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3章

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 無為に働くばかりの日常が続いていた頃、一人の女性に出会った。気立ての良い女性だった。側にいるだけで微笑ましいような、落ち着くような、そんな女性だった。

 人は弱く愚かしい。

 それが決して良い判断ではないとわかっていても、空虚さは人の心を蝕むのだ。寂しさに負けてひとときの安寧を求めて手を伸ばしてしまう。

 届かない最高の物より、手の届く無難を。

 それを手にしたところで満足しないとわかっているのに、わずかな救いを求めて、飢える心を満たそうとしていた。


 ルカは何気なく、その木の前に立った。
 桜の木は青々として葉を茂らせ、木陰を作っている。それをじっと見つめてから、逃げるように目をそらす。なんとも言えない後ろめたさが込み上げた。
 誓いを破るのかと、咎めるように頭の片隅で声がする。ルカは息を吐くと、早足にその場を去った。

 楽になりたかった。

 溺れれば藁でさえも縋ってしまうように、欲を前にしたとき、人はいとも簡単に負けて縋ってしまうのだ。
 それは決して悪いことではない。むしろ、人としては自然の選択である。それを責めるのは、非情という物だ。そうするしかない人生が世の中に溢れていることを、ルカは多く見てきた。

 だから仕方がない、……ルカは、自分にそう言い聞かせた。


 出会った女性とは、互いにとても気が合った。友人として付き合う内、穏やかに接することのできる彼女に、結婚を意識するようになったのは、出会ってから一年が過ぎた頃のことだった。

 ルカは、三十七になった。西国に戻ってきて十八年。正臣と出会った頃から、倍の年月が過ぎていた。

 彼女は夫を若くして亡くしていた。特に結婚を急ぐわけでもなく、強い恋情が互いにあるわけでもない。同年代の二人の間にあるのは居心地の良い友人の延長線でしかない。
 ルカ自身が正臣を想うように、彼女もまた、夫を忘れられずにいる。だからこそ、なおのこと、気が楽だった。

 もう、忘れる頃だろうと思った。
 彼の面影は消えることはない。それでも、苦しいばかりの記憶は、それでも薄らいできた。時間という物は、痛みをいやがおうにも消していく。
 もう良いだろうと、思えた。
 彼女と結婚し、西国に身を埋めても良いだろうと。無理に東国に帰ろうとする必要はないだろうと。

 いいかげんに身を固めろという声に流されているだけだと、頭の片隅で警告する声がする。

 だからどうしたとルカは耳を塞いだ。
 流されて何が悪い。なぜ、楽な方に流れたら駄目なんだ。一人こだわっていただけで、正臣が待ってるわけではないのだ。

 何度も自分に言い訳をする。けれど、何度消そうとしても込み上げる違和感に、ルカは必死に心の中で叫び続けた。

 正臣さんが私を捨てたんじゃないか……!! 彼が私を信じてくれなかったんだ。私は正臣さんが約束してくれれば迷わなかったのに……!! 結婚して何が悪い!! 楽な方に流されて、何が悪い!! 私が正臣さんを裏切るわけじゃない……!!

 でも、と頭の片隅からもたげてくる不安に「うるさい!! 黙れ!!」と怒鳴って、その声をかき消した。
 叫びながら、込み上げる不安感をごまかす。
 のた打つように苦しんで疲れ果てた頃に、荒れ果てた部屋の中でぼんやりと立ち尽くす。

「正臣さんが、先に私を、捨てたんじゃないか……」

 あなたが捨てたんだ。私じゃない。あなたが先に裏切ったんだ……。

 だから、これでいいんだ。
 躊躇う心に向ける言い訳は、ひどく力なく響く。
 正臣にこだわり続けるのが辛かった。諦念はあれど、思う気持ちは消えてくれない。ならばせめて、考えずにいられるようになりたかった。
 周りの心配する目も気になる。それらに負けて楽な方へ向かおうとしている。それを自覚しながら、警告する心を無視した。何も考えたくなかった。正臣のことも、未来も。彼女と結婚すれば楽になれる……そんな気がした。

 だから、長い長い恋に、終止符を打つことを、決めた。

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