RED LOTUS MAN

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リセットのトリセツ

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今日も繁忙期を卒なくこなし何事もなく終業を控えるに至った。気を持たせ過ぎたせいか、ナナとも少しギクシャクしている。それにしても熱血漢というかナナは今時珍しく硬派にして情に熱い男だ。別に自分がしなくてもいい仕事等も自らが見付けて進んで片付けてしまう。全体を見てこれを自分が片付ければ厨房の作業が人間関係を含めてうまくことが運ぶというように立ち回るし実際うまくいく。料理見習いのアイも腕を磨くのに役立っているみたいだ。だから最近目に見えて実力が付いている。仮にそれが好きな女へのアピールという下心の為せるものであるとして、その分を差し引いても余りある。そんな計算外の効果で連休で
 予想された繁忙期も何とか凌ぎ、皆手一杯で次の仕事に掛かれずにいたところのスタッフもピークを越えて表情に余裕が出来て来た。
 かくいう私も飛び込みで来店するディナーの客を受けて一仕事捌いた後、帰宅までに片付けなくてはならない残務整理があったがいつもより重く感じない。伝票をチェックして発注をかけるだけだと抑圧も受けない。厨房の流れがよく店も回転がいい。ナナの謙遜がいい方向でバネになり、彼の働きを良くして当人も気付かない重要なポジションになりつつある。
 いつものように厨房を後にし、一息ついてから残務整理に取り掛かることにしよう。ミスがないようにそのための英気を養う、元気を補充するためにロッカー兼収納庫に来た。これはほぼ日課となっている。沢山の鍋から湯気が上がりさしずめ人間用スチーマーと化している厨房と違い夕暮れの暗闇に浮かぶその佇まいはひんやりと涼しげで心が落ち着く。ゆっくりと樹々を揺らす風に虫の音が混じるもう夏も終わりだ。
 おかしい、誰もいないはずなのに収納庫から物音がする。誰だ。なぜかアタルがいた。ここに来ると思って私を待っていたのか。
「ミケタお疲れ。コーヒーか紅茶、どっちがいい?」
私のために?
「いいわ自分でやる」
「なに、ついでだ。俺んとこの備品でもないのに勝手にご馳走に預かってて気まずいしさ
」なるほど、そう言えば誰の許可も得ていそうにないわね。
この、ロッカー兼収納庫にある備品のコーヒーはドリップの物しかない。手間を他人に負担させるのを嫌い、ティーバッグで済む紅茶を頼んだ。「落ち着いたところでさ」
「ゴメンすぐ戻らなきゃいけないの。何か用?」「おいおい、何か用もないもんだろ。俺と多輪和チーフとの間柄で」間の悪い男だ張り詰めたテンションを下げたくない。私には毎日が真剣勝負なの。「今日は終わりかけているけどここまで上手く行ったからといって気を緩めるわけに行かない大事な締めなの、注意を逸らさせないで。「それで何か用?」
「仕事の邪魔するつもりはない」「実は少しだけ、少しだけ話を聞いて欲しいんだ」
  いつもより殊勝な態度に目も見ず俯いて許可を示す。
 「弁解するつもりじゃないけど、最初は材料の偽装をせずにちゃんとしていた。だがどうしても格安の輸入食材を使うライバルに後れをとり、次第に店の近くに競合店の出店を許した」
「わかってくれ従業員を露頭に迷わせるわけにはいかない。非情な業界にあって、良心を手放すのは食品偽装までにとどめておきたかったんだ」
 アタルは嘘を吐いている。どこかでそう感じた。こんなに真剣な表情がそう思わせているのか。今まではずっと余裕でやってきたじゃない。これからの成功は適当にしてても実現できる、顔にそう書いてあったくらい。

 だからというわけじゃないけど何だか集中できない。真面目な話が退屈ってことじゃない、何だか身が入りにくい。
「ミケタ、いいや実子、落ちぶれた実業家なら、君の配偶者としての資格はない」
 首を横に振るのも煩わしい。私はそんな尺度で男を測る女じゃない、それと恋愛感情はまた別だと言いたかった。でもはっきり言って眠い。
「楽になりなよ」 悲劇の主人公然としていたアタルは、普段の余裕綽々の表情に戻っている。こんなことならさっき、紅茶じゃなくてコーヒーをもらうんだった。紅茶、まさか。
「何か入れたのね」
「まあ、そう気にすることもない。体の自由を奪うほどのものでもないから。それに俺は抵抗された方が燃えるんだ」 こんな奴のことを信用した自分がバカだった。残りの紅茶を顔に引っ掛けてやりたいけど、手が、手が動かない。電話を掛けなきゃ。だがアタルは私のジーンズのポケットに手を入れ
スマートフォン取り出してダイヤルしている。
「ちょっと私の電話返しなさいよ!」
「駄目だこれから鳴沢クンに男同士のお話があるんだ。これからこのスマートフォンが俺とミケタの愛し合う一切を実況するのさ一部始終をね」
「アンタ何考え……」 それ以上は言葉にならなかった。頭の中が真っ白になり、ナナに来ないでと心で繰り返した。
「繋がらない。運のいい奴め」 アタルは舌打ちをし、今度は留守電にメッセージを入れている。「もしもし、鳴沢クンかな?俺だよ深川だ。今倉庫にいる。ミケタも一緒だ。2人とも生まれたままの姿さ。見れば見るほどお前にはもったいない。俺がお前に相応しい相手を紹介してやる。今から彼女の本音の訴えを聞かせてやるお前より俺がいいという心からの訴えをな」
深い後悔と共に全身が震える。何もかも終わりだ。そう、何もかも。
 ここでは嫌だ。この場所には思い出がある。うまく行かなかった時、失敗した時、ここへ食材を取りに来る振りをして頭を冷やした。無言のロッカーに向かい、けして弱くないノックを繰り返した。私の成長を見てきたロッカーの前で、私は
「ハッハッハッハ」
 謎の高笑いが聞こえる。変態な男だったんだ、アタルは。
「ハッハッハッ、ハッハッハッハ。そこまでだ、深川中」
「何だお前は

 ああ、来てくれた。心のどこかでなぜか待っていた。
「お前は誰だ」
「俺は野菜に選ばれし男、レッドロータスマン! 野菜の敵はこの俺が成敗する」 
「お前鳴沢だろ」 どこかで聞いたセリフを浴び、俺は否定も肯定もしなかった。突然の出来事にミコは戸惑っている。しかも仕事中だ。彼女のプロ意識が必要以上に混乱を来している。取り敢えず深川を排除して動揺から解放しなくては彼女がここに来た意味がない。「ミコ、ここは俺に任せて仕事に戻った方がいい」取り敢えずこの場の緊張を解く為に馬鹿男の顔面に一発お見舞いした。途端に冷静な表情を取り戻して慌ててパンプスを突っ掛ける月夜を舞う白百合の姿動揺したまま呆気に取られる女の敵に向かい両の手を胸の前でクロスして奴の腕を取った「地獄五段返し!」無抵抗の女に毒牙を剥こうとした悪漢にその休憩室は痣と筋肉痛をしこたま拵える闘技場と化した。「念のためレントゲンも撮ってもらうんだな打撲痕が引いてきたときに露見しても遅い。これくらいにしといてやる歩けるうちに帰れ」



「弁解するつもりじゃないけど、最初は材料の偽装をせずにちゃんとしていた。盤内さんのバックアップも完璧なフォローをしてもらっていた。だがどうしても格安の輸入食材を使うライバルに後れをとり、次第に自分の店舗の近くに競合店の出店を許した」
「話ってそのこと?」「他に何がある?」
「わかってくれ、従業員を露頭に迷わせるわけにはいかない」「だろ」

 アタルは嘘を吐いている。今まではずっと余裕でやってきたじゃない。これからの成功は適当にしてても実現できる、顔にそう書いてあった。事務椅子に胡座をかき微塵も眉を顰めることなく部下や出入り業者に強弁を奮ってきたじゃない。
「弁解するつもりじゃないけど、どこかで歯車が狂って運営に致命的なミスを招いた。だが少しも止めることは出来なかった停めてやり直せば修正も利くがサラリーが賄えない」
「これでも会社としては危機を乗り切って上手くやれたと思っている」
 アタルは自分の砦に陣取る時よりは殊勝になり淡々と言い訳のような説明を繰り返す。

 自己弁護とわかっていて聞いている振りをするのも誠意がない。かと言って無視することも憚られた。
「わかってくれ、従業員を露頭に迷わせるわけにはいかなかった。非情な業界にあって、良心を手放すのは食品偽装までにとどめておきたかったんだ」
そのせいでうちの社長は信頼を失うリスクを背負うのよ
 彼はそこで話を区切った。彼はこんなに真剣な表情で喋る男じゃなかった。
「気にしてないわ。ビジネスライクに行きましょ。弁解は社長にして頂戴」
「前からミケタにアドバイスしようと思っていた」何よご丁寧に自分で招いたアクシデントで弁解に終始して息苦しかったの何を上から目線でご高論を打ってくれるかわからないけど仕事中で時間がないって言ったの覚えてる?
「男の性欲を舐めない方がいい」「特にお前みたいな肉体をした女は」
何を言っているのかよくわからないが表情が一変しての饒舌に背筋が寒くなる。
そんなことを言って得意気になれるなんて得な性格してるわね。ええ、ええ、あなたみたいな人と距離を取って油断しないように気をつけるわ。

 食品偽装は結構どこでもやっている。あってはならないことだが、中には経営が傾いて止むなく手を付けた業者もある。この業界の厳しい競争の中で、非情な二者択一を迫られた場合、それを単純に悪と決め付け、魔女狩りのように糾弾するのは正しいと思わない。
 業者の良心に委ね、長期か短期か、つまり常習的に行うのではなく、経営が上向くまでの繋ぎとして手を染め、背水の陣に臨むのであれば食の神も背徳に目を瞑るのではないか。

 しかし当の彼は、人の心配をよそに自己弁護に終止している。
「ミケタ、いいや実子。こんな落ちぶれた実業家の俺なら、君の配偶者として相応しくない。君に近寄る資格もない、それはわかっている」泣きを入れれば、情に絆されるとでも思っているのかしら?意外に手詰まりになるのが早かったわね。もっと方便を弄する思ってたけど買い被りだったみたいね。
「眠い。真面目な話が退屈ってわけじゃないけど、何だか集中できない。誠意がない様に思えてか身が乗らない。ここは正直に行こう。
「ゴメン、また改めて聞かせて。店も閉めないといけないから」
「何だか身が入りにくい」
「でも実子、わかってほしい。君もリーダーとしてみんなの夢を背負っているが、俺はみんなの生活まで預かっているんだ。一度くらいの躓きで評価を下すことなく、もう一度俺にチャンスを与えてほしい。なあ実子」
 首を横に振るのも煩わしい。私はそんな尺度で男を測る女じゃない、それと恋愛感情はまた別だと言いたかった。
アタルは舌打ちをし、今度はナナの留守電にメッセージを入れている。
「やあナナ。わかっていると思うがミコの電話からかけている。これが何を意味している
か坊やの君でもわかるだろう。今無人の倉庫に実子といる。無論二人きりだ。因みに彼女は生まれた時と同じままの格好だ。いただきますは言っておかないとね『ある時固めのあるでん亭』の料理見習いアイが急に通ったオーダーに血相を変えた。「ナナ、もうとっくに時間過ぎてるわよ」どうして帰らないの「ウン、実は残業頼まれちゃって」
「本当、大変ね。早朝から農園も行っているんでしょう体壊さないようにね」「大丈夫だよまだ後二回程変身を残してあるから」「アンタはフリーザか」「あ、そうだ。じゃあ、ナナ悪いけど倉庫へ行って多輪和チーフ呼んできてくんない」「いいよ。どうして」『おなじみのお客様が見えているんだけど味にうるさいお客様なの多輪和チーフに出来を見ていただかないと」「わかった」

 でも、もう本当に終わったことだ、私はどうでもいいと思っている。私はアタルに何も期待していない。私よりもっと相応しい相手を探した方がいい。メッキが剥がれてもアタルに付いてくるような、またはメッキが剥がれたことに気が付かない、そんな相手を選んだ方がいい。
 それほど好きというわけじゃなかった。求婚されて悪い気はしなかっただけと言ってもいい。

 私にはその気がない、そうはっきり言うべきだ。アタルがどう思っていたかは知らないが、私は彼のことをナナのようにからかった覚えはない。思わせ振りな態度をとったこともない。
 でももう話を切り上げないと。何だか酷く疲れている。

 正直異常なくらい、眠い。

「楽になりなよ」 
  今の今まで、悲劇の主人公然としていたアタルは、いつもの余裕綽々の表情に戻っていた。その不敵な薄笑みを漏らし、疲労困憊の私を嘲るような目で見下している。
 眠い。こんなことならさっき紅茶じゃなくてコーヒーをもらうんだった。紅茶を飲んでから……紅茶、まさかアタル。
「何か入れたのね」
「まあ、そう気にすることもない。完全に体の自由を奪うほどの量でもないから」
「アタル、正気!? 何やってるかわかってるの」「なあにじゃじゃ馬慣らしさ。おてんばがかわいいのは10代までだ。手懐けられてロデオカウボーイの下でおとなしくしな!それと俺は抵抗された方が燃えるんだ」
 反射的に手を引っ込めた、つもりだった。アタルが汚らしい手で掴んできたのを避けたはずだった。惨めにも奴の言うことを聞くことになった私の左手は、小型の革製のボストンバッグを掴まされていた。
「何が入っていると思う?」
 固い金属質の物が入っている。アタルは掴んだ手を離したが、私の手はその固い何かを掴んだままだった。
 アタルはスーツのポケットからフェルト製の外装の小箱を取り出し、「これを君にプレゼントする。エンゲージリングだ。
アタルは自由の効かないままの左手の薬指に勝手にそれを嵌めた。
「もうこれでミケタは俺の物だ」
 全身に寒気が走った。
 奴は反応を試すように左手の甲を、粉物の生地を薄く鉄板に馴染ませるように舐めた。
 この後、全身にこれが及ぶのかと思うと生きた気がしなかった。 
 こんな奴を信じた自分がバカだった。残りの紅茶を顔に引っ掛けてやりたかった、だが手が、その手が動かない。
 そうだ携帯、ワークパンツのヒップポケットに携帯が入っている、ナナに電話を掛けなきゃ。何とかそれを掴んで。
  全身が痺れる。芋虫の蠕動のようにやっと体を動かし、汗を垂らしてヒップポケットに回した手をアタルが掴む。
「ミニボストンの中身は? 正解したら電話を掛けさせてあげる」
 恐らくこの世で一番醜い物を見ている顔をしていたはずだ。
「ヒント、見せて、と言ったら解答なしでも見せてあげる」
「……見せて」
 アタルはミニボストンのジッパーと自分のジーンズのジッパーを同時に指で摘み、結婚行進曲を口にしながら開けて中身を見せた。
「流出前提のマル秘映像はあるんですか? 実はあるんです」
ミニボストンの固い物はビデオカメラだった。
「粉モンだって昔はよかったが、バブルも弾けて以降陰りが常に付き纏った」
 粉もん屋三度笠、そうロゴが入ったビニールのパッケージを開け、家庭用お好み焼きの素を小指で麻薬の純度を確かめるように舐めた。
「見てくれ、このダサいパッケージを。俺はガキの頃からうちの店のダサい名前のお陰でどれだけ恥をかいてきたか」
 そうか、粉もん屋三度笠はこいつが一代で成したように振舞っているが、アタルの父親がネームバリューのある名前を捩って屋号に付け、楽しいイメージを定着させることによって得た成功なのだ。それを詰るなんてこの苦労知らずの穀潰しが。
「だが、どんな劣勢に見える戦況も勝機はある」
 

 アタルはヒップポケットから抜き出した携帯で誰かにダイヤルした。
「誰に掛けてるの、私の電話よ」
「誰ってもちろん、鳴沢クンさ」
「返して! 返しなさいよ!」
「断る」
「これから俺とミケタは愛し合う。その一部始終を彼に電話で実況してあげるのさ」 「繋がらない。運のいい奴め」そう告げて電話を切った。深い後悔の念が疲労した体を襲い、悪寒と共に全身が震える。

「アンタ何考え……」 
   それ以上は言葉にならなかった。頭の中が真っ白になった。心の中で、「ナナ、来ないで」 と繰り返した。

 

 何もかも終わりだ。そう、何もかも。

 ここでは嫌だ。この場所には、思い出がある。うまく行かなかった時、失敗した時、ここへ食材を取りに来る振りをして頭を冷やした。
 無言のロッカーに向かい、けして弱くないノックを何度も繰り返した。
 私の成長を見てきたロッカーの前で、私は……

「ハッハッハッハ」
 謎の高笑いが聞こえる。そこまで変態だったのか、アタルという男は。
「ハッハッハッ、ハッハッハッハ」
 謎の高笑いは一段と高くなった、声の主は大きく息を吸い、覆面で隠れた姿で見えを切った。
「そこまでだ深川中」
「何だお前は」
「俺は野菜に選ばれた男、レッドロータスマン」
 ああ、来てくれた、なぜか待っていた。
「貴様、ここをどこだと思っている、住居不法侵入で訴えるぞ」
「お前の食品偽装の方が重罪だ、厚労省の大臣に代わって、お前の悪行に裁きを下す!」
「お前鳴沢だろ」
 彼は投げ縄を放り、アタルの首に引っ掛けた。止めろ、と言ったのだろう。唸り声を上げてアタルはすぐおとなしくなった。
  
 しかし、彼の本当の力を知っている私は、これだけで済んでよかったと思う反面、悔しさに感情的になった怒りをぶつけたい衝動にも駆られた。だが自称ロデオカウボーイは投げ縄によって天井から吊るされた。

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