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ツーラインジャージ
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俺は人混みの中で俺と目があった。
嫌なときに会ったものだと苦虫を噛み潰した。
そこにいると気付くまで、アイツは人混みの中でずっと俺を見つめていた。
アイツの姿は紛れもなく俺、田中譲司そのものだった。
目を合わすと何事もなかったようによそ見してどこかへ消えてしまう。
しばらくしてまた鏡やショーウィンドウに映って俺につきまとう。
何かを暗示するように。
俺は確かに最近ちょっと疲れていた。
精神的に参っていた。だが、幻覚を見るほどという自覚はなかった。
大学を卒業し、小さな印刷会社に就職して3年。
最近、仕事に身が入らない。
いろいろあって空しかった。追えども追えども雲のように夢は遠のくばかり、
そんなある日付き合っていた彼女に結婚すると告げられ、別れを持ちかけられた。
その次の日、俺は会社を休み、部屋で退屈を持て余していた。まるで腑抜けだ。リラックスするためのお茶さえ用意できない、力が入らない。
言うなればごろ寝のためのごろ寝、そんな感じで寝転がっていた。
誰かが何かをドアポストに投函していく。
駅前のショッピングモールのチラシだった。
その広告写真に青空の下、陽気にウォーキングする若者の姿が映っていた。 2人は笑顔で草萌える土手を颯爽と歩いている。
草いきれさえ跳ね返さんばかりの青さ溢れるカップルが互いにアイコンタクトなどしながら歩いている。
俺はその眩しさに舌打ちした。
それを見て、先ず思ったのが運動不足だ。
熱もないのに額に手を当て悩んでみるふりをしたが言いようのない疲労感を覚えた。
何をしても疲れやすくなっていた。
お揃いのジャージには黒地のファブリックに白い2本のラインが入っていた。
体力の低下が気力のなさに直結した。
DTP中心の仕事で通勤は電車。脚力は低下の一途をたどっている。
ウェアを揃えるところからウォーキングを始めよう。
そう思い立った。
何でも形から入るのが自分の性に合っている。
それなら、ということで、早速駅前のショッピングモールまで歩くことにした。ウェア?それを買いに行くのさ。
ジーパンの上にモスグリーンのナイロンのジャケットを羽織り、白いレザースニーカーに足を差し込みドアノブを捻った。ヒヤリと首を撫でる外気が心地よい。
駅前の繁華街は、付き合っていた彼女と大学の頃適当にぶらついた思い出の街だ。炊きたてのご飯が何をおかずにして食べても美味いように付き合い始めた頃の俺達はただ、街を歩いて回るだけで楽しかった。広告やドラマや映画の中にも自分達を見つけた。
そんな思い出も、あの頃に比べて
すっかり様変わりした街の中から消え失せていた。足を止めて覗いたショップのショーウィンドウも閉店でただ、街というパズルを埋めるピースの如き虚ろな外観を晒し寂れゆく街並みと共にグレースケールのようになっていた。音痴を露呈したカラオケ店もお揃いにしようと一緒に契約した携帯電話の店も、示し合わせたように店を畳んでいた。
何よりもその彼女が結婚し、この街の風景は、色褪せ行く過程を色濃く映していた。
いかなるハイスペックのパソコンで編集しようとも色鮮やかな風景はもう戻らない。
悔いるなら、彼女と距離を置いてしまったことだ。
仕事がいそがしくて心まで距離を置いてしまった。
わかっていて何もできなかった。
自分では心の、恋する部分だけを切り離して彼女に置いてきたつもりだった。
離れていても、彼女は、それを大事に温めてくれていると勝手に思い込んでいた。
どす黒い悔恨に塗れて心は青いカンヴァスに吸い込まれてゆく。でももう夢も見られなくなっていた。だから果てしなく浮かんで見える内のそのたった一つの白い雲にさえ
乗ることが叶わず徒に両手を広げ羽ばたいてみる。
鳥を真似て街を見下ろし、2人で過ごした場所をあちこち彷徨う。
でも片翼を失くした天使のように、針が飛ぶレコード盤よろしく同じ場所でつまづいた。
それはあそこだ。
いつも待ち合わせをしたお気に入りのカフェ、彼女はいつも先に来て待っていてくれた。
おいしいパンケーキと香ばしい紅茶を思い出す。笑顔でそれを口に運ぶ眩しさに気まずさは立ち消えになるほどの力があった。
しかし彼女が結婚し、恋を失くしたとき、その場所は幸せに描いた地図から抜け落ちる。陥没する埋立地の如く基盤の脆さを露呈した俺たちの絆って如何ように結ばれていたのか。
街に存在しているのは、同じ形をした抜け殻だった。
同じ店、同じ場所、同じパンケーキ同じ紅茶の香り。
にも関わらず、何一つとして同じ物は存在しなかった。
多元世界にある同じ場所のように。
迷宮からの脱出に失敗したイカロスは、太陽に突き放されて空から落ちる。
地面に吸い込まれるイカロスのように今自分は、別の次元にある思い出の世界をこちら側から見ている。
振り返るには時間に隔たりがない思い出を。蛹のような思い出を。だが大きくはならない。
足が重くならないように、そして下を見ないように意識して歩いた。
こちら側の世界を、腕を振って歩いた。
出勤のとき、そのカフェの前を通る。
毎日心を落とし、ひろい上げていく日課をこなしながら。
体のあちこちに滞った血流を電車に揺らされ、駅のモブシーンを歩くエキストラに混ざって無表情を意識して
そして心は
ものごとがうまくいくことを恐れ、不器用に憧れる。
ジーンズの尻ポケットからスマホを取り出し、時計を見た。
午後5時15分。もう1時間弱、歩いたことになる。
何となく、ウォーキングという目的をこなした気分になった、そんな頃だった。
急に雨が降り出し、大粒の雨滴が服を叩いて促す
それはすぐ豪雨に変わり、淡く、青く滲んだアスファルトはマジシャンが捲ったスカーフから現れたように紺青に染まる。
軒下という軒下に小走りで人が殺到し、雨宿りの人垣ができた。
予期せぬ降雨だった。みな口々に天気予報の話題をしている。
当たらなかった低い降水確率をだ。
その中で、ひとり雨に打たれた。
同じようなものだと納得した。
失くした恋の、思い出の場所をふり返るというのは、雨の日を選んで歩くウォーキングのようなものだと思った。
とんだ営業妨害だ間口3メートルほどの店の前に20人くらいの人がひしめき合う。
予感はあった。
その中の誰かが、自分が履いているものと同じデザインのスニーカーを履いていた。
雨足が強くなる。バケツをひっくり返したような、そんな表現がぴったりくる。
俺はもう一人の自分と目が合った。
ドッペルゲンガー、俺はそう思った。
ドッペルゲンガー、幻覚にしては、目の前にいるアイツはリアルに過ぎる。
自分自身の姿を自分が見る。
それは自分を客観視し、振りかえる機会にも思えた。
今まで、確かに自分自身が見えていなかった。
ドッペルゲンガーという幻覚を超常現象として扱う文献にはこうある。
自分のドッペルゲンガーを見るとしばらくして死ぬと。
ドッペルゲンガーは周囲の人間と会話をしない。
さっき突然の豪雨に見舞われたとき、雨宿りをした通行人は口々に降水確率や外れた天気予報の話をした。
そのとき相づちを打つでもなくアイツは口を開いた。
「あの夜さえなければ……」
人はきっかけがないと、多くを見逃してしまう。
独り言に抱いた違和感が大きくなっていく。
あの夜。
振りかえるべき夜があるとすればあの晩以外にない。
同僚の結婚式があり、その二次会で飲んでいたときのことだ。
結婚5年目という上司が、亭主の浮気とセックスレスを打ち明けてきた。
見つめ合う時間が続き、自然と、自分ができることを探し始めた。
裸で抱き合い、彼女の体の上でそれを探した。
2人だけでホテルへ行ってからのことだ。
理由はどうあれ、不倫は不倫である。
再び求めてきた上司に、一夜限りの関係で済ませたいと告げた。
彼女は怒った。彼女を傷つけてしまった。
真剣な仕事ぶりを見て、俺を真面目な男だと彼女は評価したのだろう。彼女が思うほどには、俺は誠実な男じゃなかった。
仕事は一つひとつ区切りを付けられるが、恋はそうはいかない。
たがいにそんなことを言い合ってすれ違った。
そんなつもりではなかった。
それを言い訳に頑なな態度をとるのであれば、簡単に男と女になるべきじゃないし、なってはいけない。
今にして思えば裏切りだ。
俺はたった一晩で、2つの大事にすべき気持ちを裏切った。
相手にわからなければ、恋人以外の女と一夜くらい寝てもいい。
一夜くらいの慰めなら、悩みの解消という名目で他人のパートナーの女性に付き合ってもいいと。
自分に都合のいいように女との約束事を解釈した。
関係に歪みが出て当然である。
付き合っていた彼女が結婚相手と交際を始めたのは、どうやらあの夜に関係があるらしい。
職場の上司は、俺の頑なに拒む態度を憎み始めていた。
仕事上の露骨な嫌がらせに飽き足らなかったのかも知れない。
それでも、そんな彼女にはなびかなかった。
恋の相手として、連れ添う女としてその上司を好きになれなかったのである。
人は簡単に男と女になってはいけない。
雨が止んだ。通り雨にしては長く感じた。
雨に自らを打たせた自分は、解散する雨宿りの群れから取り残され、1人たたずんだ。
用が済んだかのようにアイツも消えていた。
濡れて輝きを増した街は、それまでの湿度を孕んだ空気を一掃し、新たな命を吹き込む。
そして俺は歩き出した。
踏み切りで足を止められ、電車の通過を待っていた。
線路の向こう側に個人経営のスポーツ用品店が見える。
足はそこへ向かった。
その店先に、ダークグレーのデザインを基調に赤い2本のラインが入ったジャージが吊るしてある。
遮断機が下り、警報が鳴り響く。
心が、何かを急かす。
誰かが後ろに立ったことを気付かせるように。
目の焦点が吊るされたジャージからショーウィンドウの窓ガラスの反射に合う。
アイツじゃない。
ショーウィンドウに映っているのは、サングラスをかけてベースボールキャップを目深にかぶる女だった。
女だとしたのは、ベースボールキャップがピンクで、リップは赤く、黒いジョギングウェアにふくよかな胸を認めたからだ。
それと、ほんのり甘い香りもした。どこかで嗅いだことのある罪深き香りだ。
ふくよかな胸、ふくよかな胸。目を閉じて繰り返しつぶやく。
あの夜、亭主の浮気とセックスレスを打ち明けた上司の悩みを聞く振りをして抱いた理由は、同情だけではなかった。
そのふくよかな胸を、セックスレスという現実で持て余していることにも我慢がならなかった。
遠くから電車の近付いてくる音がする。
意を決して振り向いた。
誰もいなかった。
線路に電車が近付いてくる。
通過する風が髪を叩き、ジャケットのジッパーに引っかかりながら過ぎていく。
電車の連続する窓に、ダークグレーのデザインを基調に赤い2本のラインが入ったジャージを着ている者が映っている。
アイツだ。
ダークグレーを線路の敷石に、赤い2本のラインを線路に見立てると、
アイツは俺に何を教えようとしているのだ。
どんな目で俺を責めようとしているのだ。
だが、もう目を合わせることはなかった。
なぜなら、アイツには首から上がなかったからだ。
嫌なときに会ったものだと苦虫を噛み潰した。
そこにいると気付くまで、アイツは人混みの中でずっと俺を見つめていた。
アイツの姿は紛れもなく俺、田中譲司そのものだった。
目を合わすと何事もなかったようによそ見してどこかへ消えてしまう。
しばらくしてまた鏡やショーウィンドウに映って俺につきまとう。
何かを暗示するように。
俺は確かに最近ちょっと疲れていた。
精神的に参っていた。だが、幻覚を見るほどという自覚はなかった。
大学を卒業し、小さな印刷会社に就職して3年。
最近、仕事に身が入らない。
いろいろあって空しかった。追えども追えども雲のように夢は遠のくばかり、
そんなある日付き合っていた彼女に結婚すると告げられ、別れを持ちかけられた。
その次の日、俺は会社を休み、部屋で退屈を持て余していた。まるで腑抜けだ。リラックスするためのお茶さえ用意できない、力が入らない。
言うなればごろ寝のためのごろ寝、そんな感じで寝転がっていた。
誰かが何かをドアポストに投函していく。
駅前のショッピングモールのチラシだった。
その広告写真に青空の下、陽気にウォーキングする若者の姿が映っていた。 2人は笑顔で草萌える土手を颯爽と歩いている。
草いきれさえ跳ね返さんばかりの青さ溢れるカップルが互いにアイコンタクトなどしながら歩いている。
俺はその眩しさに舌打ちした。
それを見て、先ず思ったのが運動不足だ。
熱もないのに額に手を当て悩んでみるふりをしたが言いようのない疲労感を覚えた。
何をしても疲れやすくなっていた。
お揃いのジャージには黒地のファブリックに白い2本のラインが入っていた。
体力の低下が気力のなさに直結した。
DTP中心の仕事で通勤は電車。脚力は低下の一途をたどっている。
ウェアを揃えるところからウォーキングを始めよう。
そう思い立った。
何でも形から入るのが自分の性に合っている。
それなら、ということで、早速駅前のショッピングモールまで歩くことにした。ウェア?それを買いに行くのさ。
ジーパンの上にモスグリーンのナイロンのジャケットを羽織り、白いレザースニーカーに足を差し込みドアノブを捻った。ヒヤリと首を撫でる外気が心地よい。
駅前の繁華街は、付き合っていた彼女と大学の頃適当にぶらついた思い出の街だ。炊きたてのご飯が何をおかずにして食べても美味いように付き合い始めた頃の俺達はただ、街を歩いて回るだけで楽しかった。広告やドラマや映画の中にも自分達を見つけた。
そんな思い出も、あの頃に比べて
すっかり様変わりした街の中から消え失せていた。足を止めて覗いたショップのショーウィンドウも閉店でただ、街というパズルを埋めるピースの如き虚ろな外観を晒し寂れゆく街並みと共にグレースケールのようになっていた。音痴を露呈したカラオケ店もお揃いにしようと一緒に契約した携帯電話の店も、示し合わせたように店を畳んでいた。
何よりもその彼女が結婚し、この街の風景は、色褪せ行く過程を色濃く映していた。
いかなるハイスペックのパソコンで編集しようとも色鮮やかな風景はもう戻らない。
悔いるなら、彼女と距離を置いてしまったことだ。
仕事がいそがしくて心まで距離を置いてしまった。
わかっていて何もできなかった。
自分では心の、恋する部分だけを切り離して彼女に置いてきたつもりだった。
離れていても、彼女は、それを大事に温めてくれていると勝手に思い込んでいた。
どす黒い悔恨に塗れて心は青いカンヴァスに吸い込まれてゆく。でももう夢も見られなくなっていた。だから果てしなく浮かんで見える内のそのたった一つの白い雲にさえ
乗ることが叶わず徒に両手を広げ羽ばたいてみる。
鳥を真似て街を見下ろし、2人で過ごした場所をあちこち彷徨う。
でも片翼を失くした天使のように、針が飛ぶレコード盤よろしく同じ場所でつまづいた。
それはあそこだ。
いつも待ち合わせをしたお気に入りのカフェ、彼女はいつも先に来て待っていてくれた。
おいしいパンケーキと香ばしい紅茶を思い出す。笑顔でそれを口に運ぶ眩しさに気まずさは立ち消えになるほどの力があった。
しかし彼女が結婚し、恋を失くしたとき、その場所は幸せに描いた地図から抜け落ちる。陥没する埋立地の如く基盤の脆さを露呈した俺たちの絆って如何ように結ばれていたのか。
街に存在しているのは、同じ形をした抜け殻だった。
同じ店、同じ場所、同じパンケーキ同じ紅茶の香り。
にも関わらず、何一つとして同じ物は存在しなかった。
多元世界にある同じ場所のように。
迷宮からの脱出に失敗したイカロスは、太陽に突き放されて空から落ちる。
地面に吸い込まれるイカロスのように今自分は、別の次元にある思い出の世界をこちら側から見ている。
振り返るには時間に隔たりがない思い出を。蛹のような思い出を。だが大きくはならない。
足が重くならないように、そして下を見ないように意識して歩いた。
こちら側の世界を、腕を振って歩いた。
出勤のとき、そのカフェの前を通る。
毎日心を落とし、ひろい上げていく日課をこなしながら。
体のあちこちに滞った血流を電車に揺らされ、駅のモブシーンを歩くエキストラに混ざって無表情を意識して
そして心は
ものごとがうまくいくことを恐れ、不器用に憧れる。
ジーンズの尻ポケットからスマホを取り出し、時計を見た。
午後5時15分。もう1時間弱、歩いたことになる。
何となく、ウォーキングという目的をこなした気分になった、そんな頃だった。
急に雨が降り出し、大粒の雨滴が服を叩いて促す
それはすぐ豪雨に変わり、淡く、青く滲んだアスファルトはマジシャンが捲ったスカーフから現れたように紺青に染まる。
軒下という軒下に小走りで人が殺到し、雨宿りの人垣ができた。
予期せぬ降雨だった。みな口々に天気予報の話題をしている。
当たらなかった低い降水確率をだ。
その中で、ひとり雨に打たれた。
同じようなものだと納得した。
失くした恋の、思い出の場所をふり返るというのは、雨の日を選んで歩くウォーキングのようなものだと思った。
とんだ営業妨害だ間口3メートルほどの店の前に20人くらいの人がひしめき合う。
予感はあった。
その中の誰かが、自分が履いているものと同じデザインのスニーカーを履いていた。
雨足が強くなる。バケツをひっくり返したような、そんな表現がぴったりくる。
俺はもう一人の自分と目が合った。
ドッペルゲンガー、俺はそう思った。
ドッペルゲンガー、幻覚にしては、目の前にいるアイツはリアルに過ぎる。
自分自身の姿を自分が見る。
それは自分を客観視し、振りかえる機会にも思えた。
今まで、確かに自分自身が見えていなかった。
ドッペルゲンガーという幻覚を超常現象として扱う文献にはこうある。
自分のドッペルゲンガーを見るとしばらくして死ぬと。
ドッペルゲンガーは周囲の人間と会話をしない。
さっき突然の豪雨に見舞われたとき、雨宿りをした通行人は口々に降水確率や外れた天気予報の話をした。
そのとき相づちを打つでもなくアイツは口を開いた。
「あの夜さえなければ……」
人はきっかけがないと、多くを見逃してしまう。
独り言に抱いた違和感が大きくなっていく。
あの夜。
振りかえるべき夜があるとすればあの晩以外にない。
同僚の結婚式があり、その二次会で飲んでいたときのことだ。
結婚5年目という上司が、亭主の浮気とセックスレスを打ち明けてきた。
見つめ合う時間が続き、自然と、自分ができることを探し始めた。
裸で抱き合い、彼女の体の上でそれを探した。
2人だけでホテルへ行ってからのことだ。
理由はどうあれ、不倫は不倫である。
再び求めてきた上司に、一夜限りの関係で済ませたいと告げた。
彼女は怒った。彼女を傷つけてしまった。
真剣な仕事ぶりを見て、俺を真面目な男だと彼女は評価したのだろう。彼女が思うほどには、俺は誠実な男じゃなかった。
仕事は一つひとつ区切りを付けられるが、恋はそうはいかない。
たがいにそんなことを言い合ってすれ違った。
そんなつもりではなかった。
それを言い訳に頑なな態度をとるのであれば、簡単に男と女になるべきじゃないし、なってはいけない。
今にして思えば裏切りだ。
俺はたった一晩で、2つの大事にすべき気持ちを裏切った。
相手にわからなければ、恋人以外の女と一夜くらい寝てもいい。
一夜くらいの慰めなら、悩みの解消という名目で他人のパートナーの女性に付き合ってもいいと。
自分に都合のいいように女との約束事を解釈した。
関係に歪みが出て当然である。
付き合っていた彼女が結婚相手と交際を始めたのは、どうやらあの夜に関係があるらしい。
職場の上司は、俺の頑なに拒む態度を憎み始めていた。
仕事上の露骨な嫌がらせに飽き足らなかったのかも知れない。
それでも、そんな彼女にはなびかなかった。
恋の相手として、連れ添う女としてその上司を好きになれなかったのである。
人は簡単に男と女になってはいけない。
雨が止んだ。通り雨にしては長く感じた。
雨に自らを打たせた自分は、解散する雨宿りの群れから取り残され、1人たたずんだ。
用が済んだかのようにアイツも消えていた。
濡れて輝きを増した街は、それまでの湿度を孕んだ空気を一掃し、新たな命を吹き込む。
そして俺は歩き出した。
踏み切りで足を止められ、電車の通過を待っていた。
線路の向こう側に個人経営のスポーツ用品店が見える。
足はそこへ向かった。
その店先に、ダークグレーのデザインを基調に赤い2本のラインが入ったジャージが吊るしてある。
遮断機が下り、警報が鳴り響く。
心が、何かを急かす。
誰かが後ろに立ったことを気付かせるように。
目の焦点が吊るされたジャージからショーウィンドウの窓ガラスの反射に合う。
アイツじゃない。
ショーウィンドウに映っているのは、サングラスをかけてベースボールキャップを目深にかぶる女だった。
女だとしたのは、ベースボールキャップがピンクで、リップは赤く、黒いジョギングウェアにふくよかな胸を認めたからだ。
それと、ほんのり甘い香りもした。どこかで嗅いだことのある罪深き香りだ。
ふくよかな胸、ふくよかな胸。目を閉じて繰り返しつぶやく。
あの夜、亭主の浮気とセックスレスを打ち明けた上司の悩みを聞く振りをして抱いた理由は、同情だけではなかった。
そのふくよかな胸を、セックスレスという現実で持て余していることにも我慢がならなかった。
遠くから電車の近付いてくる音がする。
意を決して振り向いた。
誰もいなかった。
線路に電車が近付いてくる。
通過する風が髪を叩き、ジャケットのジッパーに引っかかりながら過ぎていく。
電車の連続する窓に、ダークグレーのデザインを基調に赤い2本のラインが入ったジャージを着ている者が映っている。
アイツだ。
ダークグレーを線路の敷石に、赤い2本のラインを線路に見立てると、
アイツは俺に何を教えようとしているのだ。
どんな目で俺を責めようとしているのだ。
だが、もう目を合わせることはなかった。
なぜなら、アイツには首から上がなかったからだ。
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