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「ティオ、あまり無茶をしないで」

 なんとなく精神的疲労を感じて茜空が過ぎた頃に帰路につく。思った通りやたら母親のマリに心配をされた。リオやティナの話を耳にしたらしい。去り際の、伯爵の不気味な表情が気がかりだったが、気にしても仕方がない。気にしないでいつも通りの自分に徹しようと振舞う。

「母さん、心配かけてごめん。でも、家族をバカにされたら腹が立っちゃって」
「たしかに母さんだって腹が立つだろう。でも、目上の人間にそんな言葉づかいはよくない。お相手は伯爵様なんだ。そんな態度じゃ、逆にこちらが不敬にされて立場が悪くなってしまう。母さんはお前やみんなが無事ならなんだっていいんだ。どうかこれからは、お貴族様相手に無礼な真似も無茶もしないでちょうだい」
「母さん……だけどあんな奴はっ、いたっ。痛いよ母さん痛い」

 マリはティオの耳を強めに掴んで声を張り上げた。

「何度言ったらわかるの!これだけは言う事をききなさい!少し前にお父さんが亡くなってお前やリオやティナにまで何かあったらと思うと母さんは……母さんは気が気じゃないのっ!!心配させないでちょうだい!!」

 思いつめたマリの怒声にびくりとして、今にも泣き崩れそうな母親を前に茫然として何も言えなくなる。自分の行動は間違っていたんだろうか。とにかく心配かけた事が申し訳なくて、なにか謝罪を口にしようとした所でマリがふうっと息を吐いた。

「ごめん、ティオ。母さん……ちょっと気が立っていたみたい」

 つい声を荒げてしまったことを詫びる。今日の事は切っ掛けに過ぎず、前々から不安定だった。最近、夫が亡くなったばかりで、先行きの不安や寂しさなどが重なっていた事もあり、ついティオにもその不安な感情をぶつけてしまった。もしも子供達に何かあったらと思うと考えたくない。無茶なんてして子供達がいなくなってしまったら……やはり考えたくない。

「母さん……」

 額に掌を置いて思案していたマリが、ふうっと自分を落ち着かせるようにもう一度息を吐いた。

「あ、あの、母さん……」
「ティオ、夕食にしましょ。手伝ってくれる?」

 そこにはもう先ほどの思いつめたような表情はなかった。いつもの優しい母だった。

「う、うん」
 
 母さん……心配かけてごめんなさい。

 だけど、あんな奴は伯爵として尊敬もできないし、町の人々もかなり迷惑している。だから言い返した時、ちょっとだけすっきりしたのはここだけの話だ。でももう二度とあんな事は言わないようにしよう。自分の行いが家族に迷惑をかける事になりかねないのだから。

 そんな時、あの伯爵の嫌な顔が脳裏によぎった。


「っ……」
「兄ちゃん、どうしたの?」
「ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

 なんだか胸騒ぎがするな。
 ティオは必死になって考えないようにした。
 
 
 翌日の朝、ティオがいつものように売り物の薬を荷車に乗せていたら、こんな町外れには無縁な馬の蹄の音が聞こえてきた。

 向こうから徐々にその気配がして、蹄の音が大きくなるにつれて派手な客車が姿を見せた。いくら金をかけたのかわからないほどの金の装飾が目を引き、大きくて立派な馬は真っ白い。丁度ティオの目の前で停まった。
 背広を着た御者の男がゆっくり降り、つつましく客車の扉を開けると、昨日のでっぷり太った大柄な男が姿を見せた。

「昨日ぶりだな、ガキ」

 厭らしい顔が満面に嗤った。
 薪割りを行っていたリオはぽかんとした途端に青い顔で「昨日の男だ」とティオの背後に隠れる。声を聞いたマリやティナも何事だと家から飛び出してきて伯爵とティオを交互に見る。昨日からの胸騒ぎは最悪に的中してしまったようだ。

「グレイソン伯爵様。何しにお越しになられたのですか。こんな町外れに。暇なんですか」

 伯爵の名前は常連の客に聞いたところ、グレイソンという名前だと知った。知りたくもなかったが。
 どうしてここがわかったのかはわからないが、伯爵の権力で調べ上げたとなれば納得する。悪名高いと噂ではあるが、金と情報力だけは公爵クラス並にあると評判だった。

「暇ならこんな辺鄙でつまらん場所に来るわけがないだろ。ちゃんと用があって来た」
「何……?」
「喜べ。お前を今からおれ様の奴隷として買ってやる」
「……は?」

 何を言っている。奴隷?冗談じゃないと唖然としていると、伯爵は昨日のようにティオの胸倉をつかんだ上に持ち上げた。宙に浮かぶティオは苦し気に掴まれている腕を放そうとするが、あまりの強い力に引き剥がす事ができない。
 
「おやめください!伯爵様!」

 青い顔をしたマリがティオと伯爵の間に入ろうとする。

「おやおや、あなたがこの生意気なガキのお母さんですか。随分と学習力のないガキをお持ちで。あなたの躾はどうなっているのですかねえ。目上の人間に対して生意気な口の利き方で、身の程知らずにもほどがありますよ。育ちの悪さが見て取れる。汚くて教養もないガキなんて量産してんじゃねえってな」

 息子を貶すあまりの言い草にマリは一瞬だけ怒気を孕ませたが、拳をぐっと握って頭を下げる。

「申し訳ございません、伯爵様。息子がとんだご無礼を……。どうかお許しください。奴隷なら私がなります。息子や娘たちは勘弁してやってください」

 マリが愛用の手ぬぐい帽を外してその場で膝をつき、両手をついて地面に頭を擦り付けた。

「か、母……さ!?」
「ほお……」

 伯爵はひゅうっと口笛を吹き、やっとティオの胸倉から手を放す。地面に落とされたティオは急激な空気の吸い込みにせき込んだ。

「ごほ……や、やめて、母さん!そんなのだめだ!お、俺が俺がっ……奴隷になるから!」

 大切な母親が奴隷になるだなんて最悪極まりない。弟や妹もいるのに。元はといえば俺のせいなのに。だからやめてくれと叫ぶ。
 それでもマリは頭を地に付けたまま「どうかお許しください」と繰り返して謝罪と懇願を止めない。

「ふふん。親が子を想い、子が親を想う。なんていい親子愛だ。実に感動的で涙ぐましいねえ~。だが、おれ様は今は女には興味がなくてね……そのガキを奴隷にと最初から決めているんだ。たしかに奥さんも未亡人ながらお綺麗ではあるし好みでない事もないがね。だがここはいくらお願いされても無駄ってわけだ。ガキに飽きたら愛人にでもしてやろう」

 こいつ――!!

 心底、ティオはこの男を下衆が。と、心の中で最上級に罵る。涙ぐましいと言いながらも伯爵の目は無感動で口元は嘲笑っている。この非道なやり取りが心底楽しいと言わんばかりだ。その顔がこの上なく腹立たしくて、一発でも殴ってやりたい気分だ。

「おい、連れていけ」

 伯爵の命令で背後にいた二人組の用心棒が、ティオを両隣から羽交い絞めにする。身動きの取れないティオは、そのまま両腕を後ろに一纏めにされて拘束された。

「やめてください!ティオを…… ティオを連れて行かないでください!!」

 マリが顔を上げて涙ながらに必死に叫ぶ。

「兄ちゃんをかえせええ!!」

 先ほどまで恐怖に縮こまっていたリオも泣きながらティオを返せと走る。

「リオ!!」
「きゃああああ!!」

 リオは殴られ吹っ飛ばされた事でティナが悲鳴を上げる。ティオが怒りに真っ赤な顔で「やめろっ!!」と声を荒げて暴れるが、不自由な体では駆け寄る事も助ける事も出来ない。

「お願いですから!息子や娘達だけはどうか、どうか……何もしないで……見逃してください。おねがいします……っお願いしますっ!ティオを……連れて行かないでくださいっ……!」

 マリは用心棒の腕にしがみつき、泣きながら何度も何度も必死で頼み込む。

「うるせえな!主人が今欲しいのはアンタのガキなんだ。女は引っ込んでな!」

 用心棒の一人が乱暴に腕を振り払うと、マリが勢いよく地面に昏倒する。足の悪い母はそのまま立てなくなった。

「母さんっ!!このおおーー!よくもよくもっ」

 あんまりだと泣きながらティオが怒りに我を失って吼える。

「暴れんじゃねえよガキが!!」
「ぐっあ!」
 
 鳩尾に拳を入れられて視界が歪んだ。胃がひっくり返りそうになり、がくんと力が抜けていく。ティオは支えがなければ立てなくなった。

「っ……く、そ……うう」

 どうしたらこの状況を打破できるのだろうと必死で頭をまわすが何も思い浮かばない。金も権力も物理的な力もない。自分は本当に無力だと思い知る。反抗してもひ弱な自分じゃこの通りでどうあがいてもみんなを守れない。

 自分のせいだ。自分の。
 昨日、伯爵に言い返さなければよかった……。

「あまり抵抗するなよ。この状況じゃどうあがいても負け確定なんだよ。お前の家族がどうなってもいいのか?奴隷になれば家族には金輪際何もしないって言ってやってんだ。ただし、もう二度と家族にはあえない事にはなるがな」

 もう二度と家族にはあえない……か。
 それでも……俺は……みんなを守らなきゃ。俺のせいでみんなが巻き込まれてしまったんだ。

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