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思い切りがいいのか悪いのか
しおりを挟むズズがこそこそとヴィヴィアンヌを見に行くようになってから二年ほど経った。
彼は概ねぼんやりしていて、欲求の少なく手のかからない子どもだったが、ヴィヴィアンヌに対する情熱はいささか偏執的だった。
ただ姿を見つめるためだけに何度も足繁く通っているのもなかなかだが、ヴィヴィアンヌに関連する物品を集めて部屋の中に積み上げるとさすがに母親も呆れた。
「あんたねえ。別にどこの誰に熱を上げようと構わないが、引き際はちゃんと見極めるんだよ。あたし、あんたがしょっぴかれてもどうもするつもりはないからね」
彼女の言った言葉は脅しではなくただの事実の指摘だった。
その間に彼はそれなりの頻度で、カストレードの人間だとか、富裕街の人間だとかに追い返されることはあったのだが、ほとぼりが冷めるのを待ってしぶとく粘り続けた。
だが、十二歳になったお祝いとして客から戯れにもらったカメラが状況を変えさせた。
彼は欲求のままに撮影を試みた。自分の手の中にヴィヴィの姿を収められるのだと思うと、ついうっかり興奮した。いつも気をつけている隠密行動が抜けて、不法侵入すれすれの大分大胆な形になってしまった。それをさすがに見過ごせないと判断されたのだろうか、警官を呼ばれる事態になってしまったのだ。
幸運にも彼をしょっぴいた相手は優しい方だった。顔にできもののたくさんあった男は、異形ゆえささやかな初恋すら許されない少年に同情的な部分があったらしい。
「ありゃ、綺麗なお嬢さんだがね。見てるだけでも許されない、そういうこともあるのさ。夢見ることすら許されん相手もいるってことさ。てめえの頭ん中でどうこうしようが勝手だが、表に出したらこうなるのよ。ま、今後の接近は諦めるんだね、坊主。次は豚箱にぶち込まれるぞ」
適当に小突かれて連行され、小部屋で少しばかりの説教を食らった後、カメラを没収された。ついでにその後こじんまりした自分の部屋も漁られて、今まで集めてきたスクラップや色々な記念品、すべて処分されることになった。
カストレードは成り上がりとは言え金持ちであり、金があれば人は動く。この程度で済んで良かった、と思うべきなのだろう。
空っぽになった部屋で、カメラを構えていたときと違って、彼はいたって冷静だった。冷静に考えた。
彼はこれからヴィヴィアンヌを諦めなければいけない。ただ、あの異常に造詣の整った、別世界の人間の姿を視界に、脳に、記録して部屋に収めておきたいだけなのだが、どうやらそれは只人にとって相当に気持ち悪いことなのだそうだ。許されず、露見したならば次はない。
ならば選択肢は二つ。
すっぱりと諦めるか。
絶対にバレないように今後もつけ回すか。
意外にもズズは諦めることにした。
夢を見てばかりもいられない環境で育ってきたのだ、さすがにそろそろ自分の幸運ばかり当てにすると痛い目を見ることが予想された。
しかしただで諦めないのがズズである。
この先一生見られないのなら、最後に一生分見納めても罰は当たらないんじゃないか。
概ね大人しいが時々おかしな方向に暴走する少年はそう思いついた。
ズズは早速棚を漁って、一番肌を隠すことのできるフードのついた服を引っ張り出してきた。顔を見られにくいように俯いて背筋を曲げて、とぼとぼと夜の町の暗がりを歩いていく。
通い慣れたカストレードの邸宅までやってくると、深夜の民家は暗く静かで、屋敷中の人間もヴィヴィアンヌも、揃ってこの時間は眠りについていたようだった。真っ暗闇、しんとしていて夜風の音だけがさやさやと鳴っている。
ズズは首を傾げてから、何度かその辺を往復し、ちょうどよさそうな木を見繕ってするすると上っていった。
それから屋根に音もなく着地して、高い所にあるヴィヴィアンヌの部屋の窓へとじりじり近づいていく。
そっと部屋の中を覗き込むと、カーテンが閉まっていて何も見えない。
……当たり前だ。しかしズズは諦めなかった。
自分の手に手袋が嵌められていることを再度確認してから、窓にそっと手をかける。
幸か不幸か。窓は動いた。ズズはそっと窓を開いて、音もなく部屋の中に滑り込み、ふかふかの絨毯の上に着地した。
ズズの部屋と違って、たくさんのインテリアや色で彩られているその場所、天蓋付きのベッドを発見してそろそろと近寄っていく。
覗き込めば、そこに果たして見納めのヴィヴィアンヌが収まっていた。
そして彼女は今まさに、眠たそうな目を開くところだった。
見つめ合った瞬間、二人は恋に落ち、運命の歯車が噛み合った――。
なんて都合のいい物語じみたこともなく。
順当に、何の面白みもなく、現実は予想通りに。
たまたま夜風で眠気が薄れて瞼を開けたお嬢様は、ちょうど部屋に潜り込んで自分を覗き込んでいた狼藉者の姿に叫び声を上げた。
「――いやあっ! 誰よ、あなた!? 出て行って、出て行ってよ!」
彼女はそう言って、がむしゃらに周りを漁り――一番近くにあってつかみやすかったのだろう、枕を投げつけてきた。
奇しくもこれがズズがヴィヴィアンヌから最初にかけられた言葉であり、近くでまともに聞いた最初の声であり、初恋の顛末であった。
さすがにこうなってはもうどうすることもできない。
ズズは軽やかに身を翻し、窓からひらりと飛び降りて、人が集まってくる前にさっさと夜の闇の中に逃げ出した。
目深にフードを被ったままで良かった。暗がりの中だったし、ヴィヴィアンヌには何者が侵入者だったかわからなかっただろう。
そもそも彼女は、懸想する有象無象なんて気にもかけなかった。
ズズのことに気がつき、気味悪がって父に言いつけた結果警官が呼ばれた可能性もあるが、それよりずっと、そもそも越えられない壁の向こう側から見上げるだけの存在なんて歯牙にもかけていなかったのだろう。
そう、彼は常に日陰者、追われる身、追い立てられる方だった。
慣れていたこと、当たり前のこと、それだけの話だ。
完全に失敗に終わったはずなのに、奇妙な達成感があった。
怯えたように見張られる目、寝癖で乱れた髪、少し緩んだ服の胸元、愛らしい口から奏でられる鈴のような罵倒。
今ならカメラなんかいくらでもくれてやる。思い出は自分の中に閉じ込めた。
惜しむらくは、今後一生二度と同じ思いはできない上に、今晩中にさっさとこの町を出て行く必要があるということだ。
夜中の侵入者の正体がズズであったとばれているにせよしないにせよ、つい先日、というか今日前科をかけられたばかりの身、何もされないとは考えられない。
現状もうこれ以上ヴィヴィに近づくことは不可能だろう。ならばもう未練はない。思い出を縁に、さっさと人生をやり直すのが最善、そうでないにしてもよりよい決断に思える。
ズズは夜道を駆けに駆け、まずは母親に別れと今までの礼、それから自分の事で迷惑をかけてしまうかもしれない謝罪を述べに行った。
ちょうど時間が時間、客を待たせて不機嫌そうに出てきた母だが、呆気にとられたような顔をした後ゆるゆる首を振った。
「まあねえ。いつかはやらかすと思っていたよ。で、どうするんだい?」
彼はしばし考えてから、首を横に振る。
出て行くつもりではあるが、行き先は告げない方がお互いのためだろう。
彼女は肩をすくめ、くるりと背を向けた。
「ま、うまいことやりな。あたしの不良息子は、愛しのかわいこちゃんにフラれて傷心のあまり飛び出していったのさ。その先はもう知らないよ」
バタンと閉じられた扉にもう一度だけ礼をして、ズズは家を飛び出した。こういうとき、自分が疲れ知らずで本当によかったと心から感じた。脚を懸命に動かしてたどり着くと、海の上で空が白んでいる。
いい時間だ。それに港に警官や怪しげな男達の姿もない。
彼はきょろきょろ見回してから、目をつけた船に近づき、地を蹴って飛びついた。
朝一番で作業をしている船員達に気取られぬよう、器用に登って進んでいき、最終的には船の倉庫、適当な樽の中の一つに身を隠すことに成功した。
長い間息を潜めていると、次第に騒がしくなって、間もなく座っている床が動き出す。きっとあれは出港の合図の音だ。ようやく少しほっとして、うとうと微睡む。
沖まで出てしまえばいい。もしかすると気味の悪い半人は海に投げ込まれるかもしれないが、その時はまあその時だ。
夢の中にはヴィヴィが出てくることを望んだ。その通りになった。起きると夢精していて、下半身はべとべとになっていた。
ちょっと自分の図太さと暢気さに、自分で呆れた。
しかもその間抜けな姿で、船員に見つかることになった。
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