくれたことなんか、ないじゃないですか。
ぐらぐらと頭が揺れるような感覚がする。血の気が引いていくような、酷く心許ないような息苦しさを覚える。
気付きたくないことに気付いてしまった。
課長は、俺のために動いてくれたことなどない。俺のためにそこまで時間を割いたことすら。
上手く裁ききれなくても許し、フォローする事を前提に、課長は山岡さんの仕事を見守っている。俺がどれだけ完璧に仕事を仕上げてもイヤミしか言わないくせに、課長は俺以外のヤツなら許すのだ。
俺の方がもっと上手くやれる。なのに、どうして……っ
こみ上げる焦燥感を抑えきれなくなる。
「……俺に、やらせてください」
「ダメだ」
どうあっても俺を認めないつもりだというのか。
まず最初に感じたのは怒りだ。それから胸が潰れそうなほどの苦しさ。
いつもそうやってあなたは冷静な顔をして俺を切り捨てる。
俺の方が、ずっと、あなたの役に立てるのに……!
悔しさか、怒りか、それとも悲しかったのか。考えるよりも先に、その言葉が口を突いて出た。
耳元で囁くそれは、課長を言いなりにできる、禁忌の言葉だ。
「……あなたは、俺に逆らえないの、分かっていますか?」
それを口にした瞬間、煩わしそうに対応していた課長の表情が、スッと消えた。
「断る」
「……っ」
これほど明確な拒絶は、初めてだった。
いや、今までもさんざん拒絶され、嫌がるこの人を組み敷いてきた。なのに、たった今向けられた拒絶は、今までとどこか質の違う、明確な意志があった。
頭に血が上っていた。
今は他の人影はないが、いつ誰が来てもおかしくない廊下の一角だ。談話スペースとなっているそこでのやりとりは、廊下に顔を出せばすぐにでも目に入る。そんなことすら頭から抜けていた。
衝動的に詰め寄って課長の胸元を掴む。
なぜあなたは俺の思い通りになってくれない! どうして俺を認めてくれない!
憎しみにも似た感情がこみ上げる。
許せない、許しがたい、なぜ、あなたは!
パンッと手が払いのけられた。
「これは、お前が口出しすることじゃない。お前の仕事は終わっている。帰れ」
冷徹な目が、無表情に俺を射貫いた。
「ホントに、俺に、逆らうつもりですか」
射貫く視線がわずかに伏せられ、課長から呆れたような溜息が漏れた。煩わしいと感じていることを隠そうともせずに。
愚かな子供を諫めているかのような声がした。
「山岡の仕事を奪うようなまねをするな」
それはどういう意味だ。俺があの程度の仕事を奪ってまで手柄を立てようとしてるとでも思われたのか?
カッとして思考を染め上げたのは、怒りか、屈辱か。
はは……っ、思わず笑いがこぼれた。
どれだけ俺は信用されてないんだ。笑う。心底笑えるじゃないか。
信用されてないのは今更だというのに、それでも悔しくてたまらなかった。
嫌われているのはわかっていたことだろう?
と自身を嘲る。
それを更に悪化させたのも俺自身の行為によってだ。
けれど、それでも仕事はそれなりに認められてきていると思っていた。この人はそういう差別をしない人だと。
結局、信用などされてなかったのだ。
どれだけがんばろうと、あなたに追いつこうと食らいついていったとしても、何ひとつ、あなたは俺を認めてくれないのだ。
その事実が胸を刺す。痛みがじわじわと自身の思考を悪意に染めてゆくのがわかった。憎らしかった。この人がどうしようもなく憎くて、許せなかった。
課長の手首を握りしめぐっと引き寄せる。
「……ここで話をするのは、あなたも、まずいでしょう?」
脅すように囁き、いつものように資材室へと連れ込む。
課長が呻くように悪態をつきながらふりほどこうともがくが、大きな騒ぎを起こしたくないのはお互い様だ。単純に握力と腕力の勝る俺に軍配が上がる。
奥まった定位置に連れ込むと、壁に叩き付けるようにして課長を押し込む。
「なぜ、俺じゃダメなんですか」
「お前がダメだとは言っていない。あれは山岡の仕事だ。その失敗を濯ぐのも山岡の仕事だ」
「それにしたって、もっと対処のしようがあるんじゃないですか? このまま山岡さんに任せておけば……」
「上司の采配に、お前が口出しをするな」
どれだけ言いつのっても、俺の言葉を聞こうとしない課長に苛立ちが募る。課長もまた不愉快さをあらわに、眉間の皺が深くなってゆく。こんな効率の悪いやり方をどうしてこの人は良しとするんだ。対処が遅れるほど損害が大きくなるというのに。
「納得がいきません!」
「お前が納得しようがしまいが、どうでも良いことだ。俺は上司として最善の道を考えている。課の責任者は、俺だ。お前じゃない」
「山岡さんにやらせるのが最善?」
「……そうだ」
一瞬、課長が言葉に詰まった。課長も分かっているのだ、山岡さんの対処が最善ではないことを。それでも俺に渡そうとしない不手際をせせら笑う。
「それが理解できない俺は、浅はかって事ですか?」
「……ああ、そうだ。分かったら、さっさと帰れ」
溜息交じりにあしらおうとする課長に、怒りの感情が振り切れた。
俺にやらせるより、あの山岡さんにやらせる方が最善? ふざけるな。俺が、あなたに認めてもらおうと、どれだけ……どれだけ……っ
俺をどかして出て行こうとする課長の首を掴んで壁に押さえつける。
「がっ……ぐは……っ」
喉元を押さえつけたままガツンと乱暴に背中を壁に叩き付ければ、そのまま頭も反動で叩き付けられる。
苦しそうに顔を歪め、腕をどかそうと課長がもがく。
「俺なら、もっと、上手く対処できます」
くだらないことに意地になっているのは、頭の片隅で理解している。ここまでしてやるようなことではない。けれど、認めないこの人がただ憎かった。意地を突き通さなければ、あまりにも惨めだった。
だから、認めさせるためなら、どんな手でも使ってやろうと決めた。
認めさせてみせる。
その意地を突き通すことだけが自分のプライドを守ってくれる気がした。
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