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ヴレド伯爵領(47〜)

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 リンが目覚めたのは、夜明け前のことだった
 腹のあたりに、ほんの微かな重みがある。

(リューク、つぶれてない)

 柔らかな白い毛の隙間に黒い外套の端っこを見つけ、小さな寝息を聞き、リンはほっとした。
 伸びと毛づくろいをしたいところだが、じっと我慢する。
 まだぼんやりとした頭で、こうして一緒に居られることが夢のようだと考えつつ、少年の匂いに奇跡を実感する。


 テルミリアの教会で墓地に閉じ込められていたとき、ふと──何かに囁かれた気がした。
 急速に胸がざわめくのを感じた。近くに何かがやって来たと分かった。それは、リンの本能が強く求めていたものに違いなかった。


 テルミリアで魔狼の姿になることを禁じられていたリンは、少女の手で墓地の階段の壁や床を掘ろうとしたが、無駄に頑丈な結界のせいで掘り進めることは出来なかった。
 一緒にいた二人の幼い獣人は、泣いていることが多かった。一人きりという訳でなく、食べ物も飲み物も明かりもあるのに、「外へ出られない」という現実だけで不安になる気持ちはよく理解出来る。リンも、彼らを助けてやれず、自分の求めるもののところへも行けないのが嫌だった。
 もう無理だと自棄になりかけた。魔狼の姿に戻って、さっさと自由になりたかった。
 ──あのとき耐えられたのは、ずっと穏やかに寄り添ってくれた修道女リリアンヌとアンデッド老爺のおかげだろう。

 リュークと居れば、もう何も我慢しなくて良いと思っていた。けれど、いざこうして側に居ると、リュークのために何でも我慢しようと思えるから不思議だ。

 これまでの多くは辛い時間だった。墓地でのことも、数年間も人型をとり続けていたことも、見知らぬ奴らに石を投げられたことも、言葉が上手く伝わらないことも、しんどかった。
 しかし、これまでに起きたことは無意味ではなかったような気がする。ヨシュアと出会ったことも、フルルに教育されたことも、偽物の神官がやってきたことも、きっと何もかも。



 黒い外套からはみ出していた少年の棒きれのような脚をそっと尻尾で覆い隠す。

 ──ちっぽけなリューク。大切な彼を踏み潰してしまわないようにしなければ。

 安心からか再び眠気を催したリンは、一つ大きな欠伸を噛み殺して前足に顎を乗せ直した。









 淡い朝靄の中、リンとリュークが二人で地面を掘っているところを遠目に見つけたミハルは、二人を呼んで歯磨きをしてやり、リュークの着替えとリンのブラッシングを済ませた。
 いつもフード付きの黒の外套を着ているせいで同じ格好に見えるリュークだが、アルベルムで世話焼きな大人たちが沢山服を買い与えたので、着替えは山程持っている。いつも可愛らしい服を着せてもらっているのに、どうしても外套を身に着けたいリュークには何か理由があるのだろうか?
 ──きっと、ご両親がくれたものだからよね。と、ミハルは考えて涙ぐむこともしばしば。

 控えめな朝焼けが消える頃、ブラッシングで綺麗な毛並みを取り戻したリンは、とても高級な犬のようだった。気を抜くと大きくなり過ぎるのと、食べ物を見てよだれを垂らし続けるところがなければ、さぞ育ちの良いペットと思われることだろう。


 さて、それから朝食を終えた一行は、予定通り東へ向けて出発した。
 空は晴れているが昨日より雲が多く、風には夜の涼しさが残っている。

 ヴレド伯爵のペガサスが大空を翔ぶ気配はなく、大きな翼を揺らして、最後尾のソロウの馬と並び歩いている。ヴレド伯爵は、グランツとレオハルトと共に馬車の中に居る。
 リュークは、リンの背中に乗せてもらって嬉しそうだ。先頭のギムナックとミハルもそれを見て笑顔になる。

「良かったわね、リューク、リン」

 馬上からミハルが声を掛けた。リュークは「うん」と返事して、大きな魔狼の肩を撫でている。リンは嬉しさのあまり尻尾を振り回しながら飛び跳ねたくて堪らなかったが、一生懸命自制に努めて背中を揺らさないように歩いた。

 さすがに公衆の面前でドラゴンに乗る訳にはいかないが、魔狼であれば万が一目撃されても辛うじて誤魔化しが利く。何故と言えば、一行を引き連れているのがアルベルム辺境伯であるからだ。
 アルベルム辺境伯であれば、魔物の一体や二体くらい調教していてもおかしくない。世間はそう思う筈である。


 ところで、問題はヴレド伯爵のことである。
 彼をこのまま適当な街へでも放り投げて行きたいのは山々だが、後で伯爵が元に戻ったときに本人と街の両方から恨みを買うことは避けたい。
 どうにかして伯爵を元に戻し、すぐにでも別れたいところであった。

 ──が、願いは叶わず、関所へ到着するまでは順調と思われた道程は、途中の山で足を怪我した村人を介抱したり──皮膚が焼けだだれたような奇妙な鳥の雛が崖に引っかかっていたときは拾って巣を探して返してやったり──谷間の土砂崩れで道を塞がれたり──大雨に足止めされたり──その先の川の橋が落ちていたり──ペガサスが歩くのを嫌がったりして、かなり急ぎ足で進んだにも関わらず、予定では関所での拘束時間を含めて四日間で通過するはずであったヴレド伯爵領に費やした時間は、なんと七日半。

 本来ならとっくに王都に到着していても良い頃だというのに、まだ半分ほどしか進めていない。

 そもそもある程度の余裕を設けて組んでいる旅程において、これだけの差異が生じることは稀である。旅の経験に富む冒険者たちですら、にわかに焦りを感じ始めていた。
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