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アーカス侯爵領(99〜)
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しおりを挟むそれは一見、黒ずんだ木のようだった。
細く伸びた枝に、マングローブらしき剥き出しの根。それが朽ちてやせ細った長い幹から生えていて、全身を軟体動物のようにくねらせながら歩いてくる。
四足で立ち上がったリンが、鼻筋にシワを寄せて唸った。リュークはリンをなだめるように優しく叩いて革袋に手を突っ込み、鞘から剣を抜いたときのグランツの真似をして、革袋からスラリと木の枝を引き抜いた。
川が静かすぎるほど静かだ。
「リューク、あれが何だか分かるか」
グランツが剣を構えたまま尋ねると、リュークは「プーパだよ」と答えた。
〈悪魔の人形〉とは、魔物であって魔物ではない。これは悪魔が手持ち無沙汰に作り出す泥人形のようなもので、魂と魔力と土や水などをこねくり回して生み出されるものをそう呼ぶのだ。
所謂「魔力傀儡」の一種で、ゴーレムが「無機物体魔力傀儡」であるのに対し、プーパは体を構成する泥などに有機物が含まれているため「有機物体魔力傀儡」に分類されている。
なお、ここでの「有機物」とは「生物がつくり出す物質」のことを言う。また、プーパに練り込まれている魂が無機物にあたるのか、有機物にあたるのかは、専門家の中でも意見の分かれるところである。
稀に美術品のように美しいプーパも居るが、プーパが精巧であればあるほど、それを作った悪魔が退屈している証であるとも言える。
もっとも、対岸に現れたプーパは適当に伸ばした胴体に細い手足をくっつけただけの雑な造形なので、製造者はそこまで暇な悪魔ではないようだ。
説明しておくと、〈悪魔〉とは魔物と亜人と神の中間のような魔物で、存在を神から遠ざけたような魔物である。
どちらかといえば善より悪を愛していて、人の血肉や魂を喰らうのが好きで、ちょっとした悪戯も好き。殺戮を観賞するのも好き。嘘も詐欺も呪術も好き。強者も弱者も甘いものも辛いものも、老若男女どころか胎児以前から死者以降まで大好きだという多趣味な個体が多い。
悪魔には位があって、特に上位悪魔の「アーモン」などは人々にも知られるほど有名である。
「プーパを叩くと悪魔が出てくるんだ」
リュークが言うと、グランツは「おや?」と思って、「叩かなければ出てこないのか?」と聞いてみた。
「気付かれなかったら出てこないよ。でも、プーパが叩いてくるよ。プーパは叩くのが好きなんだ」
「ふむ」
グランツはふらふら動くプーパの背後に視軸を合わせた。
影に抱かれる森の中は不気味なばかりで殆ど何も見えない。
だんだんと近付いてきていたプーパが、ついに崖の間際までやって来た。
……あっ、と思った時には、プーパは既に川へ落ちていた。溺れるというより、挿し込んだというような感じで流れの中に消えたプーパ。だが、唖然とする間もなく、グランツは水が黒く染まっていることに気付きゾッとする。
「叩かれるよ、かっか」
リュークの言葉に反応したのか、あるいは卓越した本能か、グランツは直感で二歩下がった。そして一度瞬きすると、目の前にプーパの黒い体があった。
細い枝のようなプーパの腕が鞭のように空を切り裂きながらグランツの横腹を襲う。グランツは驚きに硬直しながらもなんとか剣を当てて致命傷を避けたが、よくしなる腕の先が背を掠め、まともに攻撃を受けた剣は一撃で大きく刃が欠けてしまった。
腕の先に当たったのが頑丈な背中で助かった。それよりも二歩、もしも下がっていなければ、鞭を引く時の要領で反対側の腹まで抉られていた。
グランツは飛び退いて距離を取りたかったが、すぐ近くにはリュークとリンが居る。背中の痛みに顔を歪めつつ、どうしたものかと悩むそばから思い切って剣を振り、プーパの胴を斬りつけると、意外なことにプーパがよろけて河原に転がった。
「……はっ! しまった!」
──プーパを叩くと悪魔が出る。
さっき聞いたばかりなのに、もう叩いてしまった。見ると、少年と魔狼が不思議そうにグランツを見上げている。「悪魔に会いたいのか」とでも言いたげな顔である。
(そんなつもりは……いや、手合わせはしてみたいが、流石に悪魔はどうだろうか)
神に近く、神から遠い存在。
悪魔とは、時に魔王を名乗る魔物でもある。
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