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Ⅳ. lotus
しおりを挟む手酷く痛めつけられた以降も、相も変わらず囚われの日は続いていた。
何も考えずただベッドに横たわり、男の帰りを待つだけの日々。
弛緩した思考力は生きたいとも死にたいとすらも意識する事を放棄して、男の機嫌を損ねないようにやり過ごす事のみに動いている。
鈍い意識がようやくいつもと何か違うと感じ取ったのは、傍らに転がった空のペットボトルと菓子パンのゴミがいつまでもそこにある事に気付いてからだった。
時計も窓も無い部屋では正確な時間は分からないが、感覚的に少なくとも二日以上男はここに来てはいない。
何か来られなくなるような用事でもあったのだろう。
相手をしないで済むのならそれで良いじゃないかと、安堵に気を緩め青年はそう思った。
男が訪れない日々が何日も続くまでは。
***
「はぁ……」
ペットボトルを見遣りながら、深い溜息を吐く。
予備の水も無くなってからどれくらい経ったのだろうか。
空腹以上に、抑えきれない喉の渇きが青年を襲っていた。
人間は食べ物が無くてもすぐには死なないが、水が無ければ確実に死ぬのだと。
冬の乾いた空気が潤いを失くした喉をヒリヒリと刺す。
舌は口内に張り付き、唇はひび割れてガサガサだ。
喉が渇いた。
その一言がぐるぐると頭の中を延々と巡っている。
「…………くそっ」
ぎゅっと目を閉じ大きく深呼吸をすると、青年は覚悟を決めたように勢いよくボトルを手に取った。
股間に手をやると、容器の入口を自らの先端に近付ける。
ややあって、迸る水音が薄暗い室内に響き渡った。
持つ手に伝わってくる生温い温度。
我慢していた排泄感が消えるのに反比例してわき上がる嫌悪感と。
なみなみと水分を湛えたそれを青年はしばらく眺めていたが、背に腹は代えられなかった。
逡巡に震える手でゆっくりと口をつけ、一息に喉へと流し込む。
「ぅ、げほっ、……っは、ぁ」
一瞬口の中に広がる臭味を躊躇いと共に勢いのまま嚥下して、手で口を塞ぎ嘔吐感に堪える。
鼻で呼吸をしながらしばらく上を向いていた青年はやがてゆっくりと手を放すと、長く息を吐いて苦い表情で足元へと視線を落とした。
あれほど身を苛んでいた渇きは癒えるも、何とも言えない気分が胸の内に広がっている。
まだ不愉快に残る空腹感が、これはただの一時凌ぎにしか過ぎないのだと。
このまま男が帰って来なければどうなるのだろうか。
考えたくも無かった。
***
あれからまたどれだけ経ったのだろうか。
いよいよもって抑えきれない飢餓感が青年を支配していた。
どうしようもない飢えがもたらす死の恐怖に、まともに眠る事すら出来ない。
生きる事を諦めようとする意識とは裏腹に、渇望するこの身はまだ生きたいのだと訴えているのだ。
散々食べ飽きたコンビニ弁当が今はたまらなく懐かしい。
こんな時にはおふくろの味を思い出しそうなはずなのに、母親の手料理を忘れる程に実家を離れて久しいのだと今更に思い知らされる。
今のこの何も出来ない状況を思えば、あの日常を諦めずにもっと足掻けば良かったと。
悔やんでも遅い。
どうあっても綺麗な死など望めないのだ。
「こんな、のは……嫌、だ……」
この期に及んで、自分はまだ生きたかったのだと気付かされる。
あまりの己の愚かさに自然と口端が歪む。
気付いた所でもう死を受け入れるしか無いのだから。
静かに流れる時間は確実に命を削ぎ落していくだけ。
ベッドの上に身を投げ出し、身動ぎすらしない青年の心は緩やかに死に始めていた。
長いとも短いとも分からぬ時が経った頃、
「――――っ!」
不意にピクリと指先が跳ねる。
遠くから近付いてくる車のエンジン音。
次いで地面を踏んで止まったタイヤが石を撥ねる軽い音が鼓膜を打つ。
確かに聞こえる音は、ともすると摩耗した精神による幻聴ではないのか。
ドアノブに鍵を差し込む金属音すら半信半疑に上体を起こし、扉の方を青年が向くや否や、開いた隙間から差し込んだ太陽光がその顔を明るく照らし出した。
驚愕に見開いた瞳に映り込む懐かしくも恐ろしい主の姿と。
「んー、……生きてたな」
ゆっくりと踏み込んだ人影がぐるりと中を見回す。
やつれた姿を意に介さず、確認するように独りごちる男の声には安堵の色さえ無い。
壊れようともどちらでも良かった玩具が存外丈夫だったと、その程度だった。
それでも一応は用意していた食糧を床の上へ投げ置くと、
「急な出張だったんだが、……寂しかったか?」
男は少し肩をすくめ、図らずも忘れてしまったかのように悪びれずにへらっと笑ってみせた。
別段何の反応も期待はしていなかった次の瞬間、
「……あ?」
無言のまま勢いよく胸の中に飛び込んできた青年に、男は思わず間抜けな声を上げた。
襲って来たのかと避けようとしてすぐに様子が違う事に気付く。
縋り付くように上着を握り締める両腕と、大きく震える肩は込み上げる感情のままに。
「ふ、ぅ、あ、ああぁ……っあ、」
男の胸に顔を埋めた青年が、嗚咽混じりに泣きじゃくる。
まるで親と離れ離れになった子が再会に咽び泣くように。
大声で泣き喚きながら、青年も戸惑っていた。
死を免れた安堵感からか、恐怖からの解放感か、一体何の涙なのか。
ただあのひたすらに孤独だった時間は二度と味わいたくなかった。
例え相手が悪魔だろうと何だろうと、今はこれで良いと。
目の前の体温を感じながら、青年はただ涙を流し続けた。
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