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 はやく逃げなければ――!

 もうどのくらいの距離を走ってきたのかわからない。ここら辺の土地勘もわからなくて無我夢中で前だけを向いて走って来た先はどこかの集落。川辺近くの草むらでフラフラになりながらとうとう膝をついてしまった。

 一晩中歩いては走っての繰り返しでもう歩けない。空腹ですきっ腹な上に喉はカラカラ。重くていう事のきかない手足と殴られてできた全身の痛み。ツギハギだらけの衣服はもうボロボロ。その場でズルズルと崩れ落ちた。

 うだるような暑さが体力を根こそぎ奪っていき、自分を蒸し焼いていく。

 もはや一歩も動けない。川辺で水を自力で飲みにすら行けない。仰向けに寝転んで遠い空の向こうを見据えればいろんな走馬灯が見えてきた。
 
 もう、兄ちゃん……ここまでみたいだ。どうか家族みんなが元気に暮らせますように。
 それと……誰かアイツから家族を守ってください……。
 
 心残りを抱きながらゆっくり目を閉じようとすると、誰かが自分に近づく気配がした。

「大丈夫か……?」

 低いしゃがれ声。男の人だ。
 目を凝らしてよく見たいのに、視界がぼやけてよく見えない。でも、ひどく優しい声と頬に触れる手が安心させてくれる。この人は大丈夫だって。確証もないのにそう思った。心地よかった。

 一瞬だけ。深海のような深い青色が視界の先に見えた気がした。
 何か言おうと口を開こうとしたが、そこで意識は完全に途切れた。


 *


「お兄ちゃん、今日もたくさん薬売れそうだね」

 村の外れに住んでいるティオは、今日も近くの町で薬を売ってまわっていた。
 風邪薬、頭痛薬、胃薬、傷薬、など。

 とにかく効くと評判だ。法外な値段を吹っ掛ける悪辣な医者に診せるよりティオの薬の方がよほど効くので、彼の姿を見かけると我先にと購入をしようと人が集まってくる。おかげさまで今日も忙しくなりそうだ。

「あんたの薬はほんとよく効くよ。腰痛が和らいでね」
「それはよかったです」
「あんなに辛い咳がとまったんじゃ。お前さんの薬のおかげじゃよ」
「お大事になさってくださいね」

 母親はその昔は町一番の薬師であり医者だった。今では足を悪くして表舞台を引退したが、長男息子のティオに自分の薬師としての技術や知識をすべて受け継がせた。今では一人前の薬師として毎日調合しては商いに勤しんでいる。立派だった母親の後継者として。

 
「いっぱい売れたねー」
「ねー」

 町に行きたい、手伝いがしたい、という可愛い弟妹も連れて、荷車で薬を運びながら広場で商い。夕暮れ手前という所でほとんど売れたのでそろそろ引き上げようか。

 今日はいつも以上に売り上げがよかったから少しだけ余裕ができたなと喜ぶ。ひもじい生活ながらも、大好きな家族達がいつまでも健やかでいてほしい。もっとたくさん食べさせて満足させてやりたい。そう思うからこそ、明日の夕食は母と相談して弟妹達に奮発したいところだなと考えていると、少し先の方で大勢の人の群衆を見つけた。

 みんな掲示板に釘付けだった。先ほど号外新聞が貼りだされたらしい。薬を買ってくれたなじみの客も足を止めて見ている。声を掛けた。

「どうしたんですか?」
「お、ティオか。公爵様が来るんだよ」

 ベレー帽をかぶったなじみの顔が、掲示板の新聞に視線を外さないまま返答した。

「こうしゃくさま?」
「そ。公爵様がこの町に視察に訪れるらしいんだ。こんな辺境の田舎町を視察だなんて公爵様も粋な計らいだね。この町もちょっとは有名になって観光客が増えるかもしれんよ。町おこしになるし」
「公爵様って、陛下の次にお偉い上級貴族様ですよね!そんな方がお見えになるなんてすごいじゃないですか」
「だからみんな先ほどから大はしゃぎだよ。御大層な有名人が来るってな」

 公爵といえば、御年70歳の皇帝陛下が統治するこの国の爵位が最高位の貴族。国家大元帥である陛下が自分の部下である公爵家を指揮し、またその公爵家も主君である陛下を支え、各々の決まった領地を任されている。つまりは陛下の命令でこの町に視察に訪れるという事。こんな辺鄙な町に来るとはいい機会だ。さぞや町中が盛り上がる事だろう。

 町外れに住むティオでさえ、陛下や有名公爵貴族の名前は知っている。たくさんいる公爵様はどの方も立派だと噂だ。人生に一度でもいいから、陛下は無理だとしても公爵様を間近で見てみたいと思った。

「公爵様の一体どなたが来られるんですか?」
「この新聞によると、次期皇帝陛下に即位されると噂の「どけどけい!貧乏人共が!我らが伯爵様のお通りだ!」

 会話を遮るほどの口汚い罵り声が響き渡った。
 向こうからでっぷり肥えた腹を撫でる大柄な男が御付の者と歩いてきて、人々を一瞥しながら暴言を吐き捨てまわっている。

 わが物顔で歩くその連中達を、人々が一様に迷惑そうに道を開けて関わりたくないと早々に遠巻きになる。大柄な男は掲示板の号外新聞に気づくと、大きく舌打ちをしてその新聞を鷲掴んで破り裂いた。

「ふん、公爵がなんだってんだ!おれの方が金回りがいいってのによ……おれを未だに公爵にしないなんて陛下も見る目がない。国のトップの目は節穴かってんだ。こんなんだから他国から舐められるんだよ」
 
 あきらかに陛下を侮辱する発言は誰しも不敬だと思ったが、それなりな伯爵という爵位持ちの前では誰もが口をつぐんで視線を合わせないようにしている。

「今の公爵程度などおれの金まわりのよさには足元にも及ばん。次期公爵に成りあがり、ゆくゆくはおれ様が天下をとってやる。そうしたらお前ら貧乏平民を奴隷のようにコキ使ってやる法案を作ってやるつもりだ。かっかっか」

 厭らしく笑った大柄な男は、満足げに手首や指まわりの宝石をじゃらつかせて踵を返す。見ていた人々は不快に顔をしかめているが、伯爵の前では誰も文句を言えない。言えばどんな因縁をつけられるかわかったものではない。何かと黒い噂が絶えない伯爵なので、進んで関りを持ちたい者などいない。

 さすがのティオも先ほどの不敬発言は許せないと感じたが、ここで問題を起こすわけにはいかない。守らなければならない弟妹がいるのだ。なんとか怒りを抑えてこの場を去ろうとした。が――

「陛下や公爵様をブジョクするな!」
「リオ!」

 我が弟のリオが我慢ならなかったのか声を荒げた。

「あ…?なんだこのガキは」

 ぎろりとした視線の伯爵が振り返り、リオの方を強面で睨む。リオは驚いて怯み、次第に青ざめてガタガタ体を震わせた。あまりの威圧感と強面な顔に、恐怖を感じてティオの背後にさっと隠れる。すかさずティオはリオの前に立ちはだかって頭を下げた。

「伯爵様、申し訳ありません。弟が失礼な発言をしましたっ!」
「これ、お前の弟か?身の程をわきまえないガキだな。ちゃんと躾もされていないガキなんぞ町に連れてくるんじゃない。小汚いガキは目にするだけで虫唾が走る」
「っ……すみま、せん」

 我慢だ。我慢。そうひたすら自分に言い聞かせる。

「ほんと、汚いガキだ」

 伯爵はティオに近づいて頭をぺしぺしと叩きはじめた。

「礼儀もない汚いガキを見ているとこれだから平民はって言いたくもなる。平民なんて奴隷にするしか生きてる価値がねえ。おれさまが天下を取ったらお前みたいなガキを排除する法案も作ってやりたいぜ」
「ッ……汚いガキで、悪いか」
「……ああん?」
「毎日一生懸命生きてるだけなのに……悪いかっ。この、傲慢豚野郎!」

 頭を叩かれながら弟を含めていろいろ貶されて、自分の良心と怒りが我慢できなかった。

「な、なんだその口の利き方は!この伯爵様に向かって!」

 御付の者が横から声を荒げる。言ったそばからティオは少し後悔したが、もう黙っていられない。

「あんな横柄な態度のどこが伯爵だ!陛下や公爵様を侮辱しやがって……。そもそも礼儀もないのはどっちだ!そんなお前なんかが公爵になれるはずがない!」
「お、おい!」

 さすがに人々がティオを止めようとするが、ティオの勢いは止まらない。伯爵の顔は見る見るうちに怒りを孕んできて、額に青筋をたてはじめた。

「……腹立つクソガキめ。貧乏人のくせにその生意気な態度……いい度胸だ!」

 伯爵はティオの胸倉を乱暴につかんだ。急に首が締まって息苦しい。

「「お兄ちゃん!」」

 リオと妹のティナが悲鳴をあげて駆け寄ってくるが、ティオはとっさに「来るな!」と声をあげて制止する。二人は泣きそうな顔で踏みとどまった。

「おれ様を公衆の面前でバカにしやがったお前は、おれ自ら専属の奴隷にしてやろう。口で言ってわからん奴は躾が必要だ」
「何を言って……う、っわ!」

 胸倉を掴まれた手が乱暴に解き放たれる。勢いがありすぎてティオは思いっきり臀部を打ち付けた。

「楽しみに待っていろ」

 伯爵はもう一度ティオを睨みつけたと思ったら口の端を持ち上げ、御付の者と来た道を去って行った。
 それを眺めながらティオはぎゅっと胸元の裾を握る。心臓はバクバク早鐘を打ち、しばらくは落ち着かなかった。

 
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